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アンネリーゼの首縄  作者: 澁澤まこと
第5章 シャルロッテ
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雄弁な沈黙

 一気に独りで話し終えたシャルロッテの顔はすっかり血の気が引き、ベトニーの花を思わせる薄紅だった唇も枯れたような土色で、滲む鉄錆との差異が際立っている。それでも白蠟の硬い頬を涙が伝うことはなく、口角を上向きに保っていた。


 カイは眉を顰めた。怖がりの彼女が泣かないのは決意故ではなかろう。単に、諦念が恐怖を上回っているだけのことである。



「……シャルロッテ修道女、言いにくいことでしょうに、詳しくお話しくださったことに感謝いたします。ですが『犠牲者は私まで』などとおっしゃらないでください。あなたは生きている。生きて、私たちにお話をしてくださった。もしも悪魔がこの修道院を狙っているなら、あなたの証言は大きな道標となります。あなたを死なせるわけにはいきません」


「でも……お二人にお話しできたことで、もう私の役目は終わってしまったのではないですか? 主が修道院を守るために私を生かしていてくださったなら、もう生かす意味はないんじゃないでしょうか」

「それは主がお決めになることです。なるほど悪魔の影は恐ろしいものでしょう。しかし、命尽きる前に自ら諦めることを、被造物たる人間はしてはならないのです。修道院の仲間も、教会の方々も、きっと手を貸してくださいます。戦うのであれば共に戦いましょう。あなたはもう独りではありません。秘めていた苦しみを私たちに共有してくださったのだから」



 シャルロッテの眼が大きく見開かれる。眉間に皺が寄り、瞳は何かを訴えるように潤んだ。



「私に……戦うことができるでしょうか。主の御心に適う行いをできるでしょうか」



 カイは悟った。恐怖に竦んだ人間が諦めを許されぬ時、抱くのは希望よりも絶望なのだ。しかし、絶望は神への裏切りである。人の命は神が終わらせるものだ。生きているということはすなわち、神が足掻くことを望まれているということだと、カイは信じていた。



「大丈夫です。あなたは恐ろしさに耐えて、こんな重大なお話を私たちにしてくださいました。そして、言葉にするのもはばかられるような呪わしいことすら、修道院の仲間を救うために言葉にして警告してくださったのです。これほどの勇気があるでしょうか」


「でも……私にはもうこれ以上耐える力など……」


「いいえ、あります。本当に悪魔に立ち向かう力が尽きているのなら、あなたは既に死んでいるはずなのですから」



 シャルロッテは俯く。今の彼女には、カイの言葉は優しさよりも厳しさが強い。だがカイは尚も続けた。



「あなたは主なる神に生かされている。いただいた命を全うする責務があるのです。折れてはなりません。それに、もうあなたは独りではないのですよ。私が共におります。イザベラ修道女もブリギッテ修道女も、きっとユッタ修道女だって力を貸してくれるでしょう。独りではないというのは、重荷を分かち合えるということ。今やあなたの肩の重荷は三分の一にも四分の一にもなるのです」



 動揺しているのか、背筋を逸らせるようにして二人の顔を見比べるシャルロッテに、今度はイザベラが微笑む。



「大丈夫。あなたを悪魔に連れて行かせたりしないわ。私も戦う。いえ、あなたの敵は修道院の敵よ。ここに暮らすみんなが、共に戦ってくれるはず」



 白い指先がゆっくりとシャルロッテのウィンプルを整える。母が子を慈しむような仕草に、若草色の瞳が揺れる。



「本当に、一緒に戦ってくれるのですか……?」


「もちろんよ。そうだ、この後みんなで一緒にブリギッテに相談に行きましょう。四人で考えればきっと何かわかるはずだわ。あの子は優しくて賢いし、こういうことには詳しい。何よりあの悪魔を見た一人だもの」


「そう……ですね……」



 カイも頷く。そもそも魔術の話を聞いた時点でブリギッテには報告に行くつもりであったし、今のシャルロッテにはカイのみならず多くの人間が寄り添うべきだ。一人の力でシャルロッテの心を解すことができずとも、二人であれば、三人であれば、増えれば増えるだけ彼女の重荷は分かたれるのである。



「そうと決まれば、ブリギッテ修道女を行きましょう。私の責務は疑いの目を持って取り組むべきものではありますが、あの方のことは私も信頼しています。今は食事の時間でも祈りの時間でもないので、ブリギッテ修道女がここにいないということは写字室か回廊ですね」



 三人は談話室を出る。ここを出れば会話は許されない。緊張を残した面持ちのシャルロッテの肩を引き寄せるようにしてイザベラが先導した。


 回廊に出ると、頬を爽涼な風が撫でる。カイは思わず息をつき、小鼻を指先で拭う。知らぬ間に脂汗をかいていた。それほどに悍ましい話が語られたのだ。初老の男を脂汗に濡らす言葉をその唇で語った少女の恐怖はいかばかりか。


 顔を上げ、カイは風の中にベトニーの香りを探す。直に見たわけでもないのに脳裏にこびりついてはがれぬ腐肉の十字架を、風の香りに混じる祓魔の薬草が浄化していく。


 ……そう、ここは聖域なのだ。悪魔の住まうべき場所ではない。


 決意に肩を怒らせ、床石に響かせる足音も強くなる。必ずや退ける。カイは強く誓った。


 もともと今回の一件はカイにとって修道院長から押し付けられる多くの面倒ごとのひとつでしかなかった。背負い込まされた面倒ごとでも丁寧に取り組むのは生来の苦労性の為せるところではあったが、面倒ごとに対し本分を越えないだけの節度(・・)を保つのも彼の向き合い方だったのだ。アンネリーゼの手紙を読んでも、その腐らぬ遺体を前にしても事件への距離の取り方は変わらなかった。常に他人事であった。他人事に感じる自分への疑問も持ってはいなかった。彼の役職に基づく責務ではないのだから当然のことであるが。


 その意識を打ち砕いたのは奇跡ではなく、修道女たちの姿であった。皆が怯え、皆が奮い立った。年端もいかぬ少女までもが、その身を犠牲に真実を語ろうとした。


 どの時点でカイに共に戦う意志が芽生えたのかは定かではない。しかし、今やカイの心は三十年以上を過ごしてきたアシャッフェンブルクの地ではなく、僅か三日を共にしただけのここ聖アンナ修道院にあった。既に老境にある彼は、自らの生きた意味をこの悪魔との戦いに見出してすらいる。悪魔を退ける代わりに老いた肉体が朽ちるとしてもそれで構わないと考えていた。


 必ずや退ける。沈黙の中でもその思いは雄弁であった。二人の修道女は確信を持って頷き、写字室へと足を進める。その瞳には一片の絶望もない。

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