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#29 照れるより先に殺意が湧いた

 どうしてこの屋敷には使用人がいないのか。そんな我儘を考えたことはなかったのだが、この日だけは後悔した。


「ノルバート様と出掛けるのに……髪を結ってくれる人がいない……!」


 アンティーク調のドレッサーの前で拳を握りしめた。鏡の前の自分の髪型は、後頭部でひとつに髪を結んだだけの半使用人スタイルだ。ホルガーお兄様の城で働いているときと同じで、出掛けるのに可愛げもなにもない。せめてもの救いは、帝都から一枚だけお気に入りの春ドレスを持ってきていたことだ。


「こんなことなら待ち合わせ場所を町にしておくべきだった……あっでもノルバート様には一人で出歩くなって言われてたし……どちらにしろ無理な話だったのね……」


 がっくりと肩を落とし、もう一度髪をほどき、どうにか可愛らしく結ぼうと努力する。今まで帝都の屋敷でしてもらってきたことを見よう見真似で再現しようとするが、私は生来この手のことに向いていないのでさっぱりできない。しかし……、どうせ毎日城と家で顔を合わせている関係だし、いまさら着飾ったところでノルバート様の気を引けるはずもないかもしれない。

 ……気を引ける? はっと手を止めて、鏡の中の自分を見つめた。ノルバート様の気を引く……? なんのために……?


「……いや、だって、もうすぐ屋敷を出ていってしまうし……いやそんなの理由にならないわよね……最後くらいいい格好したいとか……いやだからそれは理由になってないのであって……」


 ブツブツと一人で考えているときに扉をノックされ「ギャアッ」とはしたない叫び声をあげてしまった。


「レディ・エレーナ、どうした? 何かあったのか?」

「大丈夫です少々驚いてしまっただけです!」


 心配してくれるのは嬉しいが部屋に飛び込まれてはたまらない。扉の向こう側に向かって一息に叫んだ。


「どうかなさいましたか? あっもしかしてもう馬車が来てますか?」

「それは気にしなくていいが、季節の変わり目で体調でも崩しているのではないかと思っただけだ。なにもないなら構わない」

「すみませんお待たせしておりまして!」


 はい、馬車は待たせているのですね! 立ち去る足音を聞きながら、仕方なく櫛を置き、髪はおろすだけにしておいた。小手先だけ可愛くするよりも相手を待たせない礼儀のほうが大事だ。

 が、リビングに降りた瞬間にショックを受けた。ノルバート様は着飾っている……!

 いや、冷静になって見れば着飾ってはいない。むしろ仕事着と違って飾緒がないぶん、文字通り飾っていない。それなのになぜ着飾っているかのように一層優美に見えたのか。……ノルバート様には藍色が似合い、またその髪色と銀ボタンが絶妙にマッチしているのだということにした。全体的に色素が薄いので濃い色をまとうと締まって見えるのだろう。

 そのノルバート様は、私が降りてきたのを一瞥して確認するとすぐに立ち上がり「急かしてしまったようですまない」とだけ口にした。よっぽど長い時間馬車を待たせてしまったのだろう。反省したし、出だしから最悪で落ち込んだ。

 しかも、馬車に乗るときにつまずいた。いつもよりレースの多いドレスを着ています、慣れていませんと言っているようなもので恥ずかしかったし、なによりノルバート様の胸に飛び込むような形で抱き留められたのでその意味でも恥ずかしかった。


「ももも申し訳ありません! 服が汚れたりしませんでした!?」

「大丈夫だ」


 しかも、ノルバート様はいつもよりさらに言葉が短かった。

 馬車に乗った後も沈黙が流れていた。たまに「暖かくなりましたね」「城の手前にある花畑ももうすぐ見頃ですね」「雪が少し懐かしいです」と口にしてみるものの、「そうだな」「そうらしいな」「そうか」と返ってくるだけだった。まるで初めて会ったときに逆戻りだ。いや、あの頃のほうがまだ会話が続いていた気がする。

 私が待たせてしまったせいでお怒りに……? いやノルバート様はそんな心の狭い方ではないはず……だがしかしそうでなければこの態度は一体……? 悶々と考え込んでいたせいで馬車が止まったことに気付かなかったし、ノルバート様が先に降りても動けなかった。


「レディ・エレーナ、大丈夫か?」

「あ、はい! 大丈夫ですすみません!」


 そうしてただでさえ動揺しているところに、馬車の外から手を差し出されてかつてないほど動揺した。この手を……とれと……? 脳裏にはスコーンを食べているときの姿――というか指が浮かんだ。

 ので、自分で自分の頬を叩いた。ノルバート様がギョッと顔をひきつらせる。


「……どうした?」

「いえあの。……少々反省を」

「何のだ?」


 ノルバート様の態度を見る限りご迷惑をおかけしているように思いましたので――と口にするか悩んだ。


「……今日は、その、お待たせしてしまいましたし……仕事であれば許されないことをしてしまったと……」

「大して待っていないし、現に仕事でないのだから気にする必要はない。それより、外に出てみるといい」


 そういえば、どこへ行くのかは聞かないままだったな……。ここ最近のノルバート様は帰りが遅く、引越し準備もあって夕食を共にする暇もなかかった。お陰で今日どこへ行くのか聞いていなかったのだ。馬車の中は緊張してそれどころではなかったし。

 おそるおそるその手に指をのせると、軽々と、しかし力強く引かれた。オトマールの引っ張り方は指を引っこ抜こうとしているかのようだったのに、ノルバート様の動きは体を支えてくれるのが分かる。なにがそんなに違うのか、謎だ。お陰でドキドキしてしまった。

 そして外を見て――「わ、すごい……」思わず感嘆の声を上げてしまった。馬車を停めた道の向こう側に、湖がある。

 その湖は、あまりにも美しかった。エメラルドグリーンという宝石の名は、きっとこの湖にちなんでつけられたに違いない。そう思わせるほど美しいグリーンの水面が輝いている。湖底に沈む石を一粒一粒数えることができそうなほど透きとおっていて、妖精が住んでいると言われても驚かない。背後にはそのいただきの白い山脈がそびえたち、湖が鏡となっていた。


「すっごい……すごい、とってもきれいですね!  こんなにきれいな湖、初めて見ました! しかも……半分凍ってる……?」

「ああ、今年はいつもより早い春がきたからな、雪も氷も溶けている。普段はもうしばらく先にならないと見ることができないんだが、見ることができてよかった」


 間違いなく、帝国内屈指の絶景だ。ノルバート様を見るのも忘れて「これ近寄っても大丈夫ですか!?」「大丈夫だが、どちらかというと砂利道にそのドレスは……」なんなら止められるのも聞かずにドレスをたくし上げ、ほとりへと走った。

 近づいてみると、その水はさらに透きとおっていた。まるでお伽の世界に飛び込んだみたいだ。この水面の向こう側には別の世界があったりするのかもしれない。年甲斐もなくわくわくして、指先だけそっと触れさせた。


「わ、冷たい! 氷も浮いてるし、本当に溶けだしたって感じ……本当にすごい、こんなにきれいな湖があったのね」


 指を動かすと水面に波紋が広がる。たったそれだけなのになぜかはしゃいでしまい、ぱたぱたと指を動かし続けた。箸が転んでもおかしいお年頃というヤツかもしれない。


「ノルバート様、ノルバート様もいらしてください! すごくきれいですよ、きれいすぎてきれいしか出てきません――」


 振り向くと、ノルバート様も降りてきながら、しかし笑っているのを見て口を噤んだ。きれいきれい、我ながらとんでもなく馬鹿なことを口走っていた……。まるで言葉を覚えたての幼児だ。


「……すみません。つい……、つい、興奮してしまい」

「いや、そう喜んでもらえると連れてきた甲斐がある。正直、歓迎といってもどこへ連れていけばいいのか悩んでいたんだ。日頃案内するのは酒好きな老人くらいだからな」


 隣までやってきたノルバート様は、私と同じように屈みこみ、しかしこちらを見て微笑んだ。


「馬車にいたときより顔色もよくなったな。よかった」


 このッ……! その微笑みを見て照れるより先に殺意が湧いた。この至近距離でそんなに可愛い笑い方をしないでください!


「そ、そうでしたか、少々馬車に酔ってしまっていたのかもしれません。でもこのあたりは空気がきれいですね、少し風も冷たくて気持ちがいいですし!」


 さっと顔を背けた私とは裏腹に「山から冷気が降りてくるからな」とノルバート様はいつもどおり平然と相槌をうつ。


「真冬の雪景色もきれいなんだ、真っ白い世界にこの湖だけ浮いているような、幻想的な風景になる」

「あら、じゃあ来年の冬も来なければ!」

「そうだな、港に比べれば寒さもマシだ。それに、真っ白い世界にこの湖だけ浮いているような幻想的な風景になる」


 ……いま同じことを言わなかったか? はて、と首を傾げるとノルバート様の横顔が固まった。


「……いま同じことを言ったか?」

「はい。珍しいですね、引越しの準備もでお疲れなんでしょう」

「……疲れているつもりはないんだが」


 本当に珍しく少し狼狽した様子になり、顎に手を当てたノルバート様は、そのまま口元まで指で覆い隠した。


「……今日は一段ときれいだろう」

「湖がですか?」

「……いや君が」


 ……私が? この湖を前にして、私がきれいだと?

「だから何を話せばいいか、馬車の中でずっと考えていたんだが。考えていたことしか出てこなくてすまない」


 ……“この天然女たらしめ”、いつしか心に抱いた文句を、しかし今も抱けるほど、私に余裕はなかった。


「……お誉めいただき、光栄です……」


 風が冷たいと言ったばかりなのに、耳まで熱いのを感じた。

 これは……、これは、少々、マズいことになった。まだお昼にもならないというのに、今日一日、私は平静を保つことができるだろうか。

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