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アンネリーゼの首縄  作者: 澁澤まこと
第1章 イザベラ
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予感

 クリンゲンベルクの高台に、件の女子修道院の周壁が見えてきた頃、カイのもとに近づいてくるひとつの人影があった。ウィンプルの影から、遠目にもわかるほどの明るく大きな笑顔を覗かせた若い女性。質素なコットの、何色にも染められぬ黒色から、修道女であることがわかる。彼女は自分の存在が気付かれたとみると、小走りでカイのもとまでやってきた。



「こんにちは、修道士様。そこの女子修道院へのご客人でしょうか」


「ええ、客というか、用事があって派遣された父修道院の者です。どうしてお分かりに?」



 訝しむカイに、彼女は何が嬉しいのか、再び口角をぐいと上げた。しっかりと眉までウィンプルを被っているが、空色に輝く人懐っこそうな瞳と、ふっくらと柔らかさを主張する桃色の唇が眩い。修道士となる前であれば、あるいは10歳ほど若かったならば、心を動かされたかもしれない笑顔に、カイは無意識に背筋を伸ばした。



「しばらく滞在なさるのでしょう? なら、理由は私が言わなくてもお分かりになります。申し遅れました、私はイザベラ。修道士様のお迎えに上がりました」



 その返答に、カイの眼は驚きに見開かれた。自由に外に出歩くことのない修道女がわざわざ迎えに来たということは、この時間、この場所にカイが現れるということを確信していたことになる。驚嘆すべきことだった。


 道すがら、イザベラはよく笑い、喋った。初対面だというのに、カイは高台を登りきるまでに修道院で飼っている子犬の名前まで知ることになったほどだ。募る疲れに耐えつつも、彼はこの快活さを非常にありがたいものだと思った。今回この女子修道院に滞在するのは不朽体の検分とアンネリーゼの聖性についての調査が目的である。調査で最も必要なのはやはり情報だ。玉石混交といえど、頼まずとも情報を垂れ流し続けてくれるイザベラのような存在は非常に役にたつ。


 カイは彼女の話に適当な相槌を打ち、頭に入れておくべき情報だけを拾い上げていった。最も重要なのは人の名前と話からの印象だ。役職付きは、副修道院長のジークリンデと、薬草係のユッタ。この二人はイザベラからそれなりの信頼を得ているようだった。それとは別に、どうやらイザベラはブリギッテという修道女を特別に気に入っているらしいことが分かる。というのも彼女は、副院長は忙しいので、困ったときは自分かユッタ、何かあれば(・・・・・・)ブリギッテを頼るとよいと言ったのだ。役職付きでもない平の修道女の名を上げるだけでも不思議なことだが、普通、困ったときと何かあった時とを分けて語ったりはしない。カイはこのことをそっと心にとめておいた。

手紙にあったカルラとフリーデについては話題に上がらなかったが、これはおいおい嫌でも話すことになろう。



「いかんせん、小さな修道院です。ご不便をおかけすることも多いかもしれませんが、ご容赦くださいね」



 そう詫びるイザベラに連れられて門を抜けると、小さな並木道があり、並木道を抜けると、薬草園に出た。まず目に飛び込んできたのは青々と茂るヒソップの畑。遠くを見やると、花をつけ始めたタイムの紫が煙るように揺れている。農園と見紛う規模で、修道院に対して随分と薬草園が大きい。鼻をくすぐる柔らかな香気に、カイは思わず深呼吸をした。



「薬草園の広さに驚かれましたか? これだけが皆の自慢なんです」


「すごいですね。あの、少し時間はありますか? よろしければ見ていきたいのですが」


「もちろんです。ユッタをお呼びしましょうか?」


「それには及びません」



 カイはしばらく薬草園を散策する。別段必要だったわけではないが、何故か見ておくべきだと直感が訴えていたのだ。ゆっくりと、しかしイザベラを伴うのに遅すぎぬ速度で、何かを探るように緑を分け入って進む。ヒソップ、ミント、マジョラム、タイム……そしてべトニー。まだ芽吹いていない畑もある。よく手入れされており、道に零れ落ちた土の一つもない。立札の文字が飾り文字になっているあたりに、女子修道院らしい繊細さが表れている。隣接する回廊の手前まで来てカイが立ち止まると、ひらひらと蝶が飛んできて肩にとまった。その様子を喜ぶイザベラの微笑みは、この絵画のように色彩豊かな風景にあまりにも似合っていた。


 美しいが、これと言って特筆すべき点はない。しかし、その完璧さが、何かを覆い隠しているような印象を与えている。カイはふと寒気を覚えた。この薬草園に、修道院の秘密主義めいた性格を見たような気がしたのである。



「あの、何かおかしなことでも?」


「いえ、そんなことは。薬草は好きなもので、少々夢中になってしまいました」



 愛想笑いを返しながら、カイは疑り深くなり過ぎている自分を心の中で叱った。まだ不朽体(・・・)を見てすらいないのだ。


 それより、カイは人に気遣われることが極端に少ない性分だというのに、イザベラは随分と人の表情に敏感なようだ。この敏感さは饒舌さ以上に役立つかもしれない。



「さて、そろそろ行きましょうか。副院長のところまでご案内願えますか?」


「ええ。さ、どうぞこちらへ」



 回廊を抜けたどり着いた場所は、院長の執務室だった。院長不在の今、副院長がその代役を務めているということだ。アンネリーゼの手紙にも「院長の部屋はジークリンデのものになるでしょう」とあったから、まだ確定していないだけで事実上の後任といって良いだろうが。



「副院長、父修道院のカイ修道士をお連れしました」


「ありがとう……カイ修道士、ようこそお越しくださいました。私が副院長のジークリンデです」


「初めまして、よろしくお願いいたします」



 カイは無難な挨拶を返しながら、僅かに目を細める。ジークリンデの顔に浮かんだ微笑みには、修道女にはおよそ似つかわしくない、高慢そうな気配が潜んでいたからである。

> ウィンプル

頭を覆う布です。


> コット

チュニックのような衣服です。

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