15
何百万人という人間が、自分の運命を一生懸命に歩み、学び、過酷な試練とも取れない現実に抗い続けている中で、このような現象が起こっているだけでも贅沢すぎる奇跡――なのだろう。
(彼女を元に戻したら、止まっていたことが、再び動きだすんだ)
それは、当たり前のこと。
すべてが止まってい今が、あり得ない状態なのだ。
東風平がテーブルの上に視線を落とした。そこには、使い古された小さな灰皿があった。
普段、彼は煙草を嗜むのだろう。仲村渠もそれに気付いたが、東風平はとくに姿勢も変えず話の先を続けてきた。
「彼女を守護する神は、最期の時に、彼女を導けるよう彼女を待ち続けている。彼女はとても信心深く、多くの神様達に愛される女性のようですね。彼らは強制をしません。生まれてからずっと、私達を見守り、私達の成長を願って、聞こえない声を掛け続けながら、信じて待つのです」
仲村渠は、東風平の話を黙って聞いていた。
祈るべき神について、仲村渠は詳しく知らなかった。
盆や先祖供養といった行事を大事にする妻を、いつも玄関先で見送るばかりだった。妻は夫が面倒で行きたがらない時は、一人「いってまいります」と笑顔で出掛けてゆき、食べ物の土産をたくさん持って帰ってきた。
『ウサげたものですからね、健康になりますよ。きっと、ご利益があるでしょう。さ、あなた、お腹をすかせてしまってすみません。たくさんお食べになって、長生きしてくださいな――』
待たされている間、仲村渠は空腹で過ごした訳ではないし、寂しい思いもしていなかった。
妻が一族の行事をしている時、好きな物を食べに喫茶店に立ち寄ったり、デリバリーの食事をとったりと、自分の時間を好きに使っていた。
だから腹を空かせて、妻を待っていたことはない。
けれど彼女の手土産に空腹を覚えて、そうやって二人で食べたことは覚えている。
(ああ、俺は――)
どうして今になって、こんなに鮮明に思い出すことができるのだろう。
酒をやめてしまったからだろうか。面白くないからと、一人のビールさえも飲まなくなったからか。
仲村渠は、強く目を閉じた。
彼女を深く愛していたという事実が、無数の鋭い剣のように身体中を突き刺してきて、今にも涙が溢れそうだった。
若い頃の自分を叱咤してやりたい気分だった。
見栄や、世間体なんか忘れて、無防備な心で過ごせていれば――彼はあらゆる幸福に気付くことができただろうに、と彼はひどく後悔した。
「……俺は、どうすればいいのですか?」
目頭が熱くてたまらなかったが、彼はテーブルへ向けた両目を感情でこれ以上焦がさぬよう努めながら、喉の奥から声を振り絞った。
「あなたはすでに、話しをする中で答えを得た」
迷いのない淡々とした男の声が、最後の審判のように仲村渠の耳朶を叩いた。
まさに、その通りだった。
「あなたは、すでに自分がどうすべきか、選んでいる」
「…………」
「あなたが視えず、聴こえなくとも、あなたは正しい道へと手を引かれている。神は乗り越えられる試練しかお与えにならないという。ならば、あなたは、あなたを信じて導くモノ達に、今度こそ偽りのない心で自分がするべきことを、行えばいい」
「まぁ後押しの言葉が欲しくなるのは、分かりますよ。でも人は常に選択する。大切な選択ほど、人任せにはできませんでしょう」
ミムラが困ったように笑った。仲村渠も、苦笑を返した。
「俺は……ひどい夫だったのです。思い返した俺の胸を抉る、この思いが、偽りのない俺自身の心、なのでしょうなぁ」
仲村渠は、鼻から大きく息を吸った。泣き崩れまいとして作り笑いを浮かべた男というのは、どんな顔をしているのだろうかと、どうでもいいような疑問が仲村渠の脳裏をかすめていった。
「妻は私を、少しの間でも愛してくれていたのでしょうか」
「愛していなければ、今起こっていることの説明がつかないです」
東風平が、きっぱりと言ってのけた。
「奥様は誰よりもあなたを想い、毎日二人の健康と幸福を、神様に祈り続けていたのですよ」
仲村渠はそれを聞いて、膝の上で拳を握り締めた。
(そんなことを言わないでくれよ)
その言葉は、声にならなかった。咄嗟に唇を引き結んだものの、下を向いた途端、自分の腿の上に、ぽた、ぽたと涙がこぼれ落ちるのが見えた。
今、起きている夢のような幸福の時間を、手放すための大きな痛みが行く先に大きく立ちはだかる。
はじめから決めていたことじゃないか。
なのに、――どうしてこんなにも悲しいのか。
(愛して、いたからか)
自分の心が、正しくそう答えてくる。
「……この嘘を突き通すことは、やはりできない、よな」
本音が、仲村渠の唇の上を滑って落ちていった。
後悔した。罪を償いたかった。一緒に、いたい――さらに熱く込み上げた涙を、仲村渠はどうにか喉の奥へと引き戻す。
「難しいでしょうなぁ」
断言しない優しさで、そう言って小さく首を横に振るミムラの気配を、仲村渠は落とした視線の向こうに感じた。
彼は、深呼吸した。拳を握って、二人の視線を今度はきちんと受けとめた。
「決意は変わりません。俺は、妻を助けてくれる人を探して、ここまで来ました。どうか、お知恵をお貸しください」
仲村渠は、二人に向けて頭を下げた。
東風平が組んだ腕をといて「いいのですか?」と問う。
「私は、夢を終わらせるための答えしか、与えられない」
「はい。それでいいのです」
顔を上げた仲村渠は、力強く答えた。
「深い感謝を覚えるほどに、俺は、いえ私はもう十分に幸福でしたから」
「……そうですか。ではお教えします、一度しか言いませんから、よく聞いてください――……」
そう言って、東風平はその方法について話し始めた。
説明は簡潔で、決して、仲村渠にも難しいものではなかった。
七
陽が茜色へと色彩を落とし始めた頃、仲村渠は帰宅した。
家に入るまで、人の気配はまるでなかった。
だが玄関を開けた途端に、手料理の匂いが鼻をかすめた。野菜スープを仕込んでいる湯気の暖かな香りもしてくる。
(幻のような、現実――)
仲村渠は、台所に妻が立っている光景を想像しながら、リビングへと向かった。
そこには傾いた日差しが差し込んでいた。南風に吹かれたカーテンが、食卓のある部屋で大きくはためいている。