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95 早朝に起きたハプニングの日


 翌朝、令嬢らしからぬ文字で私は何とかかんとか文字を書く。読み書きはまだ簡単なものしかできない。子どもが教材として使うテキストでもまだ四苦八苦する私には自分が書きたいように書くだけの技術がない。こう書きたい、この文章にしたい、というものはあれど単語も綴りも果ては文法もまだまだな私にはひとりでは分からないことも多いのだ。


「お嬢様、此処少し違っていますね。文字がひとつ多いです」


「え、うそ。注意してたのに」


 ミラに指摘されて私は彼女の指先を覗き込んだ。言われた通りに綴りが間違っている。がっくりと息を吐いた私に、でも、とミラは励ましてくれた。


「以前より格段に上達されていますよ。日々の努力の賜物ですね」


「ありがとうミラ。ミラは褒め上手ね。それに励まし上手」


 いいえ、とミラはかぶりを振った。艶やかな前髪が揺れる。


「私は事実を申し上げているだけです。お嬢様が努力されているのは傍で見ている私が一番よく知っているんですから。ご主人様も解っているはずです。歴史もよく頑張っていらっしゃいますし、ご立派ですよ」


 イドラグンドの歴史を全然覚えられない私の良いところを何とか探そうとした結果、努力している姿勢を評価してもらえたようだと苦笑する。アレックスやポピーの方が歴史に詳しそうなくらい私は物覚えが悪い。この国は戦をしすぎだ。いやこの国には限らないけれど。人の歴史は遡れば遡るほど争いに満ちている。女王の統治に落ち着いてからの方がまだ歴史としては短いくらいだ。落ち着いてきたとはいえ、女王が暗殺に怯えるのも解る気がした。


「ありがとう。あ、あのね、ミラ、次は『お返事お待ちしています』って書きたいの」


「それですと──」


 私はアイリスへの手紙を完成させるとミラへ託した。ミラには昨晩ミリーやアイリスとの関係性を話しておいた。一緒にペインフォードから出てきたのであればご心配でしょう、とミラは不安そうな表情を浮かべて返す。ミリーと話してミリーが私を心配していることを非常に強く感じたらしく、意気投合したようでもあった。ミラはこの屋敷で顔見知りがほとんどいないから、ミリーという知り合いができたのは心強いことと思う。


 ミラが手紙を届けに部屋を出て行った後、私は部屋のバルコニーへ出た。まだ先生は来ない朝の時間。こんなに朝早くから動き出すのは使用人くらいだろう。貴族の朝は遅い。深夜を超えてもパーティーに出席しているのだから当然と言えば当然なのかもしれないけれど、朝方生活を続けてきた私にはつらい。それにまだそんなにパーティーへの招待状も来ていないから朝起きて勉強する生活を続けている。使用人生活は密かに体力をつけてくれていたようで、それには感謝していた。


 春の匂いが強くなった朝は爽やかだ。ガーデンに力を入れる屋敷は多いから、色とりどりの花も多く咲いている。緑が濃くなるにはまだ暑くなる必要があるだろうけれど、この爽やかさも私は好きだ。朝にしかないひんやりとした澄んだ空気と微かに風に乗ってくる花の香りが心地良い。


 少し緩んだ(かんざし)を挿し直そうと思って私は後ろにまとめた髪を(ほど)く。はらりと枝毛ひとつない黒髪が風に流れる。ミラが毎晩丁寧に香油を塗って手入れしてくれるから更に綺麗になっていた。簪でいくら結おうと跡が全然つかない。


 少し風に髪を遊ばせて微かに香る香油を楽しんでいたら、う、と呻く声が聞こえた気がして慌てて顔をそちらへ向けた。玄関口が見える場所に黒い塊が蹲っている。手すりから少し身を乗り出してそれが何か確かめると私は慌てて部屋の中へ身を翻し、勢い良く扉を開けて走り出した。


 推しだ。


 推しが、蹲っている。


 体調でも悪いのだろうか。それとも怪我をした? ドレスが走りづらい。シンデレラよろしく裾をたくし上げて腕いっぱいに布を抱えながら玄関ホールへ続く階段を駆け降りた。まだ誰もいない。掃除にも出てこないほど早朝というわけではないだろうに。掃除道具を取りに行っているとか、たまたまだろうか。不運すぎる。


 私は玄関扉に体当たりする勢いで開けると外へ飛び出した。推しはまだ其処に蹲っている。足元に庭園で摘んできたらしい籠が転がっていて、片膝を着いて白い手袋で口元を覆っていた。


「エリオット様!」


 扉に体をぶちかましたせいで肩が痛かったけれど、それに負けていられない私は推しの名前を呼んだ。推しは緩慢に視線を上げる。その真っ青な顔色を見て私は息を呑んだ。


「どうしたんですか、大丈夫ですか?」


 慌てて駆け寄ってしゃがみ込む私に推しは首を振った。微かすぎてさらりとした黒髪が揺れなければ見落としてしまいそうだ。冷や汗をかいている様子で、呼吸が荒い。息苦しそうだ。口元を押さえているところを見るに、吐きそうなのかもしれない。


「立てそうですか? 誰か……っ」


「いや、良い」


 消えそうな声で静止がかけられたけどとても良い状態には見えなくて私は目を吊り上げた。


「良くないです。お医者様と、エドワードと」


「良いから、エマ。大丈夫」


 大丈夫に見えないです、と悲鳴みたいな声をあげると推しは不快そうに眉根を寄せた。耳障りだったかもしれないと思って私は深呼吸を二回する。自分が慌てていては大事なことを見落としてしまう。私は推しの目を覗き込むようにして言葉を聞き取ろうとした。


「どうしたいですか?」


「部屋まで行ければ良い。軽い発作だから、すぐ治る。でも人目は避けたい」


「分かりました。私に掴まってください。今なら誰もいなかったのを見てますから、行けそうならすぐ行きましょう。それとも温室へ行きますか? あそこなら見られてもマイケルだけです」


「いや、部屋へ戻る」


「分かりました。失礼しますね」


 私は推しを支えるために腕を取ると自分の体を滑り込ませる。推しは驚いたようで小さく息を呑む音がしたけれど、緊急事態なのだから多少の無礼は大目に見てほしい。せーの、と勝手に声をかけて私は立ち上がる。つられるように推しも立ち上がり、少しよろめいたのを私は必死で踏ん張って耐えた。


 少しずつ足を出して私たちは進んだ。推しの呼吸が苦しそうで私は気が気ではない。でも此処で気を抜くと二人で倒れてしまいそうだったから頑張って、と私は推しに声をかける。


「二階に上がってしまえば見られる可能性は減ります。階段、踏み外さないでくださいね。確実に、一段ずつ」


 焦らず、けれど確実に階段を上って私たちは二階に辿り着いた。推しの部屋があるのは三階だ。建物の両端にある階段の、推しの部屋に近い方を目指す。推しは足元が覚束ない。支えていないとひとりでは歩けないだろう。階段も上れるか怪しい。


 けれど推しは手すりに体を預けるようにして三階へ上がった。部屋までもう少し。私は推しの体を支えながら寝室の方の扉を開いた。鍵はかかっていなくてホッとした。推しの体をまさぐることにならなくて済んだ。


 ベッドに推しを下ろす。そのまま横たわる推しに、ちょっとだけ失礼しますね、と言い残して私は急いで外へ戻る。玄関口に籠が転がったままだ。あれを見たら何かあったと使用人が騒ぎ出すことになる。階段の往復は大変だったけれど、私がドタバタ走り回ってもふかふかの絨毯は音を吸い込むからいつもの静かな伯爵邸のようだった。


 私は玄関へ戻る。間一髪、外の籠と零れた薬草を拾い集めて玄関扉を開けると掃除係のメイドが数人、道具を持ってやってきたところだった。私を見て慌てて影になるように頭を下げる。全力疾走していた私は息が上がっていたけれど、おはよう、と何とか取り繕ってにこやかに笑った。


「朝から用事を言いつけられちゃって助手も大変ね」


 訊かれてもいないのに籠を持っている理由を咄嗟に言い訳しながら私は階段を上った。貸してもらっている客間に寄ってミラに助手の仕事が少し入ったから研究室に行ってくると書き置きを残した。急いでいたせいで下手くそな字だったけれど仕方ない。


 三階へ戻って私は念のために推しの寝室をノックする。返事はない。あの状態では返事もできないかもしれないと思って私はそろそろとドアノブを回す。失礼しまぁす、と小声で断りながら部屋へ入った。


 部屋の中には推しの息苦しそうな呼吸が響いていて、私は立ち竦んだ。籠をその辺に転がして推しに駆け寄る。


「エリオット様、大丈夫ですか?」


 尋ねるけれど息苦しそうにしている推しは返事をしない。軽い発作だと言っていたけれど何処か悪いのだろうか。発作を起こす描写なんて原作にはなかった。心配すぎて私も息が苦しい。


 横たわる推しは体を縮めるようにして肩で呼吸を繰り返している。過呼吸みたいな状態だ。私はベッドに膝を着いて推しの顔を覗き込もうとした。推しは何かうわごとのように呻いている。それを聞いて私の手は思わず止まった。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 小さな子のような謝罪の言葉に、私は理由の分からない痛みに胸を貫かれて息を詰まらせた。



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