グラスター戦記外伝 残り火③
……遠くから歓声が聞こえてきた。
おそらく戦いが終わったのだろう。建物の陰で見えないが、悲鳴や絶叫ではない歓喜の声が、味方が勝利したことを教えてくれた。
ロイは尻もちをついて荷車に背を預けると、大きく息を吐き出した。
自分でも信じられないくらい上手くいったと思う。
北門へ逃げる人々の流れに逆らい、武器を満載にした荷車を引きながら大通りを南進し、大声で同志を募った。
最初その呼びかけは、ことごとく無視された。
街の人々は足を止めることなく、我先にと逃げていった。
それでも声をからして叫び続けた。
「俺達の街を守るんだ! 武器ならここにある!」
やがて、逃げることに夢中になっていた人々のなかに足を止める者が現れ始める。そこへバーンが集めた十名ほどの若者たちが合流したことで潮目が変わった。
果敢に妖魔に挑む若者の姿は、グラスターの民の心に火を点けた。ひとり、またひとりと武器を手に取り、戦いに加わっていく。
気が付けば、用意した武器はすべてなくなっていた。
小さかった灯火が、いつのまにか街全体に燃え広がり、大いなる力となってグラスターの街を守ったのだ。
ロイは座り込んだまま、あらためて周囲に視線を巡らせた。
この辺りは下級貴族や騎士が暮らす住宅区画で、やや大きめの屋敷が目につく。ここから少し行ったところには性愛の神の神殿がある。ロイたちは転戦を続けるなか、神殿に多くの妖魔が殺到していると聞いて援軍に駆け付けたのだ。
住民たちは避難したのか、今は人っ子ひとり見当たらない。他の仲間達は今頃勝利の勢いに乗って妖魔の残党狩りを行っていることだろう。
「これが現実か……」
ロイは手にした剣に視線を落とす。
刃には汚れひとつ付いていなかった。
結局、一度も剣を振らないまま戦いは終わっていた。ロイがひとりでここにいるのは、荷車と共に置き去りにされたからだった。
散々勇ましいことを口にしていながら、いざ戦いが始まると、全力で戦場を駆ける味方に付いていくことができなかった。途中からは荷車を押しているというより、ただ引きずられているだけだった。
実際に戦闘の指揮を執ったのも、いつのまにか一行に加わっていた顎髭が異様に長い戦士だった。彼が率いる冒険者パーティが、戦術もなにもない素人集団を一端の戦う集団に変えてくれたのだ。
ロイはただ後方から奮戦する味方を応援するだけの存在でしかなかった。
「……帰るか」
ここにいても、もうやれることはない。
街が無事だとわかれば、きっと家族もすぐに家に戻ってくる。心配していた母に一刻も早く無事な姿を見せたかった。
ロイは空になった荷車を引いて家路につく。
派手にばらまいた武器の回収はほとんど諦めていた。何人かは返しに来てくれるかもしれないが、戻ったところでもう売り物にはならないだろう。
父にどう言い訳しようか。そんな思案を巡らせ始めた時だった。
どこかから悲鳴が聞こえたような気がした。
ロイは足を止め、耳を澄ませる。
今度ははっきりと聞こえた。
助けを呼ぶ声……すぐ近くの路地の方からだ。
ロイは迷わず荷車を置いて路地に入った。
勘を頼りにいくつか角を曲がったところで真っ先に目に飛び込んできたのは、二匹のゴブリンだった。おそらく討ち漏らした残党が路地に迷い込んだのだ。
そのゴブリンの視線の先には、倒壊した家屋の瓦礫に片足を挟まれている老婦人の姿があった。小さな女の子とその母親と思しき女性が必死に老婦人を助け出そうと奮闘しているが、ゴブリンが迫っていることには気付いていない。
このままでは襲われる――そう認識した瞬間、ロイは叫んでいた。
「やめろッ!」
殺気立った四つの目がぎろりとロイの方を向いた。
二匹のゴブリンは錆びて赤茶けた短剣を振りかざしながら襲い掛かってきた。
「妖魔だ! こっちに妖魔がいるぞーッ!」
ロイは大声を張り上げた。たとえ自分が殺されても、叫び声を聞いた誰かが駆け付けてくれれば――そんな意図があった。
無論、こんなところで死ぬつもりはない。
ゴブリンとは訓練兵時代に何度か戦い、勝利したことだってある。二匹程度であれば十分に対処できる自信があった。
が、現実は甘くなかった。
なぜ自分が騎士への道を断念したのか。そのことを思い出すべきだった。
剣を上段に構えて踏み込もうとしたところで、がくんと膝が崩れた。実戦の動きに右脚がついてこられなかったのだ。
振り下ろした剣が無様に石畳を叩く。
衝撃で手が痺れ、剣を取り落とした。
そこへゴブリンが飛び掛かっくる。
「くそッ!」
ロイは突き出される短剣を片手で防ぎ、もう一方の拳でゴブリンの顔面を殴りつける。鼻血を吹き出しながら仰け反るゴブリンを突き飛ばし、その隙に剣を拾おうと手を伸ばす――が、もう一匹のゴブリンに行く手を遮られた。
ロイはやけくそになってゴブリンに飛び掛かった。両手で無理やり頭を掴んで頭突きを喰らわせ、そのまま力任せに石畳に叩きつける。
ゴン、という鈍い音と共に頭蓋が砕ける手応えがあった。
頭をかち割られたゴブリンはぐったりと動かなくなった。
まず一匹――。
ロイは荒い息を吐きながら、再び落ちている剣に手を伸ばそうとした。
「ぐっ!?」
次の瞬間、左脚に灼熱の痛みが走る。太ももに短剣が突き刺さっていた。さっき突き飛ばしたゴブリンが体当たりしてきたのだ。
左脚をやられたのは致命的だった。唯一身体を支えられる柱を失ったことで、ロイは抵抗も出来ずに押し倒され、マウントまで取られた。
己が絶対的な優位に立ったと認識した時のゴブリンは獰猛な殺戮者となる。
ゴブリンの手が獲物を絞め殺そうと容赦なく首に伸びてくる。ロイは懸命に抗うも、ゴブリンとは思えぬ馬鹿力に徐々に追い詰められていく。
ロイの脳裏に死が過った。
(俺はまた、なにもできずに折れちまうのか……)
騎士になりたかった。
騎士として、か弱き者を守るために剣を振るいたかった。
その為に人一倍努力を積み重ねてきたのだ。
それなのに、なにもできずに殺されそうになっている。
自分が死ぬだけなら、まだいい。
だが、ここで負ければ、あの老婦人や母娘が殺されてしまう。
それだけは許せなかった。
誰も守れずに死んだら、自分を庇って死んだストルアンに合わせる顔がない。
あんな惨めな思いをするのは、一度で十分だった。
「俺は騎士だッ! 負けてたまるかァッ!」
想いが絶叫となって喉から迸った。
懸命に伸ばした指先が、太ももに刺さったままの短刀の柄に触れる。無我夢中でそれを引き抜き、ゴブリンの脇腹に叩き込んだ。
「グギャア!」
ゴブリンの身体が大きく仰け反った。
「うおおおおおッ!」
ロイは全力でゴブリンを跳ねのけると、そのまま馬乗りになって細い首に手をかけた。そして死に物狂いで締めあげる。
死から逃れようと手足をばたつかせるゴブリン。だが、その抵抗も徐々に弱まっていき、やがて止まった。
未練がましくぴくぴくと痙攣する身体が完全に動かなくなってから、ロイはようやく手を離した。
「ハァ……ハァ……ッ!」
ロイは仰向けに転がると、全身を弛緩させた。ゴブリン二匹と戦っただけなのに疲労困憊で動けなかった。おまけに左足は激痛を通り越して感覚がなくなっていた。
(なんてザマだよ……)
思い描いていた誇りある騎士の戦いとは程遠い、なんとも無様な戦いだった。ようやく出番と相成った剣も、結局活躍することなく今も地面に転がったままだ。
が、今の自分には相応しい戦いのようにも思えた。
剣士として何もできなかった……その悔しさはたしかにある。
それでも、心はどこか晴れやかだった。自分にできる最大限のことはやれたと、素直に思うことができた。
「――おい、大丈夫か!?」
バーンの声が聞こえてきた。ガチャガチャと甲冑を鳴らしながら近づいてくる複数の足音も。
「おせーよ……」
ロイは一言文句を呟いてから、ゆっくりと目を閉じた。
その後、駆け付けた衛兵によって老婦人は助け出された。傍にいた女の子と母親も無事だった。
一方のロイは、感謝の言葉をかけられるよりも先に、バーンに担がれて性愛の神の神殿へと連れていかれた。
神殿の周囲にはおびただしい数の妖魔の死体が転がっており、この地での戦いがいかにすさまじかったかが伝わってきた。
幸いなことに神殿の内部は無事だったようで、中には多くの怪我人が運び込まれていた。そのなかでも、ひと際体格の良い冒険者風の男が重傷らしく、神官が数人掛かりで治療にあたっていた。
バーンの話では、この大男は神殿の入口を守る為に、たったひとりで妖魔の大軍を相手に大立ち回りを演じたのだという。
凄い奴がいるものだと感心しつつ、ロイ自身も治療を受けた。
左脚の怪我は癒しの術での治療が可能だった。ただ、思っていた以上に傷が深かったらしく、魔法治療の後遺症と疲労のせいですぐには動けず、神殿で一晩を明かす羽目になってしまった。
おかげでロイが家に戻れたのは翌日の昼過ぎだった。家まではバーンとケリーが荷車で運んでくれた。
家に帰り着いたロイを待っていたのは、姉ローレアの強烈な平手打ちだった。
「生きてるなら、さっさと帰ってきなさいよ!」
感動の再会劇を期待していたロイは呆気に取られたが、よくよく考えてみれば当然の反応だった。戦いは終わったはずなのに一向に帰ってこないとなれば、最悪の事態を想像するなという方が無理な話である。
聞けば、兄弟子たちを含めた全員が、一睡もせずにロイの行方を捜して街中を駆けずり回っていたのだという。
姉は泣きながらひとしきり文句を言うと、ロイの身体を優しく抱きしめてから、両親を呼びに奥へと走っていった。
憔悴しきった顔で出てきた母に、ロイは「ただいま」と告げた。息子の姿を見た母は、喜びのあまり両手で口を覆ってその場にへたり込んでしまった。
父はといえば、無言でロイの頭頂部に容赦ないゲンコツを叩き落とした。
この父あっての姉だな、とロイは思ったが、今はこの痛みさえも愛おしかった。
こうして、ロイの剣士としての戦いは終わったのである。




