出発
渡された手紙を読み終えてしばらく、カイ修道士は何度も長いため息を吐いた。額に刻まれた皴はいよいよ深く、眉尻は下がったまま動かない。苦労性は承知しているが、これはとんでもない厄介ごとの予感がした。
亡くなった手紙の主は、この修道院が管轄する聖アンナ女子修道院の修道院長である。彼女を自殺という罪を犯した罪人として修道院の外に葬るか、それとも悪魔と闘った勇敢な仲間として扱うか、判断に窮した副院長が、父修道院であるこの修道院へ事の次第を相談してきたのだ。
「それで、私に何をお望みなのです?」
「この女子修道院に行って、状況を確かめてきたまえ」
おずおずと問いかけるカイに、手紙を渡した修道院長はこともなげに答える。
「さしあたってアンネリーゼを通常の自殺として扱うか、殉教に近いものとして特別扱いするのか、父修道院として方針を決めなければならん。奇跡の認定くらいの大事となれば教会が動くだろうが、あからさまな狂言であれば教会に連絡するまでもないからな」
「そうはいっても、遺体をいつまでもそのままにしておくわけにはいかないでしょう?」
「そのことなんだがね」
院長はため息一つ。
「腐らないそうだよ。不朽体というやつだ」
カイは驚きに目を瞠る。不朽体。それは主の御業であり、その加護を示す聖人の証だ。
「ならば、もう答えは出ているのでは? 私が行って確かめる必要などあるのでしょうか」
「修道女たちが共謀して、奇跡を偽装していないとも限らない。聞いた話をそのまま鵜呑みにするわけにもいかないのだ。そういうわけだから行ってきたまえ。君のことは信頼している」
白いものが混じり始めた頭を掻きむしりたい衝動を何とか抑えて、カイは修道院長の部屋を辞した。出発は明後日。準備の時間もあまり設けられていない。今年で46になる彼にとって、管轄の女子修道院までの外出も決して気軽なものではないというのに、面倒ごとを押し付けられがちな性分がここでも重荷を増やしてしまった。
回廊を歩きながら、今しがた聞いたについて考える。不朽体となったというアンネリーゼという修道女の遺体。しかし、彼はあまりこの話を信用してはいない。主の御業を否定するわけではないが、奇跡というのはめったに起こらぬからこそ奇跡なのだ。自らに悪魔祓いを行ったという以外にこれと言って聖人らしい行いの噂も聞こえてこなかった普通の修道女に、そのような恩寵が与えられるとは考えにくいと彼は思った。奇跡の逸話は人間にあらゆる利益をもたらす。例えば名声。例えば巡礼による、金銭的なもの。そういったものを目当てに、修道女たちが奇跡を偽装することは十分に考えられる。実際、修道院長もそのことを疑っているようだった。
とはいえ、奇跡を信じる気持ちが微塵もないとは言わない。その理由があの手紙だ。アンネリーゼを聖人だと主張するなら、もっとわかりやすい話が語られるはずである。ミラのニコラオスを例に挙げよう。イタリアで愛され、この地でも崇敬の念を集めるこの聖人には、貧困のために娘を売る寸前のところまで追い詰められた商人の家の煙突から金銭を投げ入れたという、弱者の救済にかかわる話や、エルサレム巡礼の際に船から落ちて死んだ水夫を甦らせたという奇蹟の話など、多くの「聖人らしい」逸話が語られる。それに反して、アンネリーゼが残したあの手紙は話があまりにも限定的で、かつ具体的だった。不朽体となったことを主張するのであれば、あんな苦悩に満ちた悪魔祓いの話を作るよりも、生前の行いについて、清貧を貫いたとか、弱者を救済したといった話を作った方が建設的だ。そこに信憑性が高いというにはいささか苦しいが、わざわざ作り上げた嘘にしては聖伝の型から大きく外れているのである。
命じられたからには、そこを確かめねばなるまい。確かめる手段を考えながら、彼は再び大きなため息を吐いた。話の信憑性を確かめるには、不朽体を検分するだけではなく、修道女たちからアンネリーゼの聖性についての証言を集める必要がある。彼は元来婦人というものが苦手だ。修道女相手といえど、女性たちに話を聞いて回るのは骨が折れそうだった。
晩課の祈りを終え、夕食を済ませると、彼は旅の支度にとりかかる。女子修道院までの道のりは二日も見ておけば良いだろう。なるたけ身軽に、しかし必要なものは漏らさぬように。久しぶりの外出に心を躍らせることもなく、眉尻を下げたまま淡々と荷物を選んだ。
> 父修道院
女子修道院は普通の修道院よりも格下の存在で、「父」として指導にあたる別の修道院が設定されていました。




