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79 舞い踊った月下の日


「エリオット様、えっと、落とし物を拾って」


 私は慌てて言うけれど何だか言い訳がましくなってしまった気がして、おずおずと拾った懐中時計を推しにも見えるように差し出した。


「エマ……?」


「はい」


 疑うように名前を呼ばれて私は頷く。賊に見えただろうかと思って心配になった。思えば推しも研究に籠っていたし私も教育で部屋に籠っていたし、顔を合わせるのは侯爵邸から帰ってきた日以来だ。メイド服以外の私を見たことがなかったのではと思って私は自分の格好を思い出し、血の気が引いた。もう寝るだけのつもりだったからナイトドレスにナイトガウンを羽織っただけだ。人前に出る格好ではない。パジャマで推しの前に出てしまった。恥ずかしい。早く戻りたい。


「これ、エリオット様の時計ですよね。以前少し見せて頂いた」


「……あぁ。落としたのか」


 推しははたと気づいたように自分のベストをぺたぺたと触る。いつも入れているのだろうところにないと知ったらしい。一歩踏み出そうとして足元に転がした籠を少し蹴飛ばした。そんなに動揺しなくても。


「ありがとう。前にも言ったけど形見なんだ。拾ってもらえて良かった」


「いいえ。留め金が緩んでいるみたいなのでその部分だけでも修理して頂いた方が良いと思います。また落としてしまったら大変ですから。それじゃ、私はこれで」


「エマ」


 時計を渡してなるべくさり気なく見えるようにガウンの前を合わせた私は急いで立ち去ろうとしたけれど呼び止められてしまった。推しは時計に視線を落としたまま、それからゆっくりと私を向く。久々に見る紫の目が月光に煌めいた。


「その、明日が式典の日だけど調子はどう。先生は厳しくない?」


「指導は厳しかったです。でも私ができそうなところに目標を設定してくださるからやりがいがありました。付け焼き刃ですけど、一応は一通り学び終わったみたいです。目下の不安はダンスです」


 私が返すと、は、と推しは驚いた声をあげた。


「明日は舞踏会だけど」


「知ってます。でも私ダンスの経験なんてないんですよ。それを二週間でドレスも着て、エグい高さのヒールも履いて完璧に踊れるようにするなんて無理です。何とか相手の足を踏まないでステップも間違わないで終えられますようにって、此処まで来たらそれを願うしかもうできないんです」


 思わず情けないことを言ってしまって私はハッとして両手で口を塞いだ。もう遅かったけれど。


「先生の足を何度も踏んだ?」


 推しが尋ねる。踏みました、と私は正直に告白する。ふ、と推しは鼻で笑ったようだった。ひどい。


「でも出るなとは言われなかったんだろ。先生は駄目なものは駄目と言う人だ。そう言われなかったんなら自信を持てば良い」


「でも私、五回に一回はよたよたするんですよ。心配で仕方ないです」


 踊らなきゃ良いだろ、と推しは言うけどそんな簡単なことじゃない。


「エリオット様は簡単そうに言いますけど、デビュタントは気を使われてダンスに誘って頂ける機会が多いと聞いてます。お相手の足でも踏まなきゃ壁の花にはなれないじゃないですか」


 盛大に足でも踏んでしまえば敬遠されて誰からも誘ってもらえなくはなるだろうけれど、それはつまり先生の顔に泥を塗ることでもある。私には完璧に踊りきる以外の選択肢がなくて、だからプレッシャーに感じて不安が強まるのだ。眠れなくなるくらい。


「ふぅん。どのくらいよたよたするのか見たい。此処で踊ってみせて」


「え」


 何という羞恥プレイだ。私は言われたことの意味が判らなくて問い返した。踊って、と推しは繰り返す。冗談では言っていないらしいことが顔を見れば分かる。ほら、と推しが促すけれど私はそんな恥ずかしいことできなくて胸の前で両手をぶんぶんと横に振った。


「で、できません」


「どうして」


「どうしてって。そんなひとりで踊るなんて」


「ふぅん。ひとりが嫌なの。なら私が手を貸してやる」


「え」


 ぶんぶん振っていた手を躊躇いなく取られて腰を抱き寄せられる。状況を理解しようとしている最中に、ワルツで、と指示されていち、にぃ、さん、とテンポを取って動き出された。なに、なになになになに。


「わ、わ、エリオット様」


「なんだ、踊れるじゃないか」


 何が、何が起きているのだ。推しと、推しと踊っている。リードされて、手を取って、月明かりの下で。楽曲もない中で。風の立てる葉の擦れる音の中、私たちはくるくると円を描いて舞った。夢でも見ているのかもしれない。月明かりで推しの白磁の肌が浮かび上がり、艶やかな黒髪が揺れる。長い睫毛の下から覗く宝石みたいな紫の目が反射してとても綺麗だ。心なしか楽しそうに唇が弧を描いている気がして私の心臓は止まりそうになる。いやもう止まった。心臓止まった。息ができないくらい美しい。


 月の下に舞い降りた妖精王か月の精か、はたまた神様か。この世のものとは思えない幻想的な風景だった。涙が出そうになる。これは何のご褒美だろう。私、死ぬんだろうか。


 見惚れていたらステップを間違えた。推しと動きがずれる。このままだと次に踏み出す足で推しの足を踏むと思ったから私は何とか踏み止まろうとして爪先に力を込めた。でもその踏んだ足にあろうことかナイトドレスの裾を巻き込んだらしい。つんのめって自分を支えきれずに倒れる。


「わ、わ、ごめんなさいっ」


「いや……本当に下手だな、きみ」


 しみじみと言われて私は真っ赤になった。すみませんと消えそうな声で謝る。掴んだ手を推しが取ったまま倒れた私を抱き止めてくれた。推しが踏ん張ってくれたから二人して倒れることにはならなかったけど抱きつくような状態で、早く避けなくてはともぞもぞ動く。


「だ、だから言ったじゃないですか。できないって」


 情けなくて消えてしまいたかった。泣きそうになりながら言う私に、いや、と推しは返す。


「下手だけど踊れないわけじゃない。今のは私のリードが良くなかったな。もう一度踊ってみよう」


「え、え」


 手を取り直されて腰を引き寄せられて、私はまた足を出す。それはただの推しの検証事項に過ぎないのかもしれない。他の手順で試せばどういう結果に辿り着くかをやってみたかっただけなのかもしれない。私にはまだ人生のボーナスタイムが続くことになって、断ることでもないけれど心臓はまた大きく跳ねた。


 くるくるり。今度は私がどのくらい踊れるかを試すものではなくて、支えてくれるリードだった。ワルツの音楽は聞こえないし自分の心臓の音ばかり聞こえる気がするけれど、次にどう動けば良いか教えてくれる。落ち着いたダンスはゆったりとしていて、楽しい、と思う。夢のような、推しと踊るダンス。この思い出だけでこの先も生きていけそうと思うくらいご褒美だった。


「エリオット様はダンス、お上手なんですね」


「私は運動神経が良いからな。ヘンリーより動ける」


「そうなんですか?」


「……意外そうだな」


 声に不機嫌さが滲んで私は慌てていえ、と否定した。


「あまりイメージになかったので」


「先生に習った剣技も私の方が上だ。興味がないし披露する機会もないだけで」


 ふふ、と私は笑った。


「エリオット様にとって大切なものは違うところにあるんですね」


「そうだね。変わり者と言われているのは知っている。一般的には理解されないことも」


「でもそれでも大切にしたいものがご自分の中ではっきりしていらっしゃるのは、素敵なことだと思います。誰に何を言われても、其処はブレないって、凄いです。ずっと大切にし続けるって大変なのに。それができるんだからやっぱり、エリオット様にとってとてもとても大切なものなんですね」


 推しが足を止めた。私も踏んでいたステップを止める。推しを見上げれば推しは私を見下ろしていた。紫の目からは感情は読み取れない。何か気に障るようなことを言ってしまっただろうかと思って不安になった私に、きみは、と推しが口を開いた。


「きみもやっぱり変わり者だな」


 それから推しはふっと息を零した。間近で表情の変化を目の当たりにした私は思考がフリーズする。顔が良い以外の感情がわかない。推しが何か言っているけれど頭に全然入ってこなかった。


「リードが良ければきみは相手の足を踏まない。相手の足を踏んだら、相手のリードが悪かったと思えば良い。

 冷えてきた。そろそろ入って休むべきだろう、ミス・リルッズ」


 令嬢として扱われて私はハッと我に返った。そっと手を離して少し後ずさる。習った通りの令嬢のお辞儀を何とか披露して、おやすみなさい、と告げる。正面扉を開けて中に入ると客室へ戻った。そっと窓から外を見たら推しはまだ其処に立っていたから、私は思わずバルコニーへ出る。テラスの開いた音を聞きつけたのか推しが顔を上げて私を見た。


「エリオット様も、風邪引かないでくださいね。今日はありがとうございました。明日、よろしくお願いします」


 月の光が逆光になって推しの表情はよく見えない。けれどふいと顔を逸らし、転がっていた籠を拾って玄関へ歩いていく姿を見送って私も部屋へ戻る。幸福感で一杯で、不安は何処かへ行ってしまったらしく私はぐっすり眠れたのだった。



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