19.寂しい男
ナオとノリ子さん、そしてナオのお父さんの3人を前にして、俺はナオんちの食卓に座っている。
時間は夜中。午後9時を回った。
目の前に置かれた麦茶の氷は全て溶け、グラスが大汗を掻いている。
「そんなところまで来てたのね」
俺は3人に全て話した。そして、もうあの家に戻りたくない、あの男の顔も見たくないし声も聞きたくないと言った。
言って俯いた。ぽたぽたと、滴が落ちる。
自分が情けなくて涙が出てきた。親父が情けなくて涙が出てきた。俺の13年に涙した。
「今日はうちに泊まりなさい。お父さんとは、しばらく顔を会わせない方が良いわ」
うん……と小さく頷いた。逡巡がある。何か解らないものと天秤に掛けている自分が居る。
「ん? 電話だ」
睦月家の固定電話が鳴った。
「僕が出るよ」
気を利かせてナオが出てくれた。
「はい……はい……」
ナオは受話器を持ちながら俺の顔を見た。どうやら俺の親父からの電話らしい。
首を振った。俺は出たくない。心がしんどい。
「はい、ですが出たくないと、……はい、はい、それは、……はい」
ナオは微笑みを浮かべながら親父の電話を取っていた。ナオは優男だからなぁ。いつも笑顔を絶やさない。マジ怒りなんか見たことがない。いいヤツなんだ。
……ずいぶん長い話だ。
「すみません、声が小さいようで。……はい、ちょっと待ってください」
ナオは受話器のボリュームを上げた。
「……はい。なんですか? すみません、もう少し大きな声で」
長い。相当長い。10分以上過ぎている。
「それって、アオイのことは? あの子の事を考えての話で?……」
これまで穏やかな声だったナオだったが。優しそうな口調の中に怒りの色が滲んだ。
「そうですか? それが普通なんですか? すみません、僕、普通って言葉が嫌いなんです。使うの止めてくれますか? 違う言葉で言ってください……はい……はい」
急に言葉が変わった。ナオは笑っている。でも怒っている。
「それはいきなりですね。何日か余裕をください。……ダメですか。はぁ……はぁ?」
電話が切れたようだ。
「どうした? 親父からだろう?」
「うん」
ナオは受話器を置いた。ナオは笑っているが怒っていた。
「おじさんがアオイに伝えてくれって。アオイとは親子の縁を切るって」
「なに!」
「なんですって!」
おじさんとノリ子さんが腰を浮かせて驚いた。いや、怒った。
俺は……俺は、なんだろう?
――楽になった――?――
なぜか涙が急に止まった。鼓動が平常に。……心が軽くなった?
「でね、僕たちとも縁を切るって。アオイ共々、自分の葬式に顔を出すことならんって。それと縁を切ったから、家にあるアオイの荷物全部持ち出せって。それも今日中にだって。……あの人、子供か?」
中一に子供かって言われたよ、あの男。
にしてもだ……
時計を見る。午後9時半を回っている。
「今日中かぁー。きついなー。これからどこに住もう?」
嫌がらせで親父ん家の前に家財道具を広げようか? 不思議と不安は無かった。
「よし!」
ナオが腕まくりした。
「30分で片付けるぞ! いいな父さん母さん!」
「2階の直央の部屋が空いてるわ。そこへ運びましょう」
「フッ、引っ越しの勘は残ってる」
ノリ子さんとおじさんがスゴイやる気だ。背筋が盛り上がっている。
実際の引っ越しに使用した時間はたった25分だった。
それは見事な親父無視作業だった。
夜の11時には風呂へ入って寝ることが出来た。
翌朝。
「知らない天井だ」
あ、ナオんちだった。睦月家だった。
部屋は信じられないほど綺麗に片付いている。前の部屋より6割り増しで整理整頓されている。
ナオは、下着を丁寧にかたづけていてくれたっけ。
階段を下りると「碧ちゃんオハヨー!」とノリ子さんの声だ。
「えーっと……」
パジャマ姿で、ぼーっとした頭と顔で、何して良いのか分からなくて、突っ立っていた。
「うちはねー、休みの日はパンを焼くの」
日曜日だった。
「夕べ仕込んでおいた自動パン焼き器で。あと1時間後に焼き上がるから、それまで待って。冷蔵庫から好きなの出してパンに使って。ちなみに平日は、まず着替えてから、朝ご飯作ってる間に髪の毛とか身の回りを整えて、朝ご飯食べてから、身の回りの整理して、外へ出るの」
「はっ! 了解です!」
俺はダダダと階段を駆け上がった。
「碧ちゃんの歯ブラシは洗面台に出してるからねー」
ノリ子さんの声が後を付いてきた。
着替えた。
しまむろで買った長袖のTシャツに膝上の短パン。
「それ、Tシャツじゃなくて、長袖のインナーだから」
やれやれ、ナオはうるさい男だ。
「今日のはフランスパンね。どこが欲しい?」
「えーっと、一番のお尻部分。……いえ、遠慮じゃなくて、硬いのが好きなんで、お尻の皮もそのまま付けてください」
フランスパンは固い皮が美味いんだ。親父は硬いのが嫌いで、パンは白いところしか食べない。
あと、ゴハンは水の量を多くした糊みたいなのしか食べない。普通のゴハンは硬いから胃でこなれないんだと。
食べ物は全てソフトドリンク状態が理想らしく、歯は噛むために使わない。喉の奥へ移動させるために使うものらしい。2回ばかり噛んだら飲み込んでいる。
全寮制の学生時代、部活の環境が酷くって、メシ食ってる時間が無くて、先輩から飲み込むように食えって矯正されていたらしい。その流れで今も飲み込んでるとのことだ。
社会人になって家庭の長にもなったんだし、生活態度を改められる立場になったのに、未だに先輩に言われたことを守ってるらしい。自意識は無いのか?
だから、俺は、反対に硬いのに飢えている。
固い皮のフランスパンにバター「マーガリンだよ」と、こしあんをたっぷり塗りつけ、二つ折りにして頭からバリバリと齧り付く。
「んまい!」
バター(マーガリン)とあんのハーモニィが素晴らしい。歯ごたえも味覚のうちだ。そんな目で俺を見るなナオ!
「いやに美味そうに食うなぁと」
ナオは俺が食事する姿がお気に入りらしい。スケベなナオのことだ、このシーンをおかずに使うんだろうけど、どこにスケベを感じるのかが理解できない。
「なんか、こう……アオイの顔が柔らかくなったね。女の子っぽくなった、と言えば怒られるな。力みが抜けた? そう! 顔と体から力みが抜けたんだ」
「ふぁろうふぇ(だろうね)」
親父から縁を切ると言ってきた。
縁を切ってくれるんだ。
ナオの口からそれを聞いたとき、心と体が軽くなったのを覚えた。嬉しくて嬉しくて……。
こんな解決法があったなんて、知るよしもなかった。俺、まだ子供だもんね。
夕べは、俺の短い人生の中で一番深く眠れた気がする。安心して眠れた、そんな感じ?
俺は挽きたて淹れたてのブラックコーヒーでパンの残りを流し込んだ。中学生になったんだから、コーヒーはブラックっしょ? この苦いのが良いんだ。……そのうち良くなってくるんだ。
追加のコーヒー豆をカリタでガリガリしてるにこにこ顔のおじさんが淹れたコーヒーは苦……美味い。おかわりは結構です。いえ、苦いからじゃなくて、夜眠れなくなるからなんです。
おじさんとおばさんが席に着いた。ナオと俺と合わせて4人でぴったりの食卓テーブルだ。
俺は、夕べのお礼を言ってないことを思いだした。それと迷惑を掛けたこともだ。
「おじさん、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。そして、俺を迎え入れてくれて有り難う御座います」
姿勢を正し、口元に付いたアンコをぐいと腕でぬぐいさり、ぺこりと頭を下げる。
「おじさんね、女の子が欲しかったんだ。中身は男の子だけど、見た目が女の子な碧ちゃんが同居してくれてとても嬉しいんだ。何か欲しい物があったら、何でも言ってね、おじさんが買ってあげるから」
マンション……いえなんでもありません。
「わたしは昔から碧ちゃんを息子、もとい……娘のように思ってたわ。中身はともかく」
アレだ。全然グサッと来ない。俺を理解してくれる人達と暮らせるって、……これを表現する日本語を俺は知らない。もちろん英語でも知らない。
「僕は、前の島暮らしに戻ったみたいで、逆に嬉しいけどね」
「ナオも良いこと言ってくれるぜ。お礼に、今日履いてるおパンツ、洗濯してからプレゼントするね。いつもみたいにおかずに使ってね」
「ついでに髪を伸ばしてポニテにしてくれ」
「直央!」
「ちょっとこっちにいらっしゃい」
おじさんとノリ子さんがナオをトイレの裏に引きずっていった。この家、トイレに裏があるんだ……。
ああ、俺は俺だ。男だけど女の体を持った俺なんだ!
「碧君……にした方が良いかな?」
血が滲んだ拳のナックル部分を舐めながら、おじさんは唐突にそんなことを言った。
「うーん、確かにそっちの方が良いですね」
なんかいい!
「わたしは碧ちゃんで通すわよッ!」
勢いが怖いので、ノリ子さんは今まで通りでヨシとした。
父とは……昨日が最後だろう。最後だったんだろう。
ノリ子さんは育児放棄だとか、児童福祉法なんとかだとかの方面で、俺の保護観察とかなんとかを申請して力ずくで通す! と言い切っていた。
俺の名字は如月のままだ。お母さんの葉月だとか、ノリ子さんの睦月だとかに変える事も可能らしいけど、あまりあの男を追いつめない方が良いらしい。
あの男は肝が小さいから、その心配はないと思うんだけど、万が一を考えろって。「碧ちゃんは女の子なのよ」だって? ……忘れてた!
おじさんが、睦月家の固定電話並びに各人の携帯型電話機より、あの男からの着信を拒否するように設定した。これで、あの男が急死しようと、家が燃えようと、俺たちに連絡が入ることはない。
「あんな事があったから、碧ちゃんに言うけれど……」
珍しい。おじさんのお話だ。
「如月は、いわゆるリーダーシップの検査に落ちてるんだ。島の勤務から戻ったら、私たちは出世することになってたんだよ。ちなみに私は部長内定者ね。でも、如月はそのまんまなんだ。見てる人は見てる……うちのような組織じゃ珍しい話だ。今の仕事場は滅多に首にはしないから、温和しく勤めていれば無事に定年退職できるだろう。心配は要らない」
自立して生きていけるなら、こちらに寄生してくることもまとわりつかれることもなかろう。何せ、自分から縁を切ったんだから。
でもって、おじさんと元親父と島でやってた仕事なんだが……。
「……おじさん……ところで、おじさん達の仕事って何だったんですか? 例の如く、あの男から聞かされてないんだ。ハムスターを大量に飼育することと関係あるんですか?」
俺の質問に、おじさんは顔を背けて聞いてないフリをしている。
「碧ちゃん!」
なぜかノリ子さんが大声を出した。
「アレね、ソレね、そうそう、自分が蒔いた種だけど、達夫さんは、奥さんと妹さんから逃げられ、最後まで残っていた碧ちゃんからも逃げられ、誰も残ってない。碧ちゃんが高校へ上がる頃に、転勤が待ってるはず。遠くへ飛ばされるわ。そうなると彼を見る人はもういない。これから一生寂しい人生を送る事になる」
「如月は、解ってなかったんだろうね。碧君が最後の味方だったってことを。絶対に逃げられてはいけない人だったって事を」
何かを誤魔化すように会話に割って入ってきたおじさんが、力なく首を振った。
「これまで、同じ釜の飯を食った同僚だからと、いろいろかばっていたけど。私も、もう見限るよ」
そして、最後まで味方だった人が去っていく。……最後の一人だったのは、俺かおじさんか……。
……さみしい男だな。あいつは……。




