第19話 知らないほうが、ずっとよかった
……なんて、最悪なタイミングだろう。
咄嗟にそう思う。なのに、口からは言葉が出てこない。
「……そ、っか」
アデラールが、そう口にしたのがわかった。今にも消え入りそうなほど、小さな声。
……勘違い、されている。
わかっているのに、言葉にならない気持ち。ただまっすぐに彼のことを見つめれば、彼は目の奥を揺らした後、笑った。
「……ご、めんな」
違う。そんなこと、言ってほしいわけじゃない。
心の中がそう叫ぶ。でも、口から言葉が出てこない。ただ静かに、彼のことを見つめていて。
「もう、俺、出ていくから」
違う。違う、違う――……!
頭の中がぐちゃぐちゃになって、私はただゆるゆると首を横に振ることしか出来なくて。
「フルール……」
ベリンダが、私の名前を呼ぶ。私はベリンダに視線を一瞬だけ向ける。
でも、ベリンダはぶんぶんと首を横に振るだけだった。……多分、自分で何とかしろということなのだろう。
「あのね、アデラール……」
静かに彼の名前を呼ぶ。彼は、笑っていた。
「迷惑、だったんだよね。……今まで、お世話になりました」
「ち、がうの」
「恩をあだで返すことしか出来なくて、ごめんな」
彼がそれだけを言って、部屋に戻っていく。大方、荷物を片付けに向かったのだろう。
(違うのに。違うのに……!)
頭の中がそう叫ぶのに、言葉にはならない。目の奥を揺らして、その場にぼうっと立ち尽くす。
しばらくして、ベリンダに肩をたたかれた。
「……引き止めなくて、いいの?」
ベリンダがそう問いかけてくる。……何とも言えなくて、私はこくんと首を縦に振っていた。
「……だって、そうじゃない」
「フルール」
「こんな辺鄙なところにいたって、彼のためにはならない。領民のためにも、ならないのよ」
それに、彼の体調だってある程度はよくなっていて。あれくらいだったら、この森を抜ければ本調子になるだろう。
(なんて、無責任もいいところ)
そう思うのに、脚が動かない。アデラールを引き止めたいという気持ちと、ダメだという気持ちが交錯する。
もうめちゃくちゃで、ぐちゃぐちゃで。どす黒い感情が、私の心をいっぱいに覆いつくして。
「もう、もう全部終わらせようよ……」
楽しかった。幸せだった。
認める。私は、アデラールと一緒にいて、幸せだった。とても楽しい日々を過ごさせてもらった。
恋をしているわけじゃない。愛しているわけじゃない。
だけど、ちょっとした同情のような気持ちは、あるんだ。
「また、私はベリンダと――」
「フルール!」
私の頬に、軽い痛みが走った。驚いてそちらに視線を向ければ、ベリンダが尻尾で私の頬を叩いていた。
ぺちっと。衝撃自体は大したものじゃなかったけれど、ちょっと鱗の部分が痛かった。
「もう、そういうのやめようよ」
「……ベリンダ」
「自己犠牲、止めて。見ていて痛々しいから」
違う。これは自己犠牲なんかじゃない。すべてを元に戻すための、当然の行動だ。
私みたいな魔女が、側に居ていい存在じゃなかった。……それだけ。
「フルールは、アデラールのことが好き」
「……違う」
「恋とか、そういうんじゃないよ。ただ、同居人として。多分、一種の家族愛」
「……違うの」
「それを認めてよ。……最善の選択肢、考えようよ」
「違うのよ!」
ベリンダの言う最善の選択肢とは、私とアデラールが離れずに済んで、アデラールが元の立場に戻ることなのだろう。
けれど、そんなもの無理だ。そんなことが出来たら、とっくの昔にやっている……というのは、大げさか。
「私はアデラールのことなんて、好きじゃない。拾わなきゃよかったって、心の底から思っているの……!」
自分でも驚くほどに、声が震えている。
アデラールに出逢わなかったら、こんな気持ち知ることはなかった。こんな、こんなっ……。
「じゃあさ、なんで、今にも泣き出しそうな表情なの?」
ベリンダが、そう問いかけてきた。……頬に、指を押し当てる。
温かな水滴が、私の頬を伝っている。……あぁ、私、泣いているんだ。
「説得力ないよ、フルール。……もう、全部認めようよ」
なんだか自白を強要されているみたいだった。
「アデラールのこと、好きなんだよね」
はっきりとした言葉。優しい声音。
頷きたくて、頷けなくて。そっと、唇を震わせる。
「アデラールにも、気持ち、伝えようよ。……一緒に、いたいって」
悪魔のささやきとは、こういうものなのかもしれない。
ぼうっとした頭でそう思って、私はベリンダを見つめる。水晶のような、美しい目だった。
「……あのね、フルールだけ幸せだったら、満足なんだ」
「ベリンダ?」
「使い魔は、契約者の幸せだけを望む。それ以外の者は、二の次なんだ」
……言いたいことは、大まかにだけどわかった。ベリンダは私の幸せだけを、望んでいるんだ。
師匠亡き今、ベリンダの契約者は私だから。
「フルールが望むんだったら、アデラールを洗脳することだってできるよ。だって、使い魔ってそういう存在だから」