#02 いろいろななぜなぜがある
※短編版と同じです
「婚約、解消してくれない?」
なんてことを考えていたのは、はや三ヶ月前である。
オトマールに呼ばれ、帝都にあるドナート伯爵の別邸を訪ねた私を待っていたのは、オトマールとヒルデだった。今日のヒルデは、腰まである小麦色の髪を降ろし、少しゆったりとしたドレスを着ていて、とてもじゃないが他人を訪ねるときの格好ではない。しかも二人はソファで隣り合って座っている。さらにいえば、肩が触れ合うほどぴたりと寄り添っていた。
なぜ? なぜなぜなぜ? いろいろななぜなぜがあるけれど、一番の「なぜ」は、ヒルデが口にした言葉だ。
「婚約解消って……まさか私とオトマールの?」
「当たり前じゃない、他に誰がいるの?」
面白い冗談でも言われたように、ヒルデは笑いながら手招きをする。
「……どういうこと、オトマール」
「ええと、つまり、そういうことだよ」
だからどういうことだと聞いている。しかしオトマールは頭の後ろに手をやって曖昧な相槌を打つだけだ。
その隣で、代わりにヒルデが口を開いた。
「私、オトマールの子を身ごもったの」
は? 何を言われたのか分からなかったせいで声も出なかった。
ヒルデは、お腹のあたりを撫でながら「医者にも診てもらったの、間違いないわ」と愛おしそうに補足した。
「……今回のことを、ドナート伯爵はご存知?」
「もちろん、体を大事に産むようにと言っていただいてるの。だからエレーナに婚約解消の話をするのは私じゃなくてもいいんじゃないかって言われたんだけど、ほら、体に障ってもよくないし。でもやっぱり友人だから、直接謝りたくて」
「そういうわけなんだ、エレーナ」
急にキリリと毅然とした態度に変わり、オトマールは頷いた。
ヒルデと私は、三ヶ月前に久しぶりに夜会で再会した。オトマールとヒルデは、五、六年前に会ったきりでほとんど面識がない状態だったため、私が改めて紹介した――“私の婚約者のオトマールだ”と。
それが今や、妊娠中。
「それで……ほら、オットー、オットーの口から説明してさしあげて」
「ああ、うん、そうだね」
ヒルデは、私の前で愛称を呼びながらその肩を叩く。オトマールは少し照れくさそうに頬を緩め、しかし気を引き締めるように咳ばらいをする。
「せっかく授かった子を堕胎するなんて、もちろんエレーナは考えないだろう? でも問題はそれだけじゃなくて、その子のことを考えるなら、母親にもきちんとした立場を与えなきゃいけないし、母親以外にも妾がいるなんて複雑な家庭で育てるべきじゃない。だから、僕は、エレーナと結婚することも、ドナート家にエレーナを迎えることもできない」
オトマールは、そっと私を見つめた。
「仕方がないことなんだ。エレーナなら、分かってくれるだろう?」
「……そういうことなら」
静かに頷くと、ヒルデが当然のように微笑み、オトマールは緊張の糸がほどけたように溜息をついた。
「貴様なんぞこっちから願い下げに決まってんでしょうが!」
その顔面に紅茶のカップをぶん投げた。
「イッ、アッツ! アツ!」
悲鳴を上げたオトマールの額にカップがぶつかり、熱々の紅茶が顔面にぶちまけられ、ヒルデも悲鳴を上げ、ついでにカップがテーブルに当たって割れて絨毯の上に落ちた。ここまでわずか二秒もなかった。
「ふざけてんの? なーにが“エレーナなら分かってくれるだろう”ですか、誰が分かるかこんな馬鹿げた、しかも自分勝手な話が! しかも何その『子どものために筋を通します』みたいなツラ? 貴方が立場も弁えず火遊びして子ができたから責任を取らなきゃいけなくなっただけでしょ! 貴様は何の筋も通ってねーわ!」
「だから、仕方がないじゃないかって――」
「どこにも仕方ないことなんてないんだよ貴様の頭と下半身以外にな!」
テーブルに拳を振り下ろすと、ガタガタガタッとテーブルが揺れ、紅茶が氾濫した。
「ていうかなに、婚約者を偉そうに呼びつけておいて、うっかり子どもができた相手と雁首揃えて、事の次第をすべて相手に言わせて? 貴方それでも男なの? ああいや、男ね、ヒルデと乳繰り合って子どもができたんだものね」
「もちろん注意はしてたんだ、でもこればっかりは授かるものだから……」
「違うだろこのハゲ! 子ども作ったことを責めてんじゃなくて子ども作るようなことをしたのを責めてんだわ脳味噌腐ってんのか!」
怒鳴りながら立ち上がると、ヒルデは今度は頭を抱えて縮こまった。
「やめて! 子どもがいるのよ!」
「だったら庇うのはそこじゃないでしょ! 大体ヒルデ、貴方ねえ、婚約解消の前にする話があるでしょ――まず謝れ! 友人の婚約者を寝取ったら、婚約解消の話をする前に謝れ!」
やっぱり友人だから直接謝りたくて――とヒルデは言ったが、話が始まってから今まで、「ごめん」の「ご」の字もなかった。
うっ、とヒルデは苦しそうに口元を押さえる。
「ごめんなさい……つわりが」
「違うだろ! 寝取ってごめんなさいだろ!」
「いい加減にしてくれ、いまヒルデは大事な時期なんだ。君は弱い者を虐げるような人じゃなかったはずだ、そうだろうレニー?」
「いい加減にするのは貴様のほうだろオトマール! この期に及んで私をレニーなんて呼ぶな、虫唾が走るわ!」
ヒルデの肩を抱いて庇うオトマールにもう一度カップをぶん投げたかったのだけれど、ヒルデに当たるとマズイのはそれはそうなので思い留まった。
「エレーナ、僕もいろいろと考えたんだ。僕と君は十年近く婚約していたのに、それを突然反故にするなんて勝手が過ぎる。だからヒルデが子を産むとしても、その母親は君だということに――」
「は?」
「――できるわけないと、君も思うだろう? そう考えなおしたんだ!」
嘘吐け。私の低い声にビビッて主張を変えただけだろう。そう睨み付けた先のオトマールは、激しく首を横に振りながら、
「だって、君の子なら髪が赤色のはずだからね」
私の堪忍袋の緒をチョッキンと切った。
私の髪は、燃えるような赤色だ。母方の祖母に似たものだが、祖母の家はもとは隣国の貴族で、その赤い髪は帝国内では珍しかった。
くわえて、私の瞳はオレンジ。その組み合わせは最悪で“燃え盛る炎を灯したような瞳には気性の苛烈さが現れている”と度々陰口を叩かれてきた。なお気が強いのは否定できなかった。
というのは今はどうでもよく、問題は、オトマールの思考回路だ。
「愛人の子の母親ということにしてあげる」、この時点で理解不能な提案だが、その案を再考した理由が「母親でないことは髪の色で明白だから」? なにを言ってるんだこの男。
「エレーナ、君が自分を見失うほど怒るのも分かる。しかしどうか分かってくれ、子の未来のためなんだ。成長するにつれて母親が本当の母親でないと発覚したとき、子の気持ちはどうなる?」
「……そういう話はしてない」
「もちろんそれだけじゃないよ、仮に別の母親がいると伝えて育てたとして、実の母親が愛人として冷遇されているなんて知ったら、やっぱり子は傷つくだろう?」
「……だからそういう話はしてない」
じゃあ何の話……? そう言いたげな顔を見て、既に切れていた堪忍袋の緒がズタズタに切り裂かれた。
「……ああそうだ、もちろん、我がドナート家ではなく、君の家から婚約を解消したことにしてくれても構わないよ」
「――構わないじゃなくて当然だしこっちから婚約解消するに決まってんでしょーが! 貴方本当に頭湧いてるんじゃないの!?」
怒りのあまり、逆にこれ以上怒ることなんてできそうになかった。なんてことだ。特に好きだったわけではないとはいえ、十年近く婚約者として寄り添ってきたというのに、オトマールはこんなにもつまらないクソ野郎だったと気が付かなかったなんて。
「この場で婚約解消させてもらいます。後日、父からも正式に断りの連絡を入れさせるから。ごきげんようオトマール、そしてヒルデ。どうぞ元気な子を産んでくださいね」
馬鹿馬鹿しい。舌打ちしたいのをぐっと堪えて席を立つ。それでもヒルデは「ありがとうエレーナ、分かってくれると思ってた」と明るい顔で微笑む。随分激しい波のあるつわりだな、クソッ!
「待ってくれレニー!」
「誰が待つか!」
「婚約解消の署名をしてくれないと困るんだ!」
素早く踵を返し、オトマールの手から書簡をもぎ取り、自分の名を殴り書きして突っ返した。
「二度と私の前に現れないでよ、オトマール!」
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