#10 私はとんだじゃじゃ馬令嬢なのです
そんなノルバート様の異変は、次の日からも続いた。
なにがおかしいって、まずご帰宅が早い。空が薄暗くなり始めた頃には帰ってくるし、疲れた馬を見れば急いで駆ったのが丸わかりだった。
次に、食事の支度中にそわそわと周囲をうろついている。邪魔になるようなところに立っているわけではないのだが、なにか言いたげに私の様子をうかがっているのだ。しかし促すと「……その赤い魚はいまが旬なのか」と絶対興味ないことを聞いてくる。
おかしい。なにかがおかしい。鮭のバター焼きに添えるバゲットを切りながら考えこんでしまい、しかし原因にオトマールしか浮かばないせいで冷や汗が滲んできた。そしてノルバート様は、相変わらずそわそわしているし、手持無沙汰に調度品を磨いている。隙のない立ち姿に、キュッキュと布で燭台を磨く動きは死ぬほど似合わなかった。
「……ノルバート様」
意を決して、私から口を開いた。キュ、と布の動きが止まる。
「……オトマールのことですよね」
「……何の話だ」
「いえ、お気遣いいただかなくて大丈夫です。重ね重ね、あちらの件は申し訳ありませんし――なにより呆れましたでしょう!」
間違いない、これしかない――! 勢いに任せて、ダン、とバゲットをひとかけ切り落とし、燭台磨き中のノルバート様に向き直って背筋を伸ばした。
「もちろん噂は誇張されていますが、しかし私が当時の婚約者に紅茶のカップをぶん投げたのは事実なのです! ホルガーお兄様の変狂っぷりから想像の範疇かもしれませんが、そうです私はとんだじゃじゃ馬令嬢なのです! こんな者の警護など願い下げかもしれませんが、どうぞいましばらく屋敷に置いていただきますようお願いいたします!」
「何の話だ」
……が、ノルバート様はさきほどと全く同じ台詞で返した。ちょっぴり緊張していた私は面食らった。
「……呆れていらっしゃるのでは?」
「誰に何をだ。……君の……、ドナート伯爵令息には確かに少々驚きはしたが、それだけだ」
燭台磨きを中断すると共に、ゴホンと妙な咳ばらいを挟まれた。そんなの、優しい嘘をつかれているとしか思えないじゃないか。
「いえ、ここははっきり言っていただいて構いません。私は少々のことであればはっきり言われても傷つかないたちですし、なにより蟠りは食卓において最低最悪の調味料です!」
「いや本当に、少々驚いただけだ。……誓って嘘ではない、驚いただけだ」
じろり……と胡乱なまなざしを向ける先で、ノルバート様はゴホンゴホンと再度妙な咳ばらいをした。
「…………しいて言うのであればだな」
「はい」
「……あまりに突然の出来事だったゆえに、恥ずかしながら困惑して事態を咀嚼できていなかったようだ。今になって、君が――その、誰かの元婚約者という立場にあったことを理解したと、ただそれだけだ」
「……はあ」
つまり、どういうことだ? よく意味が分からず首を傾げてしまった。私のようなはねっかえり娘がどこぞの誰かと婚約できるはずないと思っていたとか……。いや、ノルバート様がそんな失礼な発言をする方でないのは既によく分かっているつもりだ。
「……オトマールと私はあまり気が合わないようだとか、そういうことでしょうか?」
「……そうとも言えるかもしれない。いやそうだな、言語化するとそうかもしれん、人の元婚約者を捕まえて陰口のようなことをすべきでないのは承知のうえだがまさか君があの珍獣のような男と婚約していたとはあまりにも想定外だったとただそれだけだ」
後半を一息に言いきったノルバート様の肺活量がすごい。しかし珍獣とは言い得て妙だ、あれは元婚約者に「嫁をどうにかしてくれ~」と泣きついてくる新種の生物だったのだろう。
しかし、私とオトマールは政略結婚、必然家同士のつり合いはきちんと考慮されていた。ノルバート様が私に呆れていたわけではないということに安心しつつ、ドナート伯爵と我が家との関係を振り返る。
「そうですね……その点はグライフ王国も絡む政治的な問題です。私の父は親王国派の中でもN派で、ドナート伯爵はO派なのですが」
ピクリと、無表情のノルバート様の目元がわずかに動いた。カッツェ地方はグライフ王国に接するし、ホルガーお兄様直属の騎士でもあるし、意外と裏事情までご存知かもしれない。
「もともと、親王国派と反王国派で割れていたところ、親王国派が覇権を握って久しく、王国で内乱が勃発して以降は援助を推すナウマン伯爵のN派と、宥和に留めるオーム伯爵のO派で割れている――というのはご存知ですよね」
「もちろん知っているとも」
深く頷くその態度、東洋の言葉でいう釈迦に説法というヤツだった。お恥ずかしい。
「私とオトマールの婚姻は、N派とO派、それぞれの令嬢令息が婚姻することで、両者の歩み寄りを企図していたようなのです。もちろん、そんなに単純な話ではないので、本当に些細な歩み寄り、というか物の試しのようなものですね、オトマールもドナート伯爵の三男坊ですし。結局、オトマールはO派の令嬢と婚姻したのでこれは失敗に終わったのですが」
「つまり、徹頭徹尾政治的な意味しかなかったということだな」
「ええ。ああでも、家同士としての付き合いは非常に良好でした。オトマールは甘やかされ過ぎて少々おかしな言動がみられますが、ドナート伯爵とご夫人はいたって良識的な方なんですよ。十年近く婚約していましたが、お二人には本当によくしていただいたのです」
例えば、ドナート伯爵は夜会ではいつも「こんなにできた令嬢と婚約できて愚息も安心なのだ」と私を紹介してまわってくれた。伯爵夫人は、私が屋敷を訪ねるたびに珍しいお菓子を用意してくれ、しかも私の料理好きを知っていたから作り方も事前に調べていてくれた。
……こう考えると、なぜあのお二人からオトマールが産まれたのか謎である。はて、と首を傾げてしまった。婚約当時は「可愛がられて育ったから穏やかなんだよね」としか思わなかったが、今となっては「可愛がられて育ったから世界の女性がみんなマミーだと思ってるんだね」だ。
「……恋は盲目といいますが、もしかすると婚約も盲目なのかもしれませんね」
「……恋愛的な意味もあったということか?」
「そういう側面は否定できないかもしれません。私はオトマールと婚姻すると信じて疑いませんでしたから。相手と婚姻する以外の人生が考えられないという意味では、大恋愛の末に駆け落ちする話と似ている気がします」
自分で口にしていてしっくりくるものがあった。オトマールの愚鈍さを穏当さとはき違えていた自分は、「幸せな結婚」という洗脳を受けて視野が狭くなっていたとしか言いようがない。
しかし今の私は違う。気を取り直してバゲットをカゴに盛りつけながら、しみじみと頷いた。
「なにも婚姻するだけが人生ではありませんよね。大した取り柄もありませんが、帝都のほとぼりが冷めるまでと言わず、カッツェ地方に骨をうずめる覚悟で仕事も探すべきですね」
「……そうか」
「あ、もちろん現実はそう甘くないことは存じ上げております。お恥ずかしながら、ホルガーお兄様の伝手は頼らせていただこうと思っているのです」
世間知らずである可能性は重々承知です、そう気持ちを引き締めて付け加えたのだが、ノルバート様は顎を指で挟んで考え込む姿勢をとったまま動かなかった。
「……あの、至らぬ点があればいつでもご指摘を……」
「いや、そうではない。……そうではなく、十年弱培ってきた人生観を変えるのはなかなか容易なことではないだろうなと、そう考えていただけだ」
「ああ、それはまあ、今回の騒動で強制的に変更を余儀なくされましたから。容易も困難もへったくれもないですよ、ははは」
自虐的な渇いた笑いに、ノルバート様は笑ってくれなかった。私が滑ったみたいじゃないか。
「……食事の支度中に長話を失礼した。いただこう」
「あ、はい。今日は鮭のバター焼きです、いいですねえ、カッツェ地方の鮭は立派で、みるからに濃厚そうですよ」
ノルバート様には何か言いたいことがあるのかもしれないが、そのうち話してくれるだろう。
そこにさらなる珍客がやってきたのは、数日後のことである。
やたらオトマールへの感情にこだわるノルバート様でした。