91 男爵と踊った日
推しをあからさまに避けてしまった。
ダニエルとのダンスを始めながら私は自分の行動に驚愕していた。推しに挨拶もしなかった。でも推しが私を認識していたかは分からない。オリヴィアしか見ていなかった可能性だってあるし、どちらかというとその可能性の方が高い。それにあの距離なら挨拶しなくても不自然ではない。ダニエルが私をダンスに誘ったのもそういうタイミングだったし、あの場でダンスの誘いに乗らない方が不自然だった。
自分の中で言い訳をしているとステップが少しガタついた。余計なことを考えているとすぐこうなる。ひゅ、と内蔵が浮き上がるような恐怖を覚えた。まさかダニエルの足を踏むわけにはいかなくて、たたらを踏む。視界の隅でダニエルの驚いた表情が見えた。
「おっと」
「……っ」
ぐっと入る力は重ねた手にも込められてダニエルが小さく声をあげた。私の耳元でだけでした声はすぐに事態を飲み込んだようで、腰に回されている手が咄嗟に私を支えてくれる。ぴたりと寄り添うような格好になって、けれどそうすることで不安定になった私は支えを得てその場に留まることができた。
「どうしたんだエマ。気づかないうちに酒でも飲んだか?」
ダニエルは疑っていない様子で私に問う。フラついたのがお酒でも飲んだみたいに見えたのだろうか。でも令嬢がお酒を飲むのはご法度だ。いいえ、と慌ててかぶりを振って私は急いでダニエルから離れた。
「失礼しました、まだ慣れなくて。支えて頂いてありがとうございます」
「お前に踏まれた程度じゃ何ともなさそうだけどな。ちゃんと食べてるか、エマ。思ったより細い」
心配してくれる声音と言葉に自分が情けなくなった。推しから逃げるための口実にしたのに、それに気づいているのかいないのか、そんなに優しい想いを向けてくれるなんて。でも表情に出すわけにはいかなくて、私は困ったように笑んで誤魔化した。
「ドレスを着るようになるとぎゅうぎゅうに締められて前よりは食べなくなりましたね。でもちゃんと毎日頂いてますよ。エリオット様のお屋敷の料理長、とっても美味しい食事を作ってくれるんです」
「食べてるなら良いんだけどな。令嬢って無理な食事制限をするから心配だ。お前がそんなことをするとは思わないけど、あまり軽いと飛んでいってしまうんじゃないかって思うぞ」
「そんなに軽くなることはないですよ」
どの時代でも無理なダイエットをする令嬢はいるらしいと思って私は苦笑した。私の性癖を詰め込んだこの体は細すぎずかといってふくよかでもなく、理想的な体型をしている。それがこの時代の人にどう映るかは分からないけれど、私は気に入っている。あまり太らない体質なのも嬉しい。
「ドレスの方が重たそうだもんな」
「え? きゃぁ、ダニエル様っ」
思わず出た悲鳴で周囲の視線を集めてしまった。でも仕方ないと思う。そういうダンスだったとはいえ、私の腰を掴んでダニエルがぐっと持ち上げたのだ。両足が地面から離れて思わずダニエルの両肩に手を伸ばしてバランスを取ろうとした。ダニエルはにこにこと笑ったままだ。絶対に私を落とさない安心感があって私はそのまま宙を舞う。時間にしても僅か数秒のことだけれど、一瞬だけ会場の中でどの男性よりも視線が高いところに行ったのは新鮮だった。
「ほら、軽い」
下ろされてダニエルの声が上から降ってくるから私は思わず顔を上げた。楽しそうに笑ったダニエルは悪戯が成功した子どもみたいな表情を浮かべている。もう、と私は口を尖らせた。
「レースで編んでるんだからドレスの方が重たいなんてことあるわけないじゃないですか」
「ははは、其処か。面白いな、エマは」
ダニエルは益々楽しそうに笑った。裏のなさそうな明るい笑顔は圧倒的な光属性で眩しい。だからこそ本当はダニエルの方が従者という事実に沼の住民たちは悲鳴をあげるのだ。シェイマスが嫌いなわけではない。本来の主人であるシェイマスを守って真っ先に倒れるのがダニエルという現実が苦しいだけだ。お互いにお互いを大切に思っているのが原作を読んでいると分かるから、苦しい悲鳴が聞こえてくる。
真っ直ぐに目の前の人を見ようとするダニエルを私は凄いと思う。それはシェイマスのためになのだろうけど、だからといってそんなに簡単にできることではない。本当は主人なのに従者の振りを完璧にするシェイマスも凄い。ペインフォードの市場で私に向けた鋭さはダニエルを守るためのものであろうと分かるから、怖い顔をされても嫌いにはなれないのだ。今もきっと怖い顔で私のことを見ているんだろうけど、ダニエルのことを重みで潰すようなことはしないと思うから許してほしい。
「エマ、この後ダンスの予約は入ってるか?」
「い、いえ、ないです、けど」
ステップの合間に問われ答えながらも、私は首を傾げた。いくらヘンリーの親しい知人しか呼んでいないパーティーといっても連続で同じ相手と踊れば顰蹙を買うだろう。それがマナーだからだ。
「少し外に出ないか。変なことはしないぞ」
「ダニエル様は紳士ですもの。信頼してます」
誰に対してもそう言うようにと教えられた先生からの言葉を口にすれば、ダニエルは微笑んだ。嫁入り前にいわゆるお手付きになるなんて令嬢にあるまじきことだから、二人きりになれる場所へ誘い出されようとして、それが信頼できる相手なら尚更そう言えと教わった。初対面なら断れ。多少の信頼関係を築いた相手なら目の前の娘に信頼の言葉を向けられてそれを裏切るようなことはないと先生は言った。多分それは先生の力が背後にあることが前提だから先生の養女である私にしか使えない技だろうと思う。
「オレの土産話を聞いてほしいだけだ。それと、次はオレが開くパーティーに招待しても良いかの確認だな」
「それなら喜んで」
答えた私はダニエルと腕を組んでテラスから庭へ出た。陽が落ちたガーデンは灯りがぽつぽつと灯っていて幻想的だ。夜咲の花は植えていないのかどれも蕾を閉じているけれど、花も眠る夜に出歩くのは悪いことをしているようで少しドキドキした。ガーデンを眺められるように置かれたテーブルと椅子のセットに並んで座りながら私は給仕からジュースを受け取る。ミラが近くまでやってきているのを認めたダニエルがミラの分の椅子も示した。
「エマの侍女なんだろ。お前は興味あるか分からないけどオレの話は長いからな。座れよ。シェイマスも」
「失礼します」
ミラとシェイマスは促されて椅子に腰を下ろした。ダニエルはまず何から話そうか、とわくわくした表情を浮かべる。話し上手なダニエルの話を楽しみにして私も同じようにわくわくした。臨場感溢れる船旅、遠い異国で見た動物や風習を私は時間を忘れて聞き入った。
「お前に贈ったその髪飾りな、東の小さな国から仕入れたものなんだ。買い付けたのは隣の大国でだけど、職人がいるのはその小さな島だ。繊細で、緻密で、綺麗だ。もっと飾りの少ないものも、逆に多いものもあったけど、それが一番似合うんじゃないかってオレとシェイマスの意見が一致したんだ。まだそれを買った頃はお前が令嬢になるとは思ってなかったけどな」
ダニエルが小さく苦笑するから、そうですよね、と私も頷いた。私だって予想外の展開だ。推しの処刑ルートを回避しようとしたら自分が貴族令嬢になるだなんて。身分が近づけばその分、推しとの距離がこんなにも離れるなんて。
「エマ、つらくないか」
真っ直ぐに、それも嫌味のない真っ直ぐさで入ってくる優しい言葉に思わず本音が零れそうになった。つらいに決まっている。でもそれでも私は受け入れようと思ったのだ。推しの近くにいるために。物理的には同じ屋敷に置いてもらっているけれど、こんなに遠い。それがつらくないはずはないけれど、それを表に出すのはあまりに自分勝手だから私は微笑んだ。
「慣れないことが多いからアタフタしてしまいますけど、ミラもいるし、ヘンリー様もダニエル様もこうして気にかけてくださるので頑張れます。先ほどはダンスで支えて頂いてありがとうございました。どうにもまだ、練習してるんですけど難しくて」
「練習あるのみだ!」
「え、え?」
ダニエルに手を取られて思わず立ち上がる私の腰に腕を回してダニエルはガーデンの芝の上で踊り出す。私は困惑してモタついてしまったけれど、ダニエルが楽しそうに笑うからつられて一緒に笑ってしまった。建物の中から聞こえてくる僅かな音楽に乗って私はダニエルと二回目のダンスを踊る。人の目があまり向かない場所だから、見られれば咎められるかもしれないけれど少しの間なら悪戯みたいで楽しいと思った。
「楽しいか、エマ」
問われて私は答える。楽しいです、と笑った私にダニエルもそうだろ、と真っ白な歯を見せて笑った。
「ダンスって楽しいもんだ。好きに踊れ。今度オレの開くパーティーに来てくれるならメニブリン伝統のダンスも教えてやるぞ」
「楽しみにしてます」
私の返答にダニエルは満足そうに頷いた。