#11 私には関係のないことだから
まだ陽が落ちない頃、ドンドンドン、と激しいノック音が響き、さすがの私も「ぎゃっ」と悲鳴を上げながら家具の陰に隠れてしまった。今度こそノルバート様のいう刺客か!
「いるんでしょう、エレーナ!」
が、その声に困惑した。……間違いなく、ヒルデの声だ。
おそるおそる窓から様子をうかがうと、例によって少し離れたところに馬車があるし、お供の従者達も見えるが、武装集団は見当たらなかった。そうしている間にも「居留守なんでしょう、分かってるのよ!」と金切声が響く。近所迷惑だ。
仕方なく扉を開けて、驚いた。ヒルデは怒っているのではなく、すっかり憔悴していたからだ。
「……ヒルデ、一体どうしたの?」
「どうしたもこうしたもない……助けてよ、エレーナ……」
セリフのとおりぐったりと、ヒルデはすがりつくように私の両腕を掴んだ。小麦色の髪は相変わらずきれいだが、かつてより艶を失っているし、手入れもあまりされていないように見える。そのドレスも裾が少しほつれ、新調する余裕がなかったかのようだった。
まさか、オトマールが無理矢理ヒルデを放り出したのか? いやそんなことができる男ではないが――と困惑していると、ヒルデは「もう、本当に無理……」と魂を吐き出すような溜息を吐いた。
「私……私、幸せな結婚をしたはずだったのに、全然話が違う……」
……何? 怪訝な顔をした私を前に、ヒルデはたらたらと語った。
私にオトマールを紹介されたとき、伯爵令息という肩書とその容姿とに一目惚れしたヒルデは、私の友人という立場を利用してオトマールを度々お茶会に誘った(なぜそれを私本人に言えるのかは分からない)。そんなことをしていたせいか、二人きりで会うようになるまで時間はかからなかったそうだ。
当初、オトマールに懐妊を報告したとき、オトマールは非常に喜んでくれた。私と婚約はしているが、懐妊したとなれば私も理解してくれるだろうと婚約破棄を即断したらしい(いや理解しないが)。ドナート伯爵と夫人にも喜び勇んですぐに報告し、伯爵らは「体を大事に産むように」と納得した――と、ヒルデは聞いていた。
だがしかし、実は伯爵らは烈火のごとく怒り、演技でなく本気でオトマールを勘当するところだった。ヒルデが挨拶に行く頃には、子に罪はないと冷静になり、なんとか「体を大事に」と絞り出したそう。
そういうわけだったので、ヒルデとドナート家との関係はもとよりよろしくなかった。ドナート伯爵とその夫人といえば気取らず優しい夫婦と評判だったのだが、ヒルデに対してだけはどうにも冷たい視線を向けがちになった。経緯が経緯なだけに、屋敷の使用人もどこかよそよそしい。なんなら、ある夜、夫人と義姉が「エレーナが来てくれると楽しみにしてたのに」とぼやいているのも聞いてしまった。ドナート家との関係が悪いとオトマールに相談しても、オトマールは「母上たちの言うことを聞かないからだ」と聞く耳を持たない。
「私、オトマールとの結婚が決まったとき、友人達に伯爵令息との結婚が決まったって自慢して回るくらい幸せだったのに。お義母様は冷たいし、使用人達からも腫れ物扱いで、お義姉様は口を利いてくれないし」
はらはらと、ヒルデは涙まで流し始めた。
「それに、子の世話ばっかりでちっとも自由な時間もない。私、あんな家で子の世話ばかりして一生を終えなきゃいけないの……?」
そんな現状を聞いた私は、言葉が出なかった。
いや……そうに決まってるでしょ……?
なにを嘆かれているのか、さっぱり理解できなかった。話を整理すると、ヒルデは伯爵令息である“友人の婚約者”オトマールに一目惚れして一生懸命誘いをかけ、オトマールが誘いにのってくれた上に懐妊もして幸せの絶頂だと思っていたら、ドナート一家はオトマールに怒り心頭で、屋敷の暮らしは針の筵、肝心のオトマールはマザコン、子どもの世話も思っていたより大変だから「話が違う」と泣いているということだが……。
「……そりゃあ……ドナート一家は貴女の扱いに困るのは当たり前でしょ。いびられないだけマシじゃない?」
私とドナート一家は十年来の顔見知りどころか準家族で、ドナート一家が私を可愛がってくれていたのは自惚れではなかったと思う。それが息子の不貞で突然別の令嬢に変わったとなれば、困惑するのも無理はない。むしろ、面と向かってオトマールの行動しか咎めずにいるだけ理性的と言えよう。
「いびられてるようなものよ! 大体ねえ、エレーナがカッツェ地方なんかに行ったせいで、帝都では私がオトマールの元婚約者をいじめて辺境に追いやったみたいに言われてるのよ? どうしてくれるの?」
どうして……どうして? 逆ギレをかまされてもどうしようもない。しかし殺人未遂令嬢の私はいじめられっ子ということにもなったことは分かった。
「……オトマールに頼んで火消ししてもらえば?」
「オトマールってば、私がお義母様と仲良くしないからだばっかり! 全然話を聞いてくれないの!」
つい最近も聞いたような話で、遠い目をしてしまった。そしてなぜ揃いも揃って私のもとへ相談に来るのだろう。しかも、こんな遠く離れた北国まで足を運んで。
「……話は分かったわ。でもそれ私には関係のないことだから、帰ってもらっていい?」
「何いってるの、エレーナのせいでしょ? エレーナがオトマールに不貞なんてさせたせいで、その後だってこんなところに逃げたせいで、私が悪者になってるのよ?」
「いや、多分貴女は悪者で間違いないわよ」
昔会ったときのヒルデはこんな子ではなかったはずなのだが、恋愛や結婚は人を変えてしまうものなのかもしれない。
「ほら、早く帰りなさいよ、息子だって産まれたのに、こんなところに来てる場合じゃないでしょう」
「いいのよ、子だってお義母様に懐いてるんだから」
「懐いているって言ったって母親が一番なんじゃないの? ドナート家で仲良くやれてないのは分かったけど、それを私に言われたってどうしようもないわ」
「お義母様ともお義姉様とも仲良いんでしょ? 責任を持ってエレーナが取り持ってよ!」
「どんな立場とどんな顔で! 私が出て行ったら余計に話がこじれるに決まってるでしょ!」
あのオトマールにしてこのヒルデあり……! 先週と同じ頭痛に襲われながら額を押さえた。
「……いいから、もう帰りなさいよ。今から発てば暗くなる前に隣町に着けるでしょ。そうすれば帰りも早くなるだろうし」
「いやよ、あんな家なんか帰りたくないわ! しばらく居させてよ!」
「息子を置いてきてんでしょうが! 大体、ここは私が自由にできる家じゃないんだから、はいどうぞなんてわけにはいかないの」
「じゃ誰の家だっていうの!」
ゲヘンクテ辺境伯に仕える騎士――とは言えない。それこそ帝都でノルバート様の噂が広まると迷惑がかかる。
「誰でもいいでしょ、いいから帰りなさい。すみませーん、従者の方、話がつきましたのでヒルデを隣町の宿へお連れくださーい」
「話なんてついてないわ! ……ちょっとエレーナ!」
家に入って扉を閉めると、ヒルデがやってきたときのようにダンダン扉を叩く音が響く。勘弁してほしい。
しかし、それが突然止まったかと思うと悲鳴が聞こえた。窓の外を見ると、やはりノルバート様のご帰宅だった。オトマールがやってきて以来、相変わらずお早いご帰宅だ。
慌てて扉を開けると、剣先を突き付けられたヒルデが「怪しいものではないのです、エレーナの友人です!」と必死に首を横に振っていた。ノルバート様の怪訝そうな目は、前回と同じく私にも向く。
「……レディ・エレーナ、このように述べるが、事実か?」
果たして友人と言っていいものか。
「……ドナート伯爵令息オトマールのご夫人です」
「…………」
ノルバート様の目が珍獣を見るものに変わった。
「……レディ・エレーナ、関わることはない。家に戻ろう」
「はい」
「ちょっと待ってエレーナ、これどういうこと!?」
私の腕に手を伸ばしたヒルデは、間に剣を挟まれ、うっと一歩引いた。しかし鞘に収まっているので、ノルバート様は女性には優しいらしい。
「オトマールと婚約破棄して一年も経たないうちに他の男性と一緒に暮らしているなんて、見損なったわ!」
いやヒルデにだけは見損なったとか言われたくないわ。
「これには色々と事情があるの。ヒルデには関係のないことよ」
「だったらドナート伯爵らをどうにかしてよ! そうじゃなきゃエレーナは北国で別の令息と暮らしてるんだって帝都で広めるから!」
なんだと……。何を言われても無視して家に入るつもりが、愕然とするあまり足を止めてしまった。
「貴女ねえ……私のことを言うのは勝手にすればいいけど、そこに他人を巻き込むのは間違ってるでしょ。それこそこの方には全く関係のないことよ!」
「エレーナと住んでるなら関係ないことないでしょ!」
「大前提として私は関係ないけど槍玉にあげたいなら好きになさいって諦めてるの! 夫婦そろっていい加減にしなさいよ!」
「まったくもってそのとおりだな、くだらない」
ぐいとノルバート様に肩を抱かれた。驚いてその顔を見ると、いまにも氷漬けにしそうなほど冷え冷えとした目がヒルデを見下ろしていた。
「私はゲヘンクテ辺境伯からレディ・エレーナの身の安全を任されている者だ。レディ・エレーナに危害が及ぶとなればその根を絶たねばならん。もちろん、くだらん噂話も含めてだ」
鞘から抜かれた剣がカチッと音を立てる。単なる脅しとは分かっていても、というか私相手でなくても、震えずにはいられなかった。
「いまの発言、撤回しないのであれば二度と口を利けぬようにさせていただこう」
その時点で、既にヒルデは口を利けぬ状態になっていた。
気絶しそうなほど顔を青くしたヒルデは、従者達に助けられなんとか馬車に乗り込み、捨て台詞もなにもなく帰って行った。
「……本当にすみません、ノルバート様……私の不始末が原因でこんなことに……」
「珍獣の珍行動を予測することは不可能だ。予測不可能なことに責任を求めるものではない」
そうか、それはそうかもしれない。慰められていると分かりつつも励まされてしまった。
ノルバート様は眉間に深い皺をよせ「しかし……元婚約者とその夫人がこんなところまで」と呟いた。
「私が言うのもおかしな話だが、どの面下げてだな……」
「本当にそのとおりです。とはいえ、こんな形で世の結婚の現実を聞かされるとは思いませんでした」
婚姻すると態度を変える夫、ギスギスと関係の悪い義両親、思っていた以上に大変な子の世話……。どれもこれも予想の範囲内というか、なんならありそうな話だし、特段自分だけが不幸だと喚くようなことではないと思うのだけれど……。
「つくづく、婚約だの婚姻だのにはろくなことがありませんね……どれだけ後ろ指を刺されようが、婚姻せずに気ままに暮らすほうがよっぽど幸せそうです」
思わず零してしまったが、ノルバート様は無言だった。……考えてみればノルバート様は未婚、おそらくこれほどの方が婚約破棄だのなんだのなんて事件に巻き込まれているはずもない。
「いやあれはもちろん一例であって! すべての婚姻が不幸なものではないと思います! 割れ鍋に綴じ蓋――なんて言い方はよくありませんね、あれは特殊な結婚の形なのでしょう! 少なくともノルバート様はしかるべきご令嬢と素敵なご結婚をなさるのではないでしょうか!」
「……他人事か」
「え? なんですか?」
「いや、仕方のないことだという話だ。まだ二ヶ月も経たないからな」
「婚約破棄は八ヶ月くらい前ですよ?」
「そうらしいな」
話が噛みあっていないような気がしたが、不機嫌そうには見えない。よしということにして、今日の夕飯の準備をしよう。
「ところで、ノルバート様が割を食ったのは事実ですし。明日の食事は腕によりをかけますね、何か食べたいもののリクエストがあればお受けしますよ」
「君が責任を感じる必要はまったくないのだが……」
ノルバート様はソファに腰かけながら、ふむ、と少し考え込んだ。
「可能であれば……名称は分からないのだが、スープがいいな。幼い頃によく食べていて、最近食卓を囲んでいると懐かしく感じるようになったのだ」
「スープですか? どんなスープです?」
「深紅色で、肉や赤カブの入ったものなのだが、このあたりではさっぱり見かけなくてな」
「私も聞いたことありませんね……」
記憶を探りながら、はて、と首を傾げる。特に赤カブなんてあまり市場でも見かけないし……。
「いや、いいんだ。ふと思い出してしまっただけだから、気にしないでくれて構わない。君の食事はどれも美味であるし」
「すみません。でも覚えておきますね、深紅色のスープ……」
ビーフシチューは赤というよりは茶色であるし、一体何のことだろう。春がきて、雪が完全に溶けたら、もう少し市内の中心部に足を延ばしてみよう。そうすればなにか分かるかもしれない。
「とりあえず、今日は昨日のブルーセルスプラウトが残っていますので、ニンジンとヤングコーンと一緒に焼いてグリルにしましょう。鶏もも肉にはハーブをまぶしておきましたから、今日もおいしいですよ」
巨大なオーブンとスキレットがあってよかった。持つべきは料理好きの祖母だ。うきうきと料理を進める私の後ろでは「あれがO派の令嬢か……」と呟くのが聞こえた気がするのだが、なにかの聞き間違いだろうと気に留めずにいた。