街教師
Aは、流れる雲を見ていた。雲は少しづつその表情を変えながら、空をゆっくりと通り過ぎていく。はるか遠く消えてゆく雲をながめながら、何も考えずに空き地を囲う柵の上に座っていた。早春の冷ややかな空気を胸いっぱいにすいこみ、やがて大きなため息をつくと、次に小さくあくびをして、柵から思いきりよくとび降りた。といっても柵はずいぶん低かったので、Aはまったく苦労せずに降りることができた。この街に来てからというもの、Aには何もすることがない、つまり仕事がない。かといって、思うがまま、力のかぎり自由に遊ぶということもできかねる次第なのだ。ふつうの場合、重力よりも重い或る強制力によって、人は勤勉に働き、自由に遊ぶものだが、ただその力がないという理由によって、Aは街をぶらぶらとあてなくさ迷うだけの日々を過ごしていた。街の人々はたしかにAをこころよくもてなしてくれはするが、その実、ちっとも心を許してくれず、たとえ目の前にいても、まるで薄いカーテンごしに対面しているかのような印象を受ける。ひとり、酒場の給仕で、Aに対して思わせぶりな、優しい微笑を投げかけてくるやせっぽっちで目の大きな女の子がいるものの、こちらがそれを勘ちがいして、親しみのこもった笑みを返そうものなら、釣り上げた魚に対する嘲りのようなけたたましい笑いがAの周りでどっとわきおこるのだ。そのときすでに少女の姿はなく、Aはただ周囲の陽気な悪意の渦に身と心とをまかせるしかなくなってしまう。そしてどうやら、自分にとってそれが苦痛でなくなってきたことに、Aは声すら出せないほどの恐怖と焦りを感じていた。
Aがこの街にやって来たのは一か月前、臨時教員としてこの村に派遣された。Aは一流とはいかないまでも、「そこそこ名の知れた大学をでた」、「活力にあふれ」、おまけに「教養ある」、そしてなんといっても、「聖職としての自負と誇りをもった」教師だった。「私から教職を取り上げたら」とAはしばしば周囲に吹聴するのだった、「何ものこらない」中央都市の学校で教鞭をふるっていたときなどは、明解な講義と公正な人柄で同僚や生徒から高い評価を得ていた。しかし誠実すぎる人格が災いし、上司との間で小さからぬいさかいを起こしてしまい、浅からぬ恨みを買い、とうとうとある意向によって、この片田舎の街まで左遷させられてしまったというわけだった。中央からの命によると、Aは、街に着いてすぐに街の学校の教員として働きはじめることができるはずであり、本人もそのつもりだったが、街に到着した日にはその見通しが立たないことがわかった。これは頭頂部の禿げあがった、気の小さそうな副校長の口から直々に聞かされたことだが、実は、何の手ちがいか、Aの到着する一週間前に別の教師が街に派遣され、あろうことかAの就くべき地位に居座るという事態になっていたのだった。Aはこれに対して並々ならぬ憤りを感じ、断固抗議した。「どういうことなのでしょう。私はどうすればいいというのですか。もちろん、何らかの措置はとってくださいますでしょうね?」「措置といいますと?」副校長は豆粒のような目をぱちぱちさせて訊ね返した。「たとえばその私より先に来たとかいう教師をどこかへやって、私をそのしかるべき地位に立ててくださるとか、そういうことです」Aはきっぱりと正直に言った。「しかとは解せませんな」副校長はなおも目をぱちぱちさせて、「ということはつまり、あなたの代わりに来た新しい先生を、わが校から追放して、あなたをその後釜に据えろとおっしゃるんですか」Aは答えた、「一つ訂正させていただくと、私の代わりにその教師が来たというわけではまったくないでしょう。きっと中央かどこかの、総務部のだれかの手ちがいで、ほんらい別の学校に送られるはずだったその人が、この街の学校に来てしまったのですよ。しかしながら、私こそがもともとこの学校に赴任する予定だったのです。ほら、ここにちゃんと証書があります」とAは四角い鞄から一枚の紙きれをだそうとしたが、副校長は右手でそれを制するしぐさをして、「いま問題となっているのは証書ではなく、実際に二人の教師が中央から送られてきてしまったこと、さらにあなたにとって都合の悪いことには、あなたより前に来たもう一人の教師がすでに業務をはじめていて、とっくの昔に同僚や生徒からのあつい信頼を得て、わが校の中で確固とした地位にいるということです。それに上司とも……」「まってください」Aはあわてていった、「もうお仕事をされているんですね。それはいいでしょう、かくいう私もそのつもりでしたし。でも、早くも一週間かそこらで人々の信頼を勝ちとり、確固とした地位についてしまっているなんて(しかもそれがとっくの昔だなんて)、どういうことなのでしょうか。あなた方にとってはけっこうなことかもしれないが、私にとっては大迷惑だ。第一、仮に彼がどれほど才能にあふれた良い教師だろうと、それに劣る働きをするつもりはまったくないですし、なにより、教師の地位につく権利はこちらのほうにあるのです。中央から任命されたのはまぎれもなくこの私なのですから」といって証書をとりだそうとするAから副校長は目をそらして、「どうやら、すぐには回答できかねる問題のようですな、これは。申し訳ないが、しばらくこの街で、あなたの処遇が決まるまでは、何もせず静かに暮らしてもらえないだろうか。その間、仮の住居や生活はきちんと保障しますので。とにかくたのむから、何も余計なことはしてくださるな」
Aはなおも証書を見せようとしたが、この副校長には大きな権限はないことを察し、いいかげん反論する気も失せていたので、その提案を了承し、当面の宿としてあてがわれた独身者のための寮「大人荘」に案内された。Aは玄関に取り付けられた板に書かれた文字をおとなそう、と読んだ。それは木製の二階建てで、かろうじて電灯がついているような建物だった。Aは二階のいちばん奥の部屋に入ると、灯りをつけた。何か、掌くらいの黒い虫がかさかさと目の前の窓の上の方の狭い壁の部分をよじ登っていった。「掃除をしなくてはいけないな」と言ってAは小さくため息をつくと、大きくあくびをして、粗末で汚れた寝床についた。
Aは夢を見た。石造りの古い城が、山のてっぺんにそびえていた。あるいはもしかしたら、雲が濃いから正確にはわからないが、城はおのずから天空に浮かんでいるのかもしれない。その内部は果てしない無限の迷宮になっていて、その中を何か考え事をしている大勢の人々がさ迷っていた。Aは正しく夢の中にいたので、本来知りえないそうしたことが手に取るようにわかり、それを不思議にも思わなかった。その城は世界のどこからでも、だれの目にも見えた。下界には雪が降っていた。山のふもと、深い銀世界の中を、城めざして歩き続ける男がいた。何故かはわからないが、Aはそれが、あたかも天地をひっくり返すような驚くべき試みであるかのように感じ、男に向かって声にならない声を叫んだ。男は城の近くまで来たと思ったら、とつぜん道なりに曲がって遠ざかってしまうのだった。Aは(これも理由がわからないが)この男の力になってやりたいと思った。気がつくと、Aは男のとなりにいて、その手を引っ張ってどこかに連れていこうとしていた。不思議なことに、男も安心してAに身をゆだね、疲れた足を先導者の力強い歩みと必死に合わせようとしていた。やがてAは見知った街に着いた。それはAが今後しばらく住むことになる街だった。「ようこそ」Aは上機嫌で言った。「わが街へ」「わが街だって?」男は注意深く訊ねた。「村ではなくて?」「ええ。私も来たばっかりなんですがね、村というにはずいぶん立派すぎますよ。都市というにはわびしいですが」Aは自分でも不思議なほどにこにこして言った。「城まで行くには、この街を通る必要があるのかい?」「城?」Aは声をだして笑った。「城なんて知りませんよ。あんなところに行く必要はまったくない。仕事も娯楽も、きっとここにあるはずです。ほら、着きました」目の前には、さっきまでAが寝ていた独身寮があった。「汚いし、虫がいますが、いいところですよ」男は首を振った。「ここじゃない。ここじゃないんだ。俺は城を目指しているんだ」「そんな、何を言うんですか。雪の中をさ迷うよりは、いいでしょう。それに、あの城にはなにもないですよ。中は、あなたみたいな人であふれてます」「城の中身をみたのか」Aは城の内部の様子を説明した。「違う。俺の目指す城は、そこじゃない。別の城だ」部屋に入ると、知らない男が寝ていた。男は目を覚ましてAに訊ねた、「あなたが噂の教師ですね?」Aは答えた。「Aです。あなたの名前は?」「Fです。そちらの方は?」「Kだ」「以前、どこかでお会いしましたか」「いや」「不思議ですね。どうも他人の気がしない」それからKとFはじっと見つめあって互いの素性ををさぐりはじめた。しばらく時間が経ち、Aは頃合を見計らい言った。「実は、これは私の夢なのですが、そろそろ目覚めてもいいでしょうか」「あなたの夢ですからご勝手にどうぞ。しかし状況が好転しているとはかぎりませんよ」FはAの心を見透かしたように言った。「誰も夢の中の幸福を外には持ち出せないのだから。それに、あなたにこの街の教師の座は渡しません」
目を覚ますと、すでに昼間だった。しばらくうとうとと夢の驚異的な魔力に逆らって覚醒し、理性をはっきり明らかにしたAは、あわてて身支度をととのえると(といっても寮には風呂もなく、便所の脇の洗面台で顔を洗うくらいのことしかできなかったが)、きのう副校長と面談した事務所にむかった。この施設は学校に用のある訪問者のためにあって、まだ許可を得ていない者はここで担当者と面談し許可をもらう決まりになっていた。恐ろしく小さく、簡便なつくりの建物であって、Aはこの施設がどうしても好きになれなかった。ここで対応を受けるということは、それだけで何か自分がいいかげんにあつかわれている気がするし、薄い肌色の建物を目にするたびに、わけもなくいいようのない不吉な感じをもった。「Aという者です。副校長様と、昨日のお話の続きをしたいのですが。今後の処遇についてお聞きして、すみやかに現状を解決したいと考えております。お忙しいとは思いますが、どうかお聞き届けくださいますようお願いいたします」Aは窓口に用件を話すと、受付の女がてきぱきと業務をこなすのを横目で見ながら真新しい長椅子に腰かけて待っていた。これといった特徴のない女で、濃い化粧が唯一の特徴かもしれないが、その化粧こそが彼女の特性のすべてを(良いところも悪いところも)打ち消してしまっているのかもしれなかった。Aは朝ご飯を食べ忘れて腹が減っただの、銭湯は近いのだろうかだの、さっき道端にいた猫は若いのか年寄なのかわからないだの、とりとめもないことを考えていると、やがて自分の名が呼ばれた。応接室に通されると、そこには副校長ではなく、Aのまだ知らない男が退屈そうに机の前に座っていた。「Aです。はじめまして」困惑を隠しながら、つとめて爽やかに明るくそう言うと、「どうも。主任の田口です、よろしく。私は副校長、つまりはその副校長に命じたところの校長の命によってここに遣わされました。Aさん、あなたに今後の生活の中における二、三の注意点をお伝えするためです」Aは期待に胸おどらせながら、「では、私の処遇が決まったのですね」と言った。「いえ、そうではありません。その逆です。むしろ、逆より悪いと言えるかもしれない」田口はAの顔をちらちら見ながら宣告した。「結論を申しますと、Aさん、あなたがわが校において教師の地位を得ることはとても難しい」「どういうことです?」「いま言ったままの意味です」希望が急に失望へと変わり、Aは思わず声を荒げながら、「話が違うではありませんか。だって、中央から任命されたのは私だと申し上げたはずです。それに、証書だってちゃんとある。いったいなぜ、私がこんな無情で不可解な処遇を受けなくてはならないのですか」と言って証書をとりだそうとしたAを制した田口は、あなたのお気持ちは十分にわかりますともといった顔で、「ですから、せめてもの罪滅ぼしに、といっても我々の側に法律上の明確な罪などないのですが、とにかく、今後しばらくはこの街で暮らしていただいて結構です。人並みの生活には苦労させません」Aは腹が立った。「こんなよく知らない街で職もなくひとり暮らさなくてはならないのですか。私は中央から任命されたのですよ。このままでは、私がその命に従わないつもりだとみなされるかもしれない。そうしたら、つまり中央に愛想をつかされでもしたら、新たな働き口をどう見つけろというのですか」田口はあくまで冷静に、というよりも冷ややかに、「それにつきましては、よく存じていますとも。さらにいえば、おそらくあなたが存じているよりも子細にわたって、もれなく存じています。そしてそういった事情をふまえてこそ、こちらの言い分もわかってくださるかと思います……つまり、この問題は、あなたの勝手な都合でどうこうできる類いの話ではないし、私の一存ではどうにもならない性質のものですし、副校長にもどうすることもできない。ただ全ては校長のお心一つで決定されるのです。ですから、もうこの件に関してはあなたのできることはなにもないのです。Aさん、あなたはたしかに運が悪い。何せあなたがはじめに事情を打ち明けたのは、校長ではなく副校長だったのですから」「それはいったい、どういうことです?」「ほかならぬ、そのままの意味です。はじめから校長に全てを話していれば、どうにかなったかもしれない。しかし、もう遅い。あなたは順序を間違えたのです。あなたはわが校において永久に教師をつとめることができないでしょう」「そんな決まりがあるなんて、少しも知らなかった。では、校長ははじめから私と会う気だったのですか」「そんなはずがないでしょう。校長がたかが採用未決定の、教師未満の人間に会うはずがない」「わけがわからない。それだったら、そんな馬鹿な話はないでしょう。いまからでも、校長に会わせてください。全ての事情をお話しします」「だから、もう遅いのですよ。誰もあなたの話を聞こうとはしないでしょう。Aさん、あなたは教師になることができない人間だとみなされたんです」Aは頭に血がのぼり、憤然として立ち上がった。「私はもう失礼します、田口さん。あなたと話していても埒があかない。もっと上の人と話をしなくては」田口は軽蔑をかくさず訊ねた。「上の人というと、どなたでしょうか」「たとえば、校長です」「ふむ、なるほど。Aさん、あえてあなたをお止めすることはしませんが、あなたはあくまでも校長、いや副校長、正直にいってしまえば私などよりさえもまったく下の人間、けして人にものを教えることのできない人間、つまりわが校においてこれっぽっちも使い道のない人間だということをお忘れなきように」Aは田口の忠告に答えず、さっさと事務所をあとにした。胃がむかむかとした。外は強い風が吹いていて、猛烈な勢いで黄色い砂ぼこりを巻き上げ、Aの目をちくちくと刺した。涙があふれ、視界が曇った。ふらふらとたよりない足どりで、どこか、ひとまず休憩できるところ、心をまぎらわし休めるところを探し求めた。
Aは腕で砂ぼこりから目を守りながら、通りの適当な喫茶店に入った。入口の看板には黒地に黄色く『喫茶酒場・袋小路』と書いてあった。古びたつくりの、いかにも人入りの少なそうな店だった。Aが自棄ぎみに店内に足を踏み入れると、そこは意外にもごった返していて、酒の匂いがあたりに充満していた。昼間から大勢の客が酒を目当てにいりびたっていた。酒場も兼ねたこの喫茶店は、がやがやとさまざまな声が入り乱れ、Aはその雰囲気に圧倒されそうになったものの、気をまぎらわせるにはいいわいと、むしろずんずんカウンターの方へ歩みをすすめた。客はAに気づいた者からなぜだかにわかに口をつぐみ、すなおに道をあけた。しぜんとAの周りはもの言わぬ人々の環となり、沈黙の波は店全体へとすっかり浸透していた。カウンターまでたどり着いたAは、あたりの静けさに不気味な感じを覚えつつも、かまわずビールを注文した。店主である白髪の男は給仕を呼んだ。高い声で、元気な返事があった。それは黄色いエプロンをした、やせっぽちで目のたいそう大きな少女だった。Aはなぜか、その少女の目を見るとどぎまぎとした。けして強く印象に残るような美しさはなかったが、その少女を見ていると心が妙に落ち着かず、ジョッキを手渡されたときには思わず取り落としてしまいそうになったほどだった。おまけに彼女から優しい微笑を投げられたので、親しみをこめて笑みを返すと、横から低いがらがら声がした。客の一人だった。「あんたは、新しく来た教師だね」Aはぐいっと一飲みしてから、間をおいて答えた。「そうだよ。でも、それもどうだか」「なんだい、変なことを言うね。あんたは一週間くらい前にここに来てから、ずいぶんと評判になってるよ。校長の覚えもめでたいって話じゃないか」「それは別の人間だ。私は遅れてやって来て、教師の地位をつかみ損ねた」「すると、あんたが噂の先生か。校長には会えたかい?」「いいや。でも、副校長には会った」「それじゃ、もう望み薄だな」他の客は一斉に笑った。Aと話している客も我慢できずに笑いだした。「とにかく、今日は飲めや。明日になったら心持も変わるさ」Aはジョッキの中身を一気に飲み干した。嘲り、笑い、悪態、さまざまな反応をごった煮にした喚声が上がった。おかわりは、と少女がやってきてAに訊ねた。
Aはしこたま飲んで、それからどこをどう歩いたかわからないが、気づけば独身寮の部屋で朝を迎えていた。ちなみに、この寮は「たいじんそう」と呼ばれているらしい。Aは伸びをすると、今日一日の計画をぼんやりと考えた。しかし、それはすぐに霧のように立ち消えてしまった。「もう望みは薄いのだ」Aは思った。「きっと、この街で飼い殺しにされてしまう。戦傷者がモルヒネ漬けにされるような、苦痛を苦痛と感じない日々がやってくるだろう。だが、いったいなぜ。私が何をしたというのか」ため息とあくびを同時に出して気分が落ちつくと、外へ出る気になってきた。「あの少女に会おうか。しかし、まだ時刻が早い気がするな。では、だめでもともと、校長に会いに行ってみようか。だが、どうやらもう遅いに決まっているらしい。つまり、私はどこにも用がない男だ。そして誰も私に用がない」Aは笑ったが、どん底な気分そのまま自分を笑う気にはなれなかったので、かわりに主任の田口の顔を思い出して笑った。すべてが食べ物でできているかのような顔だった。ウエハースのような眉毛、団子鼻、たらこ唇。Aはだれかに似ていると思った。しかしその名は思いだせずじまいだった。笑いつかれて、時計を見ると、もう一時間が経っていた。「出かけるか。よし、行くぞ、聖職者Aよ!」自分を奮い立たせて、這うようにして外へ出た。もう風は吹いていなかった。ふと見上げた空には、雲がじっと浮かんでいた。Aは城の夢を思いだした。「Kは、いまこのときも城を探し求めているのだろうか。それにFは、――果たしてFは、本当に私の前に教師の地位についた人物、つまり(そう言ってさしつかえなければ)私の「にせもの」なのだろうか。そして城は、あの考える人たちの迷宮は、この世界のどこかに存在するのだろうか。存在するとしたら、この世界のどこからでも城が観察できなければならない。つまり、この街の淀んだ空からでも、浮かない顔をして浮いているあの雲の切れ目から、ちらりとその姿をかいま見ることができなくては……私は、何もできないまま終わってしまう」夢にまで見たあの城を、もう一度、この街の空で見たいという願望が、Aを完全に支配した。空にへばりついたまま動かない暗い雲をただひたすらながめて、Aはその日一日を過ごした。
それから一か月がたち、Aは雲をながめるだけの生活を続けていた。街の学校からも、中央からも新たな「お沙汰」は下されず、働くでもなく、遊ぶでもなく、Aはただひたすら無為に過ごしていたのだった。そしてここにきて最初の晩きり、夢を見ることがなくなり、ぐっすりと眠れるようになったはいいものの、健康的な身体はかえって単調な生活の中で意欲を失っていく速度をはやめた。気休めに酒場に行っても、街の人々にもの珍しそうにじろじろ見られるし、給仕のあの目の大きな少女は常連の若い男との恋に忙しくてAのことをめったに見ない。それでも、あの微笑を受けたくて、いまでもときたま、酒場に足を運ぶのだった。「いらっしゃい」と客の一人がAを冷やかした。「注文はビールでいいかい、いいよな。おい、ビール、ビール!」勝手に注文されたビール片手に、Aは娘の近くまで歩いた。彼女は、首からタオルをかけた若い金髪の男と、仕事そっちのけで楽しそうに話していた。店主はお人よしそうな形のいい鼻をときたまそちらに向けるが、しかたなさそうにため息をついて微笑するのだった。Aも同じだった。娘が例の微笑を若者に見せるたび、ため息をついて情けない笑みを浮かべるのだった。嫉妬はすでに羨望に昇華されていた(あるいは堕落していた)。「私も年寄ではないが、彼ほど若くはない」Aは考えた、「おそらく、彼女のあの不思議な微笑みを受け取るのにふさわしいのは、私よりも彼なのだろう。私もけっして(これは本当のことだが)彼女に恋をしているわけではないし、魅力的にも思っていないから、ただあの笑みにだけ興味があるだけだから、あのタオルに縫いつけられたハートの刺繍を見ても、なんとも思わない。でも、この街に来て間もない頃のように、会うたびにあの微笑みを彼女がしてくれたら、こんなに刺激的なことはないんだが!」客の一人がAの心を覗きこんだかのように言う、「先生、やめときな、それはかなわぬ恋だぜ!」と笑いながら、「純子ちゃんはタカシくんのもの、いや、タカシくんは純子ちゃんのもの。これは天地がひっくり返ったって変えられねえ相談さ。あんたもわかってるだろ、タカシくんは毎日汗水たらして働いて、毎日暇そうなあんたとは大ちがい、おまけになかなかの男前じゃないか、なあ」Aはタカシの容貌についてはいささかも同意できなかった。なるほど、切れ長の目はいかにも彼の性格を物語っているようだが、それまでである。小さく引き締まった口元は意志の強さを感じさせるものの、はたして、それ以上の深い意味、ましてやそこに美しさがあるかは大いに疑問だった。率直にその旨を話すと、客はふいにきょとんとしたあと、そっぽをむいてどこかへいってしまった。店主につまみをたのむと、殻つきの胡桃だった。Aは考えた。この殻の中に、世界があるとすれば、どうだろう。殻を割った瞬間、衝撃に驚いたり、外気が肌にあわなかったりして、中の生き物たちは軒並み死んでしまうのではないか。そうだとして、どうすれば殻を割らず、世界を覗けるのだろう。私には、胡桃の中の宇宙を想像してみることしかできない。しかし殻を割っても、中身は干からびた脳みそのような実が入っているだけだった。ジョッキの中身を飲み干して代金を払い(ツケにする客が多かったのでAは店主からありがたがられていた)、鈴つきの扉を開けて、店から出ていくときに、後ろから純子(というらしい少女)の甲高い嬌声がきこえた。
寮への帰り道、Aはふと「学校」を見に行こうと思った。学校は街はずれの山の頂にあり、生徒と職員は全員寮生活をしていた。学校の人間が街まで「下りてくる」ことは滅多になく、Aに会いに副校長や主任の田口が事務所を訪れたのは驚くべきことであり、街でもちょっとした噂になったほどだった。Aは半月ほど前に直訴のため登山を決行したが、どこから情報がもれたのか(考えてみればそんなことは決してありえず、もしかしたら袋小路で酔っている間に誰かにもらしたのかもしれなかった)、山のふもとへ到着する前に警備の男たちに捕まってしまった。屈強な男と、脆弱な男の二人組だった。Aは断固抗議した。「あなたたちは、いったい何の権利があって私の行手をはばむんです。私がどこに行こうが勝手でしょう」屈強な方の警備が答えた、「じゃあ、あなたはいったい何の資格があって学校へ乗りこもうとしているんですか。学校には、とても繊細で感じやすい子供たちもいるし、先生方だって業務に忙しい。そんなところに、あなたのような何の資格も持たない人間を侵入させるわけにはいかない」脆弱そうな警備が付け加えて、「それに、僕たちがいくらあなたを捕縛しようと、それはほら、僕たちは警備員ですから、怪しいひとはつかまえなくてはいけないものですから」Aはこんな待遇ももう少しの辛抱だと考えて、泣く泣くその場は折れた。そうしていまむかっているのは、山とは反対の方角にある小高い丘だった。もし丘のてっぺんに何もなければ、その地点から山の方をあおぎ見れば、木々や山の稜線や雲に邪魔されずに、学校の姿を一望のもとながめることができるのではないかとAは思っていた。「丘はだれの所有物でもない」という話を酒場の常連客から聞いたとき、Aはそんなことはあるはずがないと思ったが、その帰り道に寄ってみると、はたして丘には所有者を示す何の立て看板もなく、さしたる手入れもないまま草木の伸び放題にしてあった。丘に着いたAは、雑多な植物が自由に、生えるがままで林のようになっている中をかきわけかきわけ斜面を登っていった。丘のてっぺんは案の定、副校長の頭のように禿げあがっていて、視界をさえぎるものは何もなかった。Aは学校の方角を見た。高い山の頂に、無数の建物が入り組みつつ複雑にかたまっていた。塔のようなほそながい建築物が幾本か天に向かって伸びていて、その尖端が雲に隠れて見えないものもあった。全体として白い印象を与えるその建築群は、しかし個別に見ると多様な色の集合体でもあった。ただしそれぞれがそれぞれの色を阻害しあって、ごく薄い印象しか残さないため。結果としてありもしない白の印象を見る者に与えるのだった。Aにとって、その姿は吸いこまれるように美しかった。しかしそれと同時に、これほどおぞましい校舎もないのではないか、とさえ思った。その建築群の崇高さは、もはや宗教的な領域にまで達しているように見え、Aの教師としての個人的な倫理観とは相いれないものだった。「崇高な美を、教育の道具にするなんて、何と不毛な行為なのだろう。それはほんらいそれぞれの心にあるものだ。自由な魂をあのような怪しげな建物に閉じこめて、いったい何を教えこむつもりなんだ?」むくむくとAの心に怒りが満ちた。決然と掌を銃の形に模して、いちばん高い尖塔の、雲に隠されて見えない頂を狙った。見えない架空の銃弾は雲の中に吸いこまれ、いまだ見ぬ校長の胸を打ち抜いたように感じた。ただしそれは書斎の壁に並んだ肖像写真かもしれなかった。Aは、大きなため息をついて(もうあくびはでなかった)、これでもう私はこの街から離れることはできないだろう、罰とは罪を犯したものと犯されたものの間における一種の絆なのだから、と思った。
その晩、Aは久しぶりに夢を見た。城の迷宮の中にいて、Kもとなりにいた。Aはなんだか安心して、なれなれしくKに語りかけた。「ねえ、Kさん、ついにあなたも城に入れたじゃないですか」KはAに気づくとぎょっとしたようだったが、落ち着きをとりつくろいながら「ここは俺の探してる城じゃない、ちがうんだ。俺は長い間考えて、城というのは入れないから城だということに思い至った。それまでは城は攻略することができる、なにか現実の城だとおもっていたんだな。ところがそれは間違いで、俺は無駄骨折っていたんだ、なんのことはない、城は幻だったのさ。でも、たしかに城はある。これを説明のつかないことと思うかもしれないが、それはこういうことなんだ。つまり、現実にある城は、俺の探していた城じゃなかったのさ。俺の探す城は、はるか天空に浮かぶ、想念のようなとりとめないものだ。でも目に見えるのは現実の城ばかり、これじゃあ勘ちがいするのも無理ないことだ。Aとかいったな、どうか、俺のことばの意味をよく考えてくれ。そして理解してほしい、城に対して気を許してはいけない、それが幻でも現実でも。でも一方で、城なしで生きていけるような心のない人間にならないでほしい。あのFのような……あの男は、俺の昔の知りあいによく似てるが、中身はまるきり別物だ。あの男に気をつけろ、そして勝とうなんて思うな!」Aは、いまや迷宮にKとふたりきりであることにやっと気がつき、思わず叫んだ。「これはおかしいな、まるでおかしい!」
目を覚ましたAは、顔を洗うと寮をでて、近くの銭湯へいき、ひとまずさっぱりとした。そしてその足で事務所へむかった。受付の女はAの顔を見ると一言、「応接室でお待ちしている方がいらっしゃいます」Aは微笑して、「わかりました、ありがとうございます」はたして、応接室にはFがいた。手足の長い、ほっそりとした、全体として鋭い印象を与える男だった。それが夢で見たFそのままの姿なので、Aは思わず頬をつねった。Fは笑って、「まあ、おかけください」上目づかいに「どうして私がここにいるか、解せないようですね」Aは気を取り直して、「そんなことは、どうでもいいことです。説明なんて後からいくらでもできるじゃないですか」「なんの用です?」「宣戦布告にきました」Fは大きくため息をついた。「あなたは教師に向いていない」続けて、「まず、まつげの形が美しくない。そして、声が見た目より高すぎる(あるいは低すぎるかもしれない)。なにより、教師は城の夢なんか見ない」Aはあくびをして言った。「あなたは、いままでの副校長や田口主任より、よほど手ごわいようですね」「この世では、あなたよりも敵の方がはるかに偉大で強大なのです。それが常識です。ご存じのはずでしょう」「とにかく、私はこれだけを言いに来た、……」Aが言いかけるのFは制して、「そんなことはどうでもいい。あなたは敗者だ」「そうです。それがいいたかった。私は敗者だ。だが、現実として、勝負に挑むのはこれからだ」Fは面倒くさそうに手を二回たたいた。「この男をつまみ出せ!」Aは警備員に両側からつかまれ、事務所から追い出された。そして中央にコンクリートブロックの積んであるだけの人気のない空き地まで連れてこられると、こっぴどく痛めつけられた。「君たちはこう考えたことはないかね?」Aはぶたれながら、なぐさみにいま脳裏に去来してきた適当な思いつきを言った。「我々の住んでいるのは胡桃の殻の中にすぎず、その外側の宇宙は果てしなく広い、と」警備の一人が手をとめた。「それはいったい、どういうことだい?」「それ自体はどうってこともないさ。ただ、胡桃の殻は恐ろしく硬くて、絶対に内側からこわすことはできない」「それじゃ、どうするんだ」「簡単なことだ。殻の外側の宇宙を想像するのさ。それによって外側の無限の可能性をもつ宇宙と内側の無限の想像力をもつ宇宙が相震え、重なり、響きあう。想像することで殻を破らずに外の世界と通じることができるんだ」警備はにたにた笑って、「下らない妄想は、日記にでも書いとけ。くたばれ、この野郎!」とびきり大きな一発を喰らってのびたAは、ばったり倒れ、その場にしばらく横たわっていた。一見死んだようなその姿は、まるで空に浮かぶ雲を見ているかのようだった。あるいは、また城の夢を見ているのかもしれない。どちらにせよ、ものごとの終わりというものはなく、始まりというものもどこにあるのかよくわからない。そうか、始まりの前にあるのはいつも「完」、つまり終わりなんだ。Aはぼんやりした意識の内で、はっきりとそう考えた。