#21 幸せな結婚をしたはずなのに
"ねえヒルデさん、義姉の私が口を出すべきじゃないかもしれないけれど、他の若い伯爵令息が主催なさる夜会にばかり出かけるのはどうかと思うの。そりゃお付き合いはあるわよ、伯爵令息夫人なんだから。でもそれならオトマールを連れて行くのが筋じゃない? 貴女がそうやって出歩いているのを見て、男漁りをしていると言う人がいるの。問いただすことはしないけれど、我がドナート家の嫁にきたんだから、我が家の名に泥を塗るようなことはやめてもらえる?"
義姉は、甥を見にくるという名目で部屋までやってきて、しかし説教じみた口調でそんな話ばかりして帰って行った。その後も何やら話し声が聞こえるのでそっと扉を開けると、年嵩の使用人が「ヒルデ様には困ったものですね」とまるで私が悪者のように義姉に話している。義姉は「まあまあ、まだ噂なんだからマシなほうよ」と溜息混じりに頷いた。
「でも、エレーナ様でしたらこんな噂は立ちませんでしたよ。エレーナ様はいつもオトマール坊っちゃまの手を引いて他の伯爵令息に顔を見せてまわってくださいましたのに」
「やめなさい、エレーナは我が家の嫁に来なかったんだから。しかもそのオトマールのせいでね。エレーナだって迷惑よ、いつまでも私達がエレーナのほうがよかったなんて言っていたら……」
後ろ姿が遠ざかり、それ以上は聞こえなかった。じとりと義姉の背中を睨みつけた後、部屋の中に戻って深い溜息をつく。
この家の人はみんなそうだ。みんななにかにつけて「エレーナだったら」と口にする。私の前では口を噤んでいるけれど、私が何かを口にするたびに「エレーナだったら違ったのに」とその目が雄弁に告げている。それでもって今日は遂に、お義姉様はまるで"エレーナだったらこうしていたから……"と言わんばかりの説教をしていった。
お義姉様は夜会に出かけるなと言うけど、そうやってみんなが私を邪険に扱うから居心地が悪いのよ。オトマールを連れて行けって言われたって、オトマールが嫌がってるのが分からないのかしら。不愉快さを紛らわせるために紅茶とお菓子でも持ってこさせようかと思ったけれど、使用人らの態度を見ると一層腹立たしい気持ちになりそうでやめた。
そこへ、扉がノックされ、返事もしないうちから「ヒルデ、ウーヴェの様子はどうだい?」なんてオトマールが入ってきた。
「ねえオトマール、いつも言ってるでしょ、ちゃんと返事を待ってよ」
「いいじゃないか、夫婦なんだから。見られて困るものなんてないし」
デリカシーのない返事にイラッときたのに、オトマールは全く気づかない。それどころかウーヴェの寝台へ向かって「よく寝てるねー」なんて抱き上げようとする。
「ちょっとやめてよ、さっきやっと寝てくれたのよ! わざわざ起こすようなことしないでよ!」
「さっきまで姉上が来てたんじゃないの?」
「そのお義姉様が寝かしつけてやっと寝たの! 声だってもっと小さくしてよ!」
なんで怒られるのか分からない、そんな表情で首を傾げたオトマールにもう一度口を開こうとすると、「ふっ……」とウーヴェの声が聞こえた。最悪だ。見れば、その丸い顔をくしゃくしゃに歪めていた。
そして「アーーーン!!」と耳を塞ぎたくなるような泣き声をあげる。ダメだ、完全に起きてしまった。
「ああもうっ、起きちゃったじゃない!」
「でも赤ん坊って泣くものなんだろう?」
「でもいまは寝かせてたの! もう、いいから早く乳母を呼んでよ」
「いいじゃないか、たまにはヒルデが抱っこしてあげれば。君は母親なんだから、ウーヴェも可哀想だよ」
オトマールがウーヴェの頭を撫でると、ウーヴェはさらに泣き出し、オトマールは慌てたように手を引っ込めた。
「あ、ほら……ヒルデ、早く抱っこしないと」
「たまにはオトマールが抱っこしてよ、私ばっかりで疲れてるんだから!」
「でもそれは母親の君の仕事じゃないか。それに、僕がいくらあやしても泣き止まないし」
そそくさとオトマールはソファに座って「紅茶でも飲みたいな」とぼやきながら呼び鈴を鳴らし、でもウーヴェの泣き声にかき消されたので「赤ん坊って本当に大声で泣くんだね」と私に困った顔を向けた。
それを無視して、私はウーヴェを抱き上げる。でもウーヴェはより激しく泣くばかりだ。
こんなはずじゃなかったのに。私も泣き出したい気持ちでいっぱいだった。
エレーナに婚約者としてのオトマールを紹介されたとき、私は衝撃を受けた。だって、その見た目も身分も、あまりにもできすぎていたから。
ブラウンの髪と淡いブルーの瞳は、優しく端正な顔立ちにぴったりで、名門伯爵家の令息だというのに威張ることもない柔らかい物腰。帝都に戻ったばかりの私にも、事情を聞かずに優しく接してくれて、裕福さゆえの余裕があらゆるところに滲み出ていた。
それに、ドナート伯爵といえば、政治的な発言力はあまりないものの、古くから続く名門貴族、目立たないけれど結婚相手としてはこれ以上ない家。しかも、伯爵夫人やオトマールの兄姉達もいい人だというのは、エレーナの様子を見て知っていた。
私が結婚したい。次に思ったのはそれだった。隣に立っているエレーナは、美人だけど性格が強すぎて、オトマールには合ってない。私のほうがお似合いだという確信があった。
だからオトマールを誘ったら、案の定、オトマールはエレーナに辟易していた。母も姉もみんなエレーナの味方をするから言えないけれど、伯爵令息だからなんて理由でサロンに引っ張り出されてあちこちの伯爵に挨拶させられるのは勘弁なんだと。
『その点、ヒルデは見た目からして優しくてお淑やかだし、押し付けがましくもないし。ヒルデみたいな令嬢と婚約していたら、違う未来があったのかもしれないなあ。でも婚約は家が勝手に決めるものだからね……』
残念そうに話していたオトマールに、子供ができたと報告すると、いつもの優しい眼差しで嬉しそうに笑ってくれた。
『ヒルデみたいな令嬢と結婚できるなんて、夢みたいだなあ』
私だって夢みたいだった。一時は政治的な立場を理由に帝都を追われる羽目になり、戻ってきたときには、年頃の令息にはみんな婚約者がいた。まともな結婚なんてできないと思っていた矢先、名門伯爵家の、しかもとびっきり優しい令息との間に子供を持って結婚して、相手の家にも祝福される……。エレーナは家同士が勝手に決めた婚約に乗っかって幸せになろうとしていたけれど、私は違う。夢みたいな幸福を自分の力で手に入れた、そう思った。
それなのに、いまの私は……。ドナート家からは使用人も含めて腫れ物扱い。ウーヴェがしょっちゅうミルクを吐くせいでお気に入りのドレスを着ることはできないし、夜はろくに寝ることもできないし、たまには羽を伸ばそうと出歩けば夫を置いて遊ぶなと言われるし、そのオトマールは……。こうしてウーヴェが泣いている間も、自分には関係のないかのような態度で座っているだけだ。
やっとウーヴェが泣き止んだ頃、疲れきった腕で抱っこしたまま「ねえ、今度ライアー街道に連れていってよ」と誘ってみた。夫と一緒なら出かけてもいいというのなら仕方ない、オトマールに連れていってもらおう。
「ライアー街道に?」
「この季節は綺麗な花が咲くのよ。少し肌寒いけど、ショコラでも口にしながら見たら楽しいんじゃないかしら。ね!」
「んー……そっか、じゃあ手配しといてくれて、その日になったら声をかけてよ。空いていれば行くから」
「空いてればじゃなくて、オトマールが行ってくれないとまた私が怒られるのよ! 大体、手配しておいてくれだなんて、そうやってオトマールはいつも何もしてくれないじゃない!」
「でも、そういうのは妻である君の役目だろう? 何もしてくれないって言われても、どうせ君はウーヴェの世話をしなきゃいけないし、僕だって色々と忙しいんだよ」
「いっつもそうやって言い訳ばっかり! 大体、私がエレーナをいじめて北国に追いやったって噂だっていい加減にどうにかしてって話したでしょ? あれはどうなってるの!」
「だから、その話は君の家でどうにかすればいいんじゃないかって話しただろう。そもそもエレーナがカッツェ地方なんかに行く羽目になったのは君のせいで間違いないじゃないか。いや君がいじめたとかじゃなくてさ」
私のせい? 睨みつけると、オトマールは慌てて付け加えた。
「エレーナはこの年で結婚できなくなって、恥ずかしくて帝都に留まってなんかいられなかったんだよ。ヒルデがいじめたわけじゃなくてもさ、まあ、エレーナを差し置いて僕と結婚したら、そういう言い方をされるのは仕方ないんじゃないかなって」
「だから私に我慢しろっていうの? 結婚したんだからそのくらいの責任は取ってよ!」
「でもそんなことになるなんて思ってもみなかったし……」
私達が激しく口論していたせいで、腕のなかのウーヴェが「うっ……」と再び目を開ける。まただ、またご機嫌ななめのお目覚めだ。
オトマールは、それを見て「うわ」と面倒そうな顔をして立ち上がった。
「ちょっと、話は終わってないわよ!」
「いや、だからいいじゃないか。ほら、エレーナは君を殺しかけたなんて噂が流れても黙っていたわけだし」
またエレーナ! キッとオトマールを睨んだ。誰もが私の前ではその名を口にしないのに、オトマールだけはいつも平然と話題に出す。しかも、決まって「エレーナはそんなことなかった」なんて構文で。
「そうやって黙ってたおかげで、実はそんな事実はなかったってことが分かった後、エレーナは慎ましやかで優しい令嬢だって評判が回復してるわけだよ。元婚約者の体裁のために身を引くなんてできた令嬢だってね。ヒルデの噂の件も、黙っていれば同じようになるんじゃないかな?」
「そんなの分かんないし、大体、エレーナはさっさと逃げ出したからいいけど、私はここに住んでるのよ? それなのにみんなから噂される気持ちがわかる!?」
「でも、それは君とエレーナの問題だし……」
そこでウーヴェが激しく泣き出し、オトマールは遂に顔をしかめていそいそと扉へ向かう。
「だから、話は終わってないんだけど!」
「ライアー街道の件ならさ、さっきも言ったけど空いてたら行くから」
「だからたまにはオトマールが手配してよ!」
「だから僕は忙しいんだって。大体……」
問答無用で扉を開けて出て行きながら、オトマールは溜息混じりに付け加えた。
「エレーナは、そういうことは母上や姉上の都合も含めてちゃんと全部自分で手配していたのに」
思わず、出ていった後の扉にクッションを投げつけた。片腕で抱っこされたウーヴェが不安がってさらに泣き出す。それを抱え直しながら、私はぺしゃりと床に膝をついた。
こんなのおかしい。私ばっかりこんなに苦労して、理不尽だ。
昔からそうだった。エレーナは、名門伯爵家に生まれて、苦労を知らずに育ち、何もしないでも勝手に周りから与えられて育ってきた。私は、大したことのない名ばかり伯爵家の生まれで、夜会に行くドレスを新調してもらうこともできず、いつだって我慢を強いられてきた。エレーナは、たまたま父君が親王国派だったから、ドナート伯爵家との縁談をもらった。でも私には、そうして与えられるものがなかった。
だから自分の力で手に入れたのに。それなのに、私は結局こうして幸せになれなくて、エレーナは逃げ出した先で、不思議な雰囲気のある、妙にきれいな騎士と仲良く暮らしている。
一体どうして、こんなことになってしまっているのだろう。私は、幸せな結婚をしたはずなのに。