#03 私は自分が不幸になったとは考えておりません
※短編に一部加筆をしています
そんなオトマールと私との婚約解消は、瞬く間に人々の知るところとなった。それ自体はどうでもいいといえばどうでもよかったのだけれど、婚約解消の席で起こったことが噂となり、尾ひれから背びれまでついて広まっていたのだ。
「レディ・エレーナのお話を聞いたか? 長年連れ添った婚約者を失い、悲しみのあまりご乱心なさったそうで」
「なんでも、婚約者の浮気に怒り、文字通り煮え湯を浴びせたと」
「おや、私は陶器で頭を叩き割ったとも聞きましたが」
「オトマール様は九死に一生を得たそうな」
「新たにオトマール様と婚姻したヒルデ様も、子を堕胎しろと詰られ、陶器の破片で腹を刺されるところだったとか」
「子には何の罪もないとオトマール様が必死に宥めるも、聞く耳を持たなかったそうで。いやはや、女性というのは怖いですな」
「女性というか、レディ・エレーナがですな。あの赤い髪を振り乱す姿、まるで嫉妬の炎の具現であったと」
「しかし、ドナート伯爵はお心が広い。こんなことがあっても、あのお方はご令息の元婚約者を決して悪く言わないのだから」
オトマールと婚約解消しても悲しくもなんともないし、私は正気だし、オトマールにかかった紅茶は熱かったけれど飲める程度には冷めていたし、紅茶のカップは割れたけれどオトマールの頭は残念ながら割れなかったし、私はヒルデに謝罪を要求しただけだし、オトマールにも子を盾にするなと言っただけだし。それだけ事実と違うのだから、ドナート伯爵にも悪く言われる筋合いはない。
けれども、人の噂というのは面白可笑しいほうに増長するようにできている。人々はこぞって私を「浮気にブチギレて元婚約者とその浮気相手と子を殺しかけた令嬢」と指差す。
それだけなら構わなかったのだが、噂が広まり数ヶ月経つ頃、余波は我が家にも及んだ。
「話の分からない連中はこれだから困る」
宮殿から帰ってくるなり、父は苛立った顔でそうぼやいた。
「エレーナがオトマールの浮気に怒りその子共々殺そうとするなど、あるわけがないというのに。体裁が悪いの一言ですべて済ませようというのだから」
話を聞くところ、今回の噂を受け、父の宮殿での立場が危うくなっているとのこと。
現在の宮殿は、親王国派内でもふたつの派閥――それぞれの筆頭伯爵家の頭文字をとってN派とO派にわかれている。帝国の発展も見据えてその党争は苛烈を極めており、互いにどんな弱味もさらけ出してなるものかとやり合っている真っ只中での、この噂。父は、N派筆頭伯爵から「体裁が悪いから」と暗に日陰に追いやることを示唆されたそうだ。
ちなみにヒルデのゲイラー家はO派で、なんなら筆頭伯爵に目をかけられて帝都に舞い戻ったらしい。そう聞くと、ドナート伯爵が今回の噂にだんまりを貫いている理由も分かった。ドナート伯爵家もO派、その立場上、下手にN派の父を庇いだてするわけにはいかないのだろう。
噂の悪影響は、さらに私の兄・弟妹にも及んだ。母と弟の会話に聞き耳を立てていた私は、兄の夫人が里帰りしていること、弟妹がそれぞれ婚約者から婚約解消の相談を受けたことを知った。
「エレーナには秘密にしておきなさいよ。あの子はなにも悪いことなんてしていないのに、こんなことを知ったら余計に責任を感じてしまうから」
両親は庇ってくれているものの、私が家の疫病神状態になっているのは明らかだった。
私が未婚のまま生涯を終えるのはいい。しかし、両親や兄弟がその割を食うのは納得がいかないし、どうにかして防ぎたい。
しかし、噂は広まってしまっているし、派閥争いまで絡んでくるとお手上げだ。令嬢の私は政治に口出しできる立場にない。
それに、確かに、話し合いの場でオトマールの顔面に紅茶をカップごと叩きつけたのは悪かった。やるならヒルデがいなくなった後にやるべきだった。
となれば、私が責任を取ろう。そう決めて、父に進言した。
「しばらく帝都を出ようと思います」
「なにを馬鹿なことを言っている」
もちろん最初は一蹴された。
「噂のことを気にしているのだろうが、大したことではない。そのうち収まるものだろうし、私とて失脚したわけではない。お前の弟達のこともそうだ、噂を鵜呑みにする愚かな者達など、これを機に婚約を再考できてよいと考えておけばいい」
「さすがにそれは希望的観測が過ぎます。ひとたび斬り捨てた忠臣を再度取り立てることは考えにくいですから、こう言ってはなんですが、お父様がN派で返り咲くことは難しいでしょう。ここはひとつ保険も兼ねて、ヒルデのゲイラー家には恩どころか媚びを売っておくほうがいいのではないでしょうか」
ゲイラー家に詫びを入れ、私を「非常識な行動に出た娘」として追い出すことでその誠意も示せばよい。O派にいい顔ができるし、しかしあくまでも礼儀として当然という顔をしていれば、N派にも睨まれることはない。二枚舌のようで気は進まないが、立場を守るためにはやむを得ないこともある。
そう説明すれば、愛娘の顔に泥を塗られたどころか非を認めるような行動をとるなど到底受け入れられないと猛反対された。
しかし、この噂は兄や弟妹の人生も左右しかねない。それを含め懇々と説き続け、一ヶ月経つ頃、ようやく父は首を縦に振った。当初の懸念のとおり、父の政治的立場に暗雲が立ち込め始めていた頃だった。
その代わり、さすがに一人でポイと放り出されることはなかった。母方の親戚・ゲヘンクテ辺境伯の領地で暮らせるよう、両親が手配してくれた。
「そのくらいしかしてあげられなくて、ごめんなさい、エレーナ。オトマール様との婚姻も、私達が良かれと思って決めたことだったのに、あなたを不幸にしてしまって」
「なにもなんてとんでもありません、お母様。それに、私は自分が不幸になったとは考えておりません」
私は、自分が幸せかどうか考えたことはなかった。だから幸せなのだと思っていた。それは半分本当だった。
しかし、オトマールとの婚約に関しては、幸せでもなんでもなかった。オトマールは穏やかで優しかった。しかしそれだけだ。しいていうなら顔も良かった。しかしそれだけだった。裏を返せば優柔不断でうだつのあがらない男だった。
でも、そういうものだと思っていた。婚約者なんて家同士が勝手に決めるものだ。友人には、妻を亡くした一回り年上の男と婚姻を決められた者や、婚約後に散々に家の金を搾り取られた挙句に一方的に浮気の疑いをかけられた者さえいた。その点、オトマールは年も同じだし、ドナート伯爵もできた方だった。自分の婚約は恵まれているのだと信じて疑わなかった。
だが、そうではない。オトマールの穏やかさはうすらぼんやりの裏返し、だからほいほいヒルデと子どもを作り、挙句に事の顛末をすべてヒルデに言わせる羽目になる。そんな男と結婚してしまったら、私は幸せではなくなっていただろう。
「こういうものをマッチポンプと言うのかもしれませんが、それはさておき、婚約解消後に家に閉じこもるでもなく新たな門出を迎えることができるとは、私はなかなか幸せ者です。そう悲観しないでください、お母様」
そうして私は家を出て、帝国の北にあるカッツェ地方へと旅立った。オトマールとの婚約を破棄して、半年が経つ頃だった。