最終話
その日、仲村渠は中部にある大病院の前で、一人そわそわと待っていた。
共に心配していた友人の城間も、妻の見舞いを望んでおり、絶対に置いていくなよと再三強く言われたのだ。
城間は、学生時代の仲村渠の先輩である。
今回の件に関しては、元医師として手助けをしてくれたこともあり、いくら昔から時間にルーズな男であることを知っていても、仲村渠は『一緒に行くから、待ってろ!』という約束は拒めなかった。
実をいうと、仲村渠も、一人を心細く感じてもいた。
大病院の玄関前にある、駐車場へと行ける歩道の中腹に立ち尽くしたまま、仲村渠は時々首をあちらこちらへと向けて、城間の姿を探した。
待ち合わせの時間からは、すでに十五分が過ぎている。
「ふぅ……」
緊張を息で吐き出しながら視線を上げると、頭上には雲が多い青空があった。
例の現象が解決したあと、仲村渠は、城間と以前擦れ違ってしまった喫茶店でようやく顔を合わせることができた。
面白おかしく、をモットーに生きているような元医者の友人は、今回の件について話を聞きたがっていた。喫茶店にて仲村渠が長い話を行っている間、城間は「ふむふむ」と先生顔で頷き、珈琲を三杯とサンドイッチを胃に収めていた。
――けれど、謎は、謎。
結局は『奇妙な話だ』と落ち着いた。
『まあ、そういうことは、私にも経験が皆無という訳ではないからな。お前や、彼女の身に取り返しのつかない大変なことが起きなくて、よかったよ』
城間はある日、そう感想を締めていた。
仲村渠の話が順調に進んだ要因の一つには、城間が東風平のことを知っていた、という意外な接点がその日に明らかになったからだ。それはに城間自身もかなり驚いていた。
仲村渠は当初、名前を伏せて話し聞かせていたのだが、途中で城間が
『なぁ、それって東風平君のことじゃないか?』
なんて言ったのである。
仲村渠が『そうだ』と肯定すると、城間は『なるほどなぁ』と言い、もう納得しきりの顔で話を聞きに徹していた。
どうやら昔、城間は東風平という知人に世話になったそうだが、当時関わったらしい詳細については何も語らなかった。仲村渠も今回、説明するのもとても苦労する、いや難しくて結局友人にもうまく語れになかった件があったので、聞き出そうとはしなかった。
平日の病院には、出入りする人間が多かった。
午前中だから混んでいないと踏んでいたのだが、仲村渠の見当違いであったようだ。
表玄関の前には介護用の送迎バスが何度か停まり、外に設置されたベンチには入れ替わり立ち替わり人が座って空きがない。
今日は、初の見舞いということもあり、仲村渠は清楚に見える一番いいシャツと、皺のないスラックスのズボンを選んだつもりだった。しかし、自分の姿を今一度確認しても、落ち着かない気持ちになる。
緊張、というよりも、不安の方が大きいのだ。
末の息子には、見舞いの件について事前に連絡を取っていた。
何かあれば長男から手厳しい一報が入るはず……身構えていたのだが、なんの知らせもないまま当日が来てしまったのも、仲村渠をどぎきさせている。
(まさか病室に踏み込んだ瞬間に殴られるんじゃないだろうな……)
そんな不安ばかりが、仲村渠の脳裏を過ぎっていくのだ。
その時、城間が向こうから歩いてくるのが見えた。
背筋をシャンと伸ばした細身の男だ。白い頭髪はやや薄くなっているが、体脂肪はほとんどなく、背も高いままだ。
城間は今でも視力がしっかり残っているから、仲村渠の姿に気がつくと手を振って「おぉ~い」と笑顔をこぼした。仲村渠は、恥ずかしい奴めだ、と舌打ちしたくなったが、緊張で口が渇いてうまくできなかった。
「なんだ、妙な顔をして」
開口一番、城間は仲村渠の顔をまじまじと見てきた。
「他に言うことはないのか」
仲村渠が指摘すると、彼は「ふうむ」と首を捻り、それからポンと相槌を打った。
「ま、死に別れたわけじゃないんだ。まだまだ、これからたくさん話すこともできるだろう。だから、大丈夫だよ。変な顔をしなさんな」
――大丈夫。
その言葉にじんっときて、仲村渠は友人を見つめていた。
七年前、先に逝った妻を見送った男の心の底からの笑顔が、眩しかった。
後悔なく接してきたから、もう思い残す事はないのだと、あの時に語っていた城間の当時の言葉が今になって胸に沁みる。
「おぉーい。そこのお二人さんっ」
その時、既視感を覚える呼び声が、遠く頭上で聞こえた。
つられて、仲村渠と城間は、揃って顔を上げた。
そこにあったのは病棟のベランダだった。二人の頭一個分も小さい華奢な男がいて、目が合うとさらに「おおーい、おおーい」と子供のように手を振って合図してくる。
「おや、誰だろう?」
城間がとぼけたように首を傾げ、横目に仲村渠を見た。
「ふうむ。外の世界で生きていけなさそうな、あの緩みまくった面……はて、酒を飲んだ時の誰かさんにそっくりだな」
「俺の末の息子だ。あいつは俺ではなく、彼女に似ているんだ」
仲村渠は、茶化してくる友人の腹に軽く拳をれるふりをした。
そうしている間に、ベランダにもう一つ、影が増えた。
癖の入った白髪交じりの長い髪が風に煽られ、それを片方の手で押さえて、こちらを見降ろす女性の姿がある。
ハタと視線が交わった瞬間、仲村渠の口許が緩んだ。
胸に溢れてくる暖かい気持ちに、自分が泣きたいのか、笑いたいのか、分からないまま仲村渠は込み上げるままの、笑顔を顔に浮かべて手を振った。
別れて長い歳月を置いた妻も、仲村渠に向かって上品に手を振ってきた。
彼女はそれから、仲村渠の友人へも続いて微笑みかけると、あの頃と変わらぬ控えめな会釈を返した。
「ふふ、こちらへいらして」
「ああ、今、行くよ」
仲村渠は妻にそう答えると、茶化し言葉を言い始めた城間の腕を掴み、病院の中へとずんずん進んでいった。
了