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アンネリーゼの首縄  作者: 澁澤まこと
第1章 イザベラ
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案内

「この度は当院で起こった奇跡(・・・・・・)の確認にお越しくださり、本当にありがとうございます」



 ジークリンデはそう言って礼をした。慇懃な調子。しかしカイは再び目を細める。父修道院に判断を仰ぐ手紙をよこしてきたのは彼女のはずだが、彼女は奇跡について断定調で話している。本物であると確信しているようだった。



「お手紙は拝読しました。遺体の扱いをどうするかお困りだとのことで」


「ええ。主の恩寵の証であるのなら、教会の外に葬るわけにはいきませんし……ね?」


「そうですね。私は司祭ではないので、あくまで今後のお話の進め方について一緒に相談するだけですが、お力になれれば幸いです」


「ありがとうございます。さて、大変心苦しいのですが、私は院長の代理業務であまり時間がありません。イザベラは今回の件について詳しく把握しておりますし、まずはイザベラと話していただいて、私は用事がある時に呼んでいただく形でも構いませんか?」


「ええ、構いませんよ。必要な時に改めてお声かけいたします」


「滞在中のあれこれについても、イザベラに案内させましょう。では私はこれで」



 ジークリンデとの短い面会ののち、カイはイザベラによって修道院を案内された。まずは宿舎へと向かう。カイは貴賓用の部屋があてがわれたことに驚愕し、これを断ろうとしたが、ジークリンデの意向だという。渋々応じ、カイは荷物を置いた。


 続いて食堂へ。食事の時間ではないので、人はおらず、明かりもついていないが、それでもあまり広さを感じさせないあたり、やはりこの修道院は規模が小さい。


 そして、写字室。ここでは修道女たちが熱心に写本の制作に打ち込んでいた。机に並ぶ華美で色鮮やかな本と、それを見つめる真剣な眼差し。白く華奢な手はゆっくりと丁寧に、装飾された文字を生み出し続けている。カイは感嘆の息を漏らした。



「写字生は現在8名おります。挿絵や彩色だけでなく、皆がラテン語の筆写に従事しているのです。この修道院の中だけで写本が完成するんですよ。私たちの誇りです」


「素晴らしいことですね。私は、婦人たちにももっと教養が与えられるべきだと常々思っています」


「ええ、本当に」



 ふと、カイは写字生の一人に目を奪われた。少女と言って差し支えない年齢に見える。その様子を見てイザベラが嬉しそうに補足した。



「随分若い子がいますでしょう? あれが私のブリギッテです」


「ああ、さっきお話してくださった……」


「とっても優秀なんですよ。ラテン語については、彼女に教わることが多くて」



 いとも自然に「私の」と口にしたイザベラの頬は薔薇色に色づき、瞳はうっとりと揺れている。この年下の少女に、よっぽど心酔しているのだろう。見つめる二人の視線がうるさかったのか、ブリギッテが顔を上げた。灰色に琥珀が混じった瞳は見事な三白眼で、怒っているような気配を感じる。彼女はカイに刺すような目を向けたままペンを舐め、ぽってりとした小さな唇に青色が滲んだ。



「集中していたのでしょう。また後程ご紹介しますね」



 写字室を後にすると、今度は聖堂に向かう。薔薇窓から降り注ぐ柔らかな光が、身廊の上に並べられた椅子を温めている。柱はその一つひとつに見事な柱頭彫刻が施され、美しい男が、慎ましやかな女が、愛らしい子羊が、あるいは愉悦を、あるいは苦悶をその顔に浮かべ、聖書の物語を伝える。その中に紛れ込む蛇や悪魔の醜悪な姿が、過剰なまでの戒めを主張していた。祭壇の方を眺めやれば、逆光によって黒く浮かび上がる十字架が厳格な父親のようにカイたちを見下ろす。静謐な空間。光と闇とが交じり合わず斑模様を描きながら、それでも共存を実現している空間であった。


 不意に小さな足音がカイに音の存在を思い出させる。振り向くと、翼廊の階段を上がってきた聖具係と思しき修道女が軽く会釈をして微笑みかけていた。


イザベラは少しほほをこわばらせると、声を低くして、カイに告げた。



「では……薬草庫(・・・)へ、参りましょうか」



 薬草庫。そこはアンネリーゼの遺体が眠る場所。カイも姿勢を正した。ついに不朽体の検分が始まるのだ。



「そういえば、薬草庫が地下にあるのですね。薬草園の小屋に保管するのではなく?」


「ええ。この修道院では薬酒を造っているのです。薬草庫と言っても貯蔵庫の隅を分けて使っているだけで、すべての薬草がそこにあるわけではないのですが」



 階段を下りていくと、地下の冷気が足元から徐々にカイの身体に纏わりついていく。石壁は蝋燭の炎によってその肌を橙に揺らめかせ、艶めかしい女のように二人を奥へと誘った。カイは自分が悪魔の存在を確信するのを感じた。この地下聖堂に眠る遺体の主は、果たしてそれを打ち払ったのかどうか。


 薬草庫の扉を開けると、何種もの青っぽい香りが交じり合った複雑な香りがカイの鼻腔へと侵入してきた。奥へと足を進めるうちに、その中の一つの香りが、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせていく。



「この香りは……べトニー?」



 思わず呟いたカイに、イザベラは長い睫毛を伏せて静かに答えた。



「ええ……薬酒には、べトニーは使っていないはずなのですが」

> 薬酒

薬酒といってもリキュールはまだなく、ワインにハーブやスパイスを加えたものです。

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