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 病院生活は快適だが、残念なのは、数日間絶食しなければならないこと。点滴で受ける睡眠剤が強いために、副作用を起こしてしまうことだった。


 絶食治療の間は、お風呂も制限されるから髪がごわごわになってしまう。


 それが私は少し、辛かった。


『いくつになっても女だもの。少しでも綺麗でいたいと思うのは、いけないことかしら』


 私は面会に来る息子達に、笑ってそう聞かせた。


 私は癌を患ってしまったから、必ず病院へ通わなくてはならなかった。


 一つ一つのお薬も、私の身体には生きるために必要な物だ。


 身体中を流れている血や、呼吸するための酸素と同じで、薬を飲まなければ私はみるみるうちに衰弱し、腹水が醜く膨れ上がって、頭も朦朧として、そして短い間に死んでしまうのだろう。


 唯一の救いは、テレビで見るような抗がん治療がなかったことだ。


 お薬に少し混じっていると、お医者様は言っていた。


 手術はできない状態ということを話し聞かせてくれたお医者様は、そう語っていた時、私に付き添っていた末の息子と同じ顔をしていた。


 入院する生活が増えていくと、自然と看護師や、同じような入院の常連者と友達になれた。


 ずっと前に夫とは別居しているのと私が言うと、みんな『大変だったのね』と口を揃えて、同情し『一人身の方が気楽よ』と励ましの言葉を口にした。


 別居はしているけれど、私は、まだ彼の妻だ。


 指にはめた結婚指輪を外す気にはなれないでいた。


 息子達は離婚させるといきり立っていたけれど、あの人が判を押さなかったことを、私は少し嬉しくも思っていたのだ。


「私、結婚してよかった。不幸ではなかったのよ」


 私がそう言うと、友人や周りの人達は、少し変な顔をした。


 愛した人と目が合わないことが多くなったり、彼が子供達に辛く当たる時できたり、その仲裁に入ることだって心苦しかった。


 けれど頑張らなきゃいけない時は、どの夫婦にだって必ず訪れる。


 私は、どうやら心が強くなかったらしい。よく涙を流し、彼のために何ができるだろうと胸を痛めた。それがだめなんだと息子は叱りつけるみたいに言った。


『母さんっ、頼むから……!』


 愛や気持ちは目に見えるものではない。私は彼を信じていたけれど、あの時、今にも壊れそうな顔でそう言って『俺と来て』と言った愛する息子を、長男を選んだのだ。


 子供達には、ずいぶん心配をかけてしまった。


 食事の量が減って、腹水のたまりが早くなったことを感じ始めた頃、激痛と共に吐血して、気付くと病院だった。


 出血の原因を探して、そこを縛ってしまいましょうねとお医者様は言った。


 辛そうな顔だった。なかなか出血場所が探し切れないのだと、息子が教えてくれた。まるで細胞から滲み出すみたいに胃には血が溜まり、昼夜問わず突然嘔吐し、そのたび苦しい時間が続いて、私は意識が深く落ちてしまう。


 そして今回、退院の予定が掴めていなかった。


 二番目の息子と入れ替えで見舞いに来た末の息子が、その日、珍しく夫のことを私に聞いたてきた。つまりは、彼らの父親のことを。


 私は、夫を怨んでいないことを教えてあげた。すると彼は、


「母さんは優し過ぎるよ。だから、損をしてしまうんだ」


 そう言って少し唇を尖らせていた。


「いつか、あなたにも分かるわよ」


 私は、微笑んでそう答えた。


 いつまで経っても退院できる気配はなかった。


 出血しているという大腸の一部は手術したけれど、病室のある階から、下は行かせてはもらえなかった。


 免疫が落ちてしまっているから、何か必要な物があれば声をかけてくださいと、目元に黒子のある美人な若い看護士がそう言った。


 彼女はどことなく目を引きつける美しい人で、シーツをまとめる時の丁寧な指先が優しい女性だった。夕方から深夜まで、彼女が私の病室を担当していた。


 最近は、眠ることが多くなっている。


 どういったことを考えながら眠りに落ちてしまったのか、目覚めると忘れているのだ。


 でも、いつも懐かしくて、大切な日々を回想しているようにも私は思えた。


(元気になったら、また退院して、定期検査の生活に戻るだけ)


 何度も経験したことだったが、なぜかある時、不意に不安になった。


 自分がすっかり弱ってしまっていることを感じて、私は『もう長くないのかしら?』なんて心配になった。


 一番上の息子は強く反対していたけれど、私は、もうずっと前から、夫のことを気にしていた。


 もし最期になるのなら、少しでも会いたいと思った。


 欲を言えば話したかった。


 息子達も知らない、私達だけの記憶を、懐かしく語り合いたかった。


 でも彼に連絡を取ったとして、そこで拒絶されたら、きっと私は立ち直れないような気もした。


 月が明けてすぐ、これまでとは比べ物にならない発作が起きた。苦しみが身体を貫いて、意識が混濁した。何度か目を開けた覚えはあるけれど、私は霞んだ視界の先に、心配した顔の息子達の姿があったような気がしている。


(ああ――)


 私は再び遠ざかっていく意識の中で、なぜかまたしても夫のことを思い出した。


(もしかしたら最期までに会うのは、間に合わないかもしれない)


 そんな残念な気持ちが、私の胸の中いっぱい込み上げる。


 だって、しようがないではないか。


 私は、今でも、最初で最後までもきっと、あの人が好きなのだ。


 意識は、深く昏睡し始めていた。その間夢はあまり見なかった。浅い覚醒は、私を心配する子ども達の姿を見せ、また暗闇へと私を引き込んでしまう。


 病室に待機してくれている子供達の中に、夫の姿を思わず探してしまうたび、私は悲しみが込み上げるのだ。


 末の息子は、父親に見舞いを提案したと言っていた。


 けれど彼のことだから、会いには来られないだろう。


 なぜか私は、そんな気がした。最初で最後に愛した人だから、彼のことはよく知っている。


(あの人が会いに来られないのなら――私が、あの人に会いに行きたい)


 私は、何度目かも分からない『苦しい』の中でもがきながら、そう思った。


(けれど私は、この身体で、いったいどうしようというのだろう?)


 せめて、彼の夢の中へでも、会いにゆければいいのにと思った。


 もし、彼と今でも、一緒に暮らしていたのなら。


 私は苦しくて勝手に溢れてくる涙の中、あの人はきちんと食べているのかしら、子供達から連絡を受けて心配に思っていないかしら、平気かしら――なんてことが、たくさん、頭の中に沸き起こった。


『――』


 そうしたら、誰かが、私の名前を呼んだ。


 とてもよく知っているようで、知らない複数の温かな〝音〟。


 私は毎朝捧げている祈りの言葉を、思った。


 ああ、神様、守護神様、守護霊様、どうか夫に――。


             ※

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