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車内で沖縄の旅行誌を広げ、しばらく話し合ったあと、仲村渠はさらに北上することを決めた。
本部町の海岸沿いを真っすぐ走り、どこまでも続くように思われる国道を進んだ。
青い空を映した深い海は、長い間妻の目を飽きさせなかった。時々、頭上を通過する雲の影が、右手にある連なる山々に映って、走り去っていくのが見えた。
瀬底大橋を通り過ぎ、細くなった侘しい道に差しかかると、車の数は一気に少なくなった。
途中、そば屋を見掛けたが、そんなに腹は減っていないということで、通り過ぎることにした。
後ろから急かすレンタカーに道を譲りながら、二人はのんびりとドライブを楽しむ。
「天気がいいのですから、古宇利島へ行きましょ」
妻が提案した。楽しげにカメラを用意する彼女に「いいよ」と頷き返し、仲村渠はそちらへ車を進めた。
時間も気にすることのない穏やかな時間が、彼には歯痒いほど眩しかった。
古宇利島へ行くには、もう一つの島を渡る必要があった。
低い土地、そこから繋がっている海を茂った木々の向こうに見た。どうやら新しい大きな道が山の上にかかっているらしいと知ったのは、妻が情報誌を広げて眺めている、この時のことであった。
「なんだ、通りで車が少ないと思った」
「ふふ、また、今度」
「――ああ、また、今度」
必ず連れていってやるから、と仲村渠は穏やかな声で、そして確かに守るという信念を静かに秘めた声で、そう答えた。
小さな島を抜け、古宇利島大橋に差しかかると、観光客らしき車が増えてあたりは急に賑やかになってきた。
正面には大橋、その左右に開けた全ての色が、眼下に飛び込んでくてくる様子には心が高ぶった。
古宇利島大橋の両側に広がる海は、海底の砂も見えるほどに澄んだエメラルドグリーンだ。その色合いは、まるで海中から不思議な力が放たれているみたいに美しい。
神秘的な色彩を放つ海に囲まれた島は、神の島のように思えた。
(昔から、変わらないなぁ)
昔は道も、橋も、橋に行くまでの左右の小高い緑だって、こんなには綺麗ではなかったけれど、と仲村渠は思う。
古宇利島大橋には、橋の途中で車を止めて写真を撮る者や、歩いている観光客の姿もあった。
何度来ても、仲村渠も視界に収まらない美しい海と大橋と島野光景には、目を奪われる。
感嘆の息をつく仲村渠の隣で、妻が窓を空けてカメラのシャッターを切った。
彼女がカメラに収めたいと思う気持ちも、仲村渠はよく分かった。先を走る車も、後を走る車も、自然とスピードを落としてしまうほど美しい光景だ。
「少し、停めようか」
仲村渠が隣の妻にそう声をかると、彼女はやんわりと断った。
「いいの。このまま、走って」
彼女はそう言うと、窓の方を向いたままカメラを構え直して、今度は自分と夫のツーショット写真を撮った。すでにフラッシュ設定は解除されていて、シャッターを切る音を、仲村渠は運転するのを横目に聞いていた。
古宇利島は、車で簡単に一周できてしまう小さな島だ。
大橋から続く道にそのまま車を進めると、途中観光客やドライブを楽しむ人向けに、小さな飲食店が点在している。
民家はすくなく、自然が多い。
道の途中、小さな畑で仔馬が呑気な顔をして草を食っていた。
先に走っていた黒い普通乗用車が、路肩に停車してスマホで写真撮影を行っている。
仲村渠も妻のために、路肩に車を寄せて停車した。
「あらあら、うふふ、可愛い仔馬ねぇ」
妻は使い捨てカメラを構えると、パシャリと記念撮影をしていた。仔馬は人に慣れているのか、動じる気配はなかった。
高台にいくに従って、民家も少なくなり、手入れのされていない畑が増えて道幅も狭くなっていく。
荒地にぽっかりと開けた砂利の広場と、一軒の喫茶店があったので、仲村渠はそこで休憩するべく車を入れてみた。
一番高台にある店には違いないだろう。
そこから、古宇利島の光景を妻とゆっくり眺めてみたいと思った。
砂利の駐車場を持った喫茶店は、木造家屋の二階建てだった。細い木造階段の前には手製の看板が立ててある。たぶん営業中だろう。
車を降りてすぐ、仲村渠は思わず天を仰いだ。
「うむ――暑いな」
テレビでは『夏』なんてまだ伝えられていないわけだが、すでに日中の暑さは三十度近くある。じんわりとシャツに熱がこもった。
店名の記された看板を確認し、二人で細い木材の階段を上った。
階段を上がると扉が一つあり、開くと、小さな店内の涼しい冷房の風が二人を迎えた。
円形のテーブル席が三つ、一面の窓ガラスに沿って造られたカウンター席には固定式の丸椅子が十ほどあったが、客は一人しかいない。
レジカウンターは、扉を入ってすぐの場所に設けられていた。非常に小さな面積に、棚とレジと固定電話が敷き詰められている。
奥の部屋はカーテンで仕切られており、扉の開閉音に気付いて、一人の中年の女主人がやってきた。彼女は陽気な挨拶を済ませると、メニュー表を早速広げて見せてきた。
「ウチにはあまりメニューがないんだけど、どうされますか?」
女主人は、少し申し訳なさそうに聞いた。
確かに、メニューは数える程度だった。カレー、ぜんざい、軽食にサンドイットとホットドックだ。
「そうねえ」
妻は、メニュー表を眺めてほんの少しだけ考える。
「小腹が空いている程度だから、アイス珈琲とパンケーキをいただこうかしら。量は結構あったりします?」
「いえ、こぶりですから、軽めでしたらおすすめですよ」
「それなら俺は、ポークのホットドックと、アイスティーで」
外の景色がよく見渡せる、一面窓ガラスのカウンター席へと向かうことにする。
木材は古くなっていたものの、窓はきれいに磨き上げられていた。眼下には、古宇利島の美しい海が開けて見える。
カウンターの中央席には一人の男が座っていたのだが、仲村渠は二つ席を開けて、入口に近い席に妻と二人で腰かけた。
室内は、冷房の稼働音の他は、女主人が奥の部屋で料理を作り始める物音があるばかりだった。なんとも静かだ。
妻は早速、窓に向かってカメラを構えていた。
だが、使い捨てカメラでは、人の視界ほど精密に景色を残すことはできないだろう。そう自分でも分かっていて「思い出に一枚だけ」と言って、一度撮影して終わる。
「少しお手洗いにいってまいります」
妻は席を立つと、カーテンの奥にいる女店主に声を掛けた。
どうやらトイレはキッチンの方に一つあるだけのようだ。二人の「ごめんなさいね」「いいえ、貸していただいてありがとう」というやりとりを仲村渠が聞いたのち、彼女は女主人に迎えられて奥の方へと姿を消してしまった。
仲村渠は、隣の丸椅子に残った妻のハンドバックをちらりと見た。
見慣れない鞄だが、当然だろう。彼は、この鞄が妻の手元へ渡った経緯を何も知らない。いつの年代に、彼女のものだったバックなのだろう――。
彼は妻を待ちながら、ふと、古宇利島が、沖縄本島で神の島としても知名度があったことを思い出した。
(そういえば、この地にユタはいるのだろうか)
もしくは、ここを出身とするユタか霊媒師が、沖縄本島で活動していることはありうるのだろうか?
『ヒントは、北にあるかもしれません――』
占い師の女性の言葉が、脳裏をよぎっていく。
だが、都合のいい考えだ。仲村渠はすぐ『現実的ではない』と溜息をこぼした。だった何もかも簡単にはいかないことだった。
(あれから一週間、か)
妻は、彼女の方は大丈夫なのだろうか。
悩み込んだ仲村渠は、外の景色を眺めていても暇になり、ふと一人で店に居座っていた男へと注意が向いた。
横顔を見る限り、男はずいぶん若いようだった。浅く白い横顔から察するに、沖縄の人間ではないだろう。落ち着いた目元には、薄らと皺が入っている。
観察してみて初めて、仲村渠はその男が奇妙な格好をしていることに気付いた。
鼠色の着流しに、ブルーのカジュアルシャツを両肩にかけているのだ。
仲村渠が思わずまじまじと見いってしまうと、男の狐のような目が、突然顔ごとこちらを向いた。
「やあ、こんにちは。僕の顔に何かついているかな」
男は、関東や京都あたりの強い鈍りで、どこか楽しそうに聞いた。仲村渠は驚きつつ、失礼なことをしたと瞬時に悟って、すぐに「すまない」と謝った。