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アンネリーゼの首縄  作者: 澁澤まこと
第1章 イザベラ
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歓喜の輪

 カイは思わず唾を飲み込む。そのうち切り込もうと思っていた話題ではあった。しかし、徐々に掘り下げていこうと思っていたそれを、イザベラの方から提示してくるとは。



「院長のお手紙はお読みになりましたか?」


「ええ、もちろん」


「では、私たちが院長につけていたあだ名もご存じでしょう」


「氷の頬……彼女はよっぽどの無表情だったのですね」


「あだ名の件が本人に伝わっていたことは驚きましたが、実はあれは単に無表情だからついたあだ名ではないのです」



 イザベラは少し青ざめた顔で再び周囲を窺い、カイに囁く。



「表向きは生真面目で厳格な修道院長。どこに出ても愛想笑いひとつしない姿は、修道院の外の皆様には敬虔で高潔と捉えられました。でも、それだけなら私たちは、氷ではなく石の頬と名付けたはずです。溶けるからこそ氷。固い頬にも、人知れず緩む瞬間がありました」



 不意に、コットの首元に手がかけられる。震える指先が布を押し下げ、僅かに白い肌が覗いた。さらに下に進むと、肌の色は急に強い赤みを持ち始めた。カイが驚いて手首を掴むと、イザベラは指を離す。うつむいた顔には、疲れたような微笑みが浮かんでいた。



「失礼いたしました、さすがにお見せするわけにはいきませんね。私の肌、このコットの下には、大きな蚯蚓がのたうつ様な、ひどい傷跡があるのです」


「……つまり、彼女は修道女たちに厳しい処罰を与えるのが好きだったと」


「その通りです。単に厳格なだけでしたら、処罰の間氷が解けることもなかったでしょう」



 予想外の展開に、カイは思わず天を仰ぐ。



「では、手紙の内容には納得できたのではありませんか? 普段の無表情な姿が本当の院長で、喜んで人をいたぶる時には悪魔が操っていたとすれば、辻褄も合うはずです。なぜ恩寵を疑うのです?」



 すると急に、回廊で人の集まる気配がした。



「質問にお答えする前に、回廊に行きましょう。たった今起こった(・・・・・・・・)のは、きっと主のお導きです」



 わけのわからぬまま、イザベラの後について回廊に向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。


 十名ほどの修道女たちが輪になって並び、手を組んで祈りを捧げている。会話の許されない回廊にあって、彼女らの唇は固く結ばれたままだが、皆一様に恍惚とした笑みを浮かべていた。中には涙を流す者もいる。


 その原因は輪の中心にあった。皆、一人の少女を取り囲んで祈りを捧げていたのである。少女は床に仰向けに横たわり、胸を弓なりに反らせて痙攣していた。切れ長の眼は白目をむき、さくらんぼのような唇は半開きで、はみ出した赤く艶めく舌が天を目指して蠢いている。それだけなら、カイは彼女の感じているものは苦しみであると判断したであろう。しかし泡を抱いた口角は大きく上がり、頬は薔薇色に染まっていた。しゅう、しゅう、という呼吸音と、手足が床に打ち付けられる音が交じり合い、回廊には奇怪な音楽が響き渡る。そこに合わせるように、一人の修道女の組んだ手が揺れ始めた。ひとり、またひとりと祈りを捧げる手が揺れていく。激しい痙攣を囲む穏やかな痙攣。歌うわけでもなく、舞い踊るわけでもなく、それでも抑えられぬ歓喜が彼女らの身体を支配しているのは明白であった。


 この光景は一体何か。カイは驚きつつも、一つの答えを見出していた。すなわち幻視である。信仰に生きる修道女たちの中には、まれに霊的な現象により神の御業の一端を見ることが許される者がいる。おそらく中央の少女は一度ならず、いや皆がその光景に慣れてしまうほどに幾たびも、幻視を経験しているのだろう。


 ほどなくして、ばたん、という大きな音とともに、少女は両の手足を投げ出し、痙攣は終わった。囲む者たちも揺れ動くことをやめ、静かに歩み寄って彼女を担ぎ、談話室へと運んで行った。イザベラはカイに目配せをして、集団の後についていく。カイも頷いて談話室へと向かった。


 涙や涎がぬぐわれ、穏やかに寝息を立てる少女の顔を見て、カイはそれが誰であるかに気が付いた。ブリギッテ、写字室で見た修道女だ。イザベラがブリギッテを妙に持ち上げていたのは、この幻視のためだったというわけである。



「幻視の場に居合わせるとは、驚きました。こういったことは何度もあるのですか?」


「もう六度目です。ご説明するのも難しかったので、直接見ていただけて良かったです」



 しばらくすると、ブリギッテが呻き、ゆっくりと上体を起こした。修道女たちは喜びの声を上げ、口々にその名を称えながら伏せられた顔を覗き込む。


 しかし、豊かな睫毛に縁どられた瞼が持ち上げられると、皆が声を失った。どんな美しい物語が語られるかと待ち望んでいた彼女らが目にしたのは、絶望に打ちひしがれた、あまりにも暗く沈んだ瞳であったのだ。

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