#27 ドナート伯爵家の嫁という肩書
ひと段落ついたところで、再び珍獣側のお話です。
お兄様が宮廷裁判にかけられるため幽閉され、いまはカッツェ地方から送られてくる最中である――お父様から受け取った手紙を読んで「嘘!」と大声を上げてしまい、寝ていたウーヴェが「あーん……」と呻き始めた。
でも、今はそれどころじゃない。お父様に会いに行かなければ、いやその前に手紙を燃やさなければ――と右往左往していたとき、扉のノック音が響いた。
「失礼するぞ、ヒルデ」
「ドナート伯爵!」
慌てて手紙をウーヴェの寝床に隠し、頭を下げた。その直前に見えたドナート伯爵は、いつもと違って険しい顔をしていた。
まさか、この手紙の内容を既に知って……? 顔を上げると、伯爵夫人と、そして……少し青い顔をしたオトマールも部屋に入ってきた。その後ろからは少し年上のメイドも入ってくる。いつもエレーナのことばかり話すイヤな人で、私のもとへやってきて「お腹が空いているのかもしれません」とウーヴェを引き取り、紅茶も出さずに出て行った。
しかし、ドナート伯爵は構う様子もない。夫人とそろってソファに座り、じろりと私達を睨んだ。
「ヒルデ、オトマール、そこに座りなさい」
「は、はい」
いつもより上擦った声でオトマールが頷き、ガタガタと転げるようにソファに座る。私も、そっとその隣に腰を下ろした。
「ヒルデ、君の兄君に当たるベルント・ゲイラーがゲヘンクテ辺境伯に詐欺を働いたことは知っているか」
やはり、知られている。心臓が氷原に放りだされたような感覚が走った。
「……はい。存じ上げております」
でも、私はオトマールと結婚したのだから、ドナート伯爵が守ってくださるはず。ぎゅっと膝の上で両手を合わせていると、ドナート伯爵の目が私を見た。
「率直に申し上げて、我がドナート家は君を庇い立てするつもりはない。オトマールと共に、我が家を出てもらう」
「は……?」
は……? その目を見つめ返しながら、瞠目せずにはいられなかった。何を言っているの、ドナート伯爵は。
隣のオトマールは「いや、でも、父上」ともごもごした。
「その、さっきも話したけど……ヒルデは関係ないんじゃないかな」
「え、ええ! 私は関係ありません、あくまでそれはオーム伯爵が企んだことです!」
我に返り、慌てて声を張り上げる。
私は詐欺に加担していない。でも、こうなってしまった以上「ゲヘンクテ辺境伯に詐欺を働き金を巻き上げようとした卑しい家の令嬢」との誹りは免れない。せめてドナート家の名に守ってもらわなければ。昔の生活になんて、戻りたくない。
「オーム伯爵がこの話を持ってきたことを、君は知らなかったのか? ベルント殿がオーム海商の責任者になり、一家は屋敷まで用意されて帝都に移り住むことができたというのに、その理由を何も知ろうとしなかったのか?」
「そんなわけありません、お義父様は私のことを見くびっていらっしゃいます。私はそのように愚鈍ではございません!」
勘違いだ。なにかの間違いだ。ドナート伯爵の静かなまなざしを真っ直ぐ見つめて身を乗り出した。
「オーム伯爵がこの話を持ってきたとき、確かに私は会合に同席しておりませんでしたが、その内容はこの耳でしっかりと聞いておりました。もちろん、すべての責任をオーム伯爵が引き受けるということも含めてです。我がゲイラー家の再興をかけたチャンスを、私が逃すはずありませんでしょう!」
ドナート伯爵が驚いたように目を瞬かせ、夫人も目を丸くした。温室で育てられたただのお嬢様だとでも思われていたのだろうか、そうだとしたら心外だ。
「ゲイラー家は反王国派の失脚に伴い辛酸をなめてきました。だからこそ私は、何もかも勝手に与えられて育った甘えた女とは違うのです!」
エレーナのように――とは口に出さなかった自分を褒めたかった。この家の人間は誰も彼もエレーナの味方だから、名を出すだけで立場が悪くなってしまう。
沈黙が落ちた。お父様もオトマールも何も付け加えなかった。でも期待していない、お父様はともかく、オトマールは私の肩を持ってくれたことなんてないのだから。
「……君と話そうとした私が間違っていた。いや、むしろ今の話でいよいよ、自分が間違っていたことを理解した」
「どういうことですか」
「あくまで詐欺を働いたのは兄君であるし、もちろん君が兄君と通じていたとは思っていない。それに君は愚息に嫁いだ身、ドナート家の一員として風評被害から守るのが筋だとも考えた」
「考えた、って……」
「ドナート家当主として、そんなくだらぬ義理立てをする必要はないと判断した」
どういうことなのか、さっぱり分からなかった。家を出ろと言ったり、ドナート家が守ると言ったり、私の話をまったく聞かなかったり、結局ドナート伯爵は私をどうするつもりなのか? オトマールを見たけれど、さきほどから膝を見つめるばかりでちっともこちらを見ない。
「……そもそも、我が家が君達の婚姻を認めたのは、オトマールにも責任があったから、そしてなによりウーヴェを身籠っていたからだ。どんな子にも、明るい将来が与えられるべきだからね。しかし……、しかし本当に、君には失望しっぱなしだった」
深い溜息と共に、ドナート伯爵は“問題行動”を列挙した。使用人への大きな態度、高価な装飾品類の無断購入、仮面舞踏会からの朝帰り、ウーヴェを置き去りにした旅行……。
でも、だって、主である私が使用人に威厳を見せるのは当たり前じゃない。婚姻したんだからお小遣いを制限される理由はないじゃない。オトマールはどこにも連れて行ってくれないし、どこに出掛けようが私の勝手じゃない。ウーヴェだって、ずっとお世話をしていたら疲れちゃうわ。
そう反論したかったけれど、できる空気ではなかった。
「挙句の果てに、父君と兄君が詐欺に加担するのを見て“家を再興するチャンス”か……。そんなことを堂々と口にするなんて、どうかしている」
「でも……そうでもしないと、我がゲイラー家は……」
「君は本当にどうかしている。オトマールと揃ってエレーナのところへ出かけたと知ったときも絶句したがね」
「は? 揃って?」
まさか、オトマールもエレーナに会いに行ったっていうの? 顔を見るより先に、オトマールは「いや、その、僕の場合は……」と口籠る。
「その……君はエレーナと違ってなにもしてくれないから、少し怒ってもらおうと思って……」
「は? なにそれ? つまりエレーナに私の悪口を言いに行ったってこと!? 大体、どうやってエレーナの住まいを知ったのよ!」
私は、エレーナが父親に宛てた手紙を手に入れて知った。もともと、帝都を出て行ったエレーナがどんな暮らしをしているのか知りたくて、差出人がエレーナの手紙が届いたら渡してほしい、と郵便屋にお金を渡していたのだ。温室育ちのエレーナはさぞかし苦労していることだろう、そうして満を持して届いたその手紙には「お兄様にもその臣下の方にも大変よくしていただいていて、とても充実しています」なんて書いてあって、だったらドナート家で酷い目に遭わされてる私を助けてよって……。
「僕は……、君の部屋にあった手紙を見つけただけだよ……」
「あなた、私の部屋にあるものを勝手に盗み見たわけ!?」
「盗人猛々しいとはこのことか……」
ドナート伯爵は「本当に、呆れてものも言えない」と深い溜息を吐いた。
「辺境伯から抗議の手紙が届いて驚いた、まったく恥ずかしい」
「誰がエレーナを訪ねようが勝手じゃありませんか!」
「もちろん辺境伯はエレーナを訪ねたこともお怒りだ。しかしそれより、O派貴族がお忍びでカッツェ地方を訪ねるなどあってはならん。ゲヘンクテ辺境伯が頑なに中立の立場にあるのを知らないのか」
なんで? だめなの? カッツェ地方はグライフ王国と隣り合わせだし、辺境伯が頑として派閥に与しないのもちゃんと知ってるけど、そんなに問題なの? 膝の上で拳を握りしめれば、ドレスが汗でじんわりと湿った。
「ただ、政治の話はいまはいい。なぜ、この期に及んでエレーナに迷惑をかけるのか、君の愚かさに絶望したという話だ」
だって、迷惑とかそれ以前に、エレーナには、元婚約者としての、責任が……。
「将来の娘と思い可愛がっていたエレーナにも、エレーナをオトマールの嫁にと決めてくれたランセル伯爵にも、大変な不義理を働いてしまった。頭を下げようにも門前払いばかりで、愚息を勘当すべきかと苦慮し、それでも、愚息が愛した女性とその子のためならばと判断し、婚姻を認めたのだが……私が間違っていました。我がドナート家は、君達を即座にこの家から放り出すべきだった」
不義理って、どうせ、ただの政略結婚でしょ? オトマールはエレーナより私がいいって言ったんだもの。私と結婚できたらいいってオトマールが思ってたんだもの。私はエレーナと違ってオトマールに愛されたんだもの。大体、エレーナだって、噂にも全然傷つかないでしれっと素敵な殿方と暮らしてるんだから……。
そのどれもが声にならなかったのは、いつも穏やかなドナート伯爵の目が、静かな怒りに燃えていたからだった。
「オトマール」
「は、はい」
伯爵に名を呼ばれ、オトマールは肩を震わせる。
「お前もヒルデも、ドナート家の一員に相応しくない。そして……ウーヴェの親である資格もない。明日、ヒルデと帝都を出ていけ」
「は……」
「そん……そんなの、あんまりです!」
でもなんとか、それだけは声になった。帝都を出ていくなんて、しかもオトマールと二人でなんて冗談じゃない。私はせっかく、ドナート伯爵家の嫁になったのに。
「申し上げたじゃありませんか、私はオーム伯爵の詐欺に関わっておりません! それに、お義父様が指摘なさったどれもこれもに理由がございます! エレーナだって、婚約破棄されてもちっとも傷ついてなんかいないんです、だって――」
「黙りなさい!」
落雷のような怒号に、私もオトマールも首を竦めた。
「二人で帝都を出ろと言われ、ウーヴェを心配することもしないのか。恥を知れ!」
あまりの剣幕に私達が言葉を失い、そこで夫人が初めて口を開く。
「ウーヴェは私達が養子として引き取ります。ウーヴェが大きくなる頃、貴方達が立派な親を名乗ることができるようになっていれば会うことを許しましょう」
「……そんな権利が、あるわけ……」
「もちろん、母親のもとで育つのが子の一番幸せでしょう。でも、貴女のような愚かな母親のもとではそうではないわ」
なにそれ、なにそれなにそれ。怒涛の勢いですべてを奪われていき、今度こそ一言も発することができなくなっていた。
「話は戻るが、ゲヘンクテ辺境伯は、お前たち二人が勝手にカッツェ地方を訪れたこと、何よりエレーナに迷惑をかけたことに大層ご立腹だった。首から上がある状態で辺境伯の領地を踏むことは許さないとのことだ」
ドナート伯爵と夫人だけが立ち上がる。まるで私とオトマールは、この家から切り離されてしまったかのようにソファから腰を上げることができなかった。
「明日までの時間と、片道分の馬車は用意しよう。それまでの間、共に荷造りでもすればいい。二度とこの家に戻ってくるな、お前がドナートの姓を名乗ることも許さん」
二人が出て行くとき、私は、ドナート伯爵家の嫁という肩書も失った。
次回はまたエレーナ達のお話です。評価が5/5で五度見くらいしました。ありがとうございます。