99 自分を重ねた日
気まずい。もうとにかく気まずい。
推しのデートの余韻を私が引き裂いてしまった。何でデートの帰り道にその相手でもない私が馬車に相席させてもらっているんだろう。
黙っているのと話すのとどっちの方が気まずいだろう。話すなら早い方が良い。でも話したって会話を続ける気がないことに定評のある推しだ。会話が途切れる方が気まずくないか。
それでもお礼くらいは言わなくてはならないと思うから私は意を決して俯けていた顔を上げた。
「あの、エリオット様。乗せてくださってありがとうございます。沢山泣いてしまって目が腫れそうなので助かりました」
窓の外を眺めていた推しが私に声をかけられて紫の視線を向けた。夜道に等間隔に設置されたガス灯の光が時折入ってようやく推しの顔が見える。御者台には吊りランタンがあるだろうけど中までは光が届かない。白皙の頬が外の灯りでぼんやりと浮かび上がる。
「……泣いたの?」
問われて、泣きました、と素直に私は答えた。ふぅん、と推しの声が返ってくる。
「きみは何処で泣いたの」
私はヘンリーにしたのと同じ感想を推しにも伝える。話しているうちにあの感じた想いが蘇って来そうで少し言葉が詰まった。推しに不審がられなかったかは心配だったけど泣くわけにはいかなくて何とか堪える。
「ナイフで胸をひと突き。文字にするだけ、言葉にするだけなら大したことないように聞こえるのかもしれません。でも、もし自分がナイフを持っていて、それでしか好きな人を追いかける手段がないとしたら。想像したんです。私だったら。私だったら、それを刺せるだろうかって。ちゃんと絶命できるように勢いよく、狙いを過たず。怖くなかったのかなとか、痛くなかったのかなとか、思ったけど、でも彼女はそれよりも好きな人のいない世界に生きる怖さとか置いていかれた痛みとか、そっちの方が耐えられなかったんでしょうね。そう思うと本当に、涙が」
出ちゃって、と私はそっと目元を拭った。暗いタイミングだったから見えていないと良いのだけど。
「明日を思い描けないくらい生活の中にその人がいて、その人なしの明日を生きていても仕方がなくて。何だかそれ、解るような気がするし。生きててくれればそれで、充分なのに」
あぁ、と言いながら私は自分で納得する。それはまるで私のことだ。原作に弄ばれ果てには見放され、自分だけが取り残された現実で迷子になってしまった。何も殺さなくても、という感情は今夜見た劇でも同じだ。その死は果たして、必要だったのか。
ある意味で死が解放だ、という考え方は解る。今夜の劇のように死をもってしか誰にも邪魔されず結ばれ得なかったのだろうことも。悲しくて、苦しくて、つらくて、痛くて、けれど何処か美しい。でもそんなのは、幻想だ。周りから見ただけの。一方的な目線で眺める美しい絵画と一緒だ。
「……きみなら、どうするの。きみは毒に耐性があるからナイフしかないはずだけど」
推しに尋ねられて、いいえ、と私はかぶりを振った。
「私ならまず、そんな事態にはなりません。私はどんな毒でも半日で解毒してしまうので、まず数日間仮死状態になることがありません。好きな人をみすみす死なせるなんてこともしません。私の持てる力全て使って、全力で回避します。そのためなら何だってできます。私、物語は必ずめでたしめでたしで終わらないと嫌なんです。そのためなら夢を見ることも、神様のシナリオを書き換えることだって、できちゃう気がするんですから」
あなたを、助けたくて。あなたに、生きていてほしくて。あなたに、幸せになってほしくて。
推しを救いたい想いだけで此処までやってきた私は胸に手を当てる。これが夢でも現実でも、推しが目の前にいて手を伸ばせば触れる場所にいるのは事実だ。私は後悔しない選択をしていくことしかできない。でもあの劇とは同じにならない。
ふ、と推しが息を零す音がした。
「劇作家にでもなるしかないな。初演は観に行ってあげる」
ふふ、と私も笑った。世界を紡ぐために初めてキーボードを叩いたことは黙っておくことにした。
「エリオット様も観劇お好きなんですか?」
「も、と言うと、あぁ、あいつか」
声に不機嫌さが滲んで私は苦笑した。ヘンリーとは一緒に過ごした時間も長かったのだろうに、それともだからこその反応なのだろうか。
「王都にいた頃、先生がよく連れてきてくれたんだ。私は父の研究があったし、あいつは単純にそういう文化が好きだ。何回同じものを見ても飽きない質らしい。きみも同じ?」
どうでしょう、と私は首を傾げた。先生が二人を連れてきていたというのは意外だった。剣の稽古ばかりかと思っていたけど、二人の情操教育もしようとしていたのかもしれない。
「劇場で演劇を観たのは初めてなんです。大興奮でしたし凄く泣いてしまうくらい満喫しました。主役のお話を辿るのに夢中になって細かいところは見逃していると思うので、何度観ても楽しい発見がありそうだなとは思います。ヘンリー様も知識が増えるほど楽しくなると仰っていましたし、きっと他の視点から観るのもとても楽しいんでしょうね。何度も来たくなる気持ちは解るかもしれません」
クイーンズエッグはアニメにはなったけれど舞台化はしていない。舞台の沼も深いと聞くから、そっち方面にもハマれば大変なことになるのだろうとは思う。今日の舞台をこんなに夢中になって見られた自分には素養しか感じないけれど。
「エリオット様が許してくださるなら、今度は人を仮死状態にする秘薬を渡した人物に焦点を当てて観るのも、面白いかもしれませんね」
「私の許可が必要?」
不思議そうに問われて、はい、と私は返す。一昨日の試飲会で釘を刺したことを推し本人は忘れていそうだった。それくらいきっと、私には興味がない。
「お父様から引き継いだ、大切な研究でしょうから。私みたいなのが無闇に踏み込んで良いとは思えませんもの。まぁ許されたところで益になるような見方ができるとは言えないんですけど」
はは、と苦笑する私に推しはまた、ふぅんと返す。関心のなさそうな声でまた少し気まずい思いをする。でも気まずいのは私だけだ。興味関心のない相手と気まずくなることなんてないのだから。
「今日の劇できみの視界にあの神父は入った?」
「……正直に言ってひどい人だと思ってました……」
推しの研究対象である秘薬を持ってきた人物ということをすっかり忘れていた私はおずおずと答える。へぇ、と推しは少し関心を持ったような声をあげる。
「どんなところが?」
「傍目には二人の恋を応援する唯一の味方みたいに見えますけど、だからってそんな一か八かの賭けに出なくたって良いのにって思いました……確実性がない計画で、擦れ違う要因を作ってしまったから」
それに縋るしかなかったと思い込まされた気がしてモヤモヤしてしまうのだ。
「本当に二人のこと、応援してたのかなって」
「ふぅん。そういう解釈は初めて聞いたな」
「あわわわ。ただの印象なんで話半分くらいに聞いてくださいね」
解釈違いと言われるのは怖い。揉める原因だ。一個人の感想であって別にこれが正義と主張しているわけではないから大丈夫とは思うものの、何処にだって過激派はいるものだ。皆が皆、そういう見方もあるか、と思ってくれるわけではない。
「……あの薬が渡される場面、畑だったろ。土から出ていた葉はマンドレイクによく似ている。きっとあの劇団の演出家は薬の一部にマンドレイクを使っていると解釈したんだ。前に見たのはヴァレリアンの花だった。示唆する植物が劇団によって違うのは興味深い」
私は必死で記憶を辿る。正直言って全然覚えていなかった。これは人を仮死状態にする薬、と役者が朗々と声を張るシーンなのは覚えているし、何なら薬を渡される恋人の女性が何色のドレスを着ていたかくらいなら言えそうだったけれど、背景の舞台セットまでは記憶にない。夜しか会えない恋人が生垣を挟んでその名でなければ、と嘆くシーンのセットはロマンチックで覚えているのだけど。
「葉っぱだけで何の植物か分かるのなんてエリオット様くらいだと思いますけど、エリオット様らしい着眼点ですね」
それも遠目で。マニアックすぎて推しくらいしかそんなところに着目しないだろうと思ったけど素直に感心した。あと適当にその辺の植物を用意したのではない、劇団の小道具へのこだわりも。
「というか、マンドレイクって実在するんですか?」
「普通の植物だけど何だと思ってるの」
「魔法とか錬金術とかの方面でばっかり聞いていたので……」
「あぁ、伝承のこと? 抜く時の悲鳴を聞くと絶命するとかいう。それが本当なら私やマイケルは何度も死んでる」
あの庭にあるんだ、と思って私は微妙な気持ちになった。それなら“普通の”植物なわけがない。
「まぁ抜く時の音が悲鳴に聞こえるというのは分からないでもないな。根がびっしり絡みついているから抜くと一緒に千切れるんだ。それがうるさい」
うるさい、か、と私は苦笑した。どれだけ恐ろしい植物として語られても推しにかかれば大したことないように聞こえる。そうなれば恐怖は少し鳴りを潜めた。
「興味があるなら今度抜く時に呼ぶけど」
「ちょっと興味ありますね。よろしくお願いします」
「そんなもの聞きたがるの、きみくらいだろうな」
「そうでしょうね。一般的じゃないのは自分でも思います」
自覚があるから私は誤魔化すように笑った。普通の令嬢なら怖がるところなのだろう。でも命を奪う悲鳴の正体が根の千切れる音なら、その論理的根拠に基づいた事象の検証に興味があるのは事実だった。危険がないならどんな風に聞こえるのか、せっかくだから体験してみたいと思うタイプらしい、私は。
「エマ」
推しに呼びかけられて、はい、と私は無防備に返事をした。ガス灯の光が刹那、車内に差し込む。推しの目が真っ直ぐに向いているのを知って私は呼吸を忘れてしまった。
「昨日の朝、きみに会ったのは私の夢か?」
推しから触れられたそれに私は何と返そうかと逡巡し、思わず息を呑んだ。