不朽体
そう答えたイザベラの声はこだまして、奇妙な低い響きとなって部屋の奥へと消えていく。カイはこの香りの発生源を理解し、ため息を漏らした。重厚な地下聖堂に似合わぬ、軽薄なまでに清々しい香気は、この先に身を横たえた新しい聖女候補によって誰彼構わずまき散らされているのだろう。
「さ、こちらへ」
イザベラに促されるまでもなく、カイは足を進める。ほどなくして、香りの主の姿を認めた。薬草庫の隅、無遠慮な香りの強さと裏腹に……棺に納められるでもなく、花に埋もれるでもなく、ただあまりにも密やかに彼女は眠っていた。床の上で彼女を抱く白い布は、修道女たちからのせめてもの餞だろうか。
「あれが……」
「アンネリーゼ院長です」
カイは十字を切って礼をすると、アンネリーゼの傍に寄る。少々痩せすぎているが、彫りの深い整った顔立ち。死して尚貞淑に髪を覆う白いウィンプルに負けぬほど、その肌は白く透き通っている。しかし、頬には思わず指でなぞりたくなる初々しい血色があった。閉じられた瞼を飾り付ける金の睫毛は涙に濡れたような輝きを放ち、固く結ばれた唇はやはり赤く艶がある。カイはその胸が上下している錯覚を覚え、思わず後ずさった。彼女はそんな振る舞いを咎めることもなく、依然カイの足元で眠り続けている。
「生きているみたいでしょう? でも、触ってみてください。息はないし、脈もありません。氷のように冷たいのです」
カイは跪き、恐る恐る手を伸ばして、赤みの差した頬に触れた。弾力のないこわばった肌、生ける者とは異なる感触。指先に伝わる鋭い冷たさが、嘲笑うように死の存在を主張する。
「彼女が亡くなったのは?」
「ちょうど十日前です。四十歳でした」
カイは改めてアンネリーゼの顔を見やる。その表情からは、喜びも悲しみも窺うことができない。生前氷の頬と呼ばれた院長は、その頬を持ったまま死を迎え、時を止めたようだ。
「もっと詳しくお調べになりますか?」
イザベラの言葉にカイは立ち上がり、軽く膝を払う。
「いえ、今は十分です。ありがとうございました」
帰り際、イザベラが切り出す。
「いかがでしたか? その……あれは奇跡なんでしょうか」
「奇跡的な状況であることは間違いありませんが、それが主の恩寵であるかどうかは別のお話ですね」
カイは慎重に言葉を選ぶ。すると、イザベラは意外な言葉を口にした。
「やっぱり」
驚くカイを見て眉尻を下げ困ったように笑うイザベラ。
「やっぱり?」
「……いえ、まだあれだけではわかりませんものね」
はぐらかしたような答えが気になったが、宿舎の前についてしまった。去っていくイザベラを引き留めることもできず、カイは肩をすくめて宿舎へと戻る。たった半日でおしゃべりに慣れてしまった耳に、静寂が突き刺さった。
カイは地下聖堂の遺体を思い浮かべる。目にしたもののすべてが、奇跡を物語っていた。三日もあれば腐敗するはずの人体が十日もそのままなのであれば、それは不朽体と言って差し支えない。それでも、カイは諸手を挙げてそれを奇跡と受け入れる気には未だなれずにいた。アンネリーゼの遺体に実際に触れても、絶対的な聖性の存在というものを感じ取るには至らなかったのである。
まず第一に、ジークリンデの態度。奇跡の存在を確信し、肯定の言葉を誘導するような物言いから察するに、彼女はこの修道院で奇跡が認められることを強く望む立場だ。教会ではなく父修道院へと連絡してきたのも、少しでも奇跡が認められる可能性を上げるためだろう。なぜならば教会による確認は時間ががかかり、無事だった遺体もその間に腐ってしまうこともあり得る。修道士による簡易的な確認を間に挟むことで、もしその後遺体が腐敗したとしても、「少なくともこの時点まで遺体は腐らなかった」と証言する者を獲得できるのだ。また、疑った見方をすれば、この貴賓用の部屋もそうだ。呼びつけられた修道士の反感を買うことを過度に恐れているが故の丁重な扱いともいえる。
第二に、べトニーの香り。嗅いだことのないような香りならともかく、存在する薬草の香りなら、修道院ではいくらでも香らせることが可能である。カイは遺体に触れた指先にそっと鼻を近づける。何も感じられなかった。つまり、あの香りが遺体そのものから香ってきたという証拠はどこにもないのだ。
遺体そのものの状態はさておき、遺体を取り囲む環境には疑いの目を向けざるを得ない。無論、自身の所属する修道院での奇跡を望むのは当然の感情であり、そこに多少色付けをしようとしていたとしても咎められるものではないのだが、カイは簡単には答えを出すまいと一人静かに決意したのだった。




