だから犠牲者は
カイの生唾を飲み込む音が異様なほど大きく響く。シャルロッテを抱きしめるイザベラの腕の力が強くなる。しかし恐怖と懺悔に濁りつつもシャルロッテの瞳は濡れることなく、そこにはない何かを懸命に見据えていた。
「あれは主を冒涜するための形です。異端者どころではない、目にした者の信仰を穢す異教徒の所業です。きっと誰かが悪意をもってあの厩舎に置いたのです。院長に憑いていた悪魔をこの修道院に召喚するために」
小さな歯が、果肉を裂くように唇に突き立てられる。まるで今から言うことをカイとイザベラにも聞かせたくないとでもいうように、そのままほとんど口を開くことなくシャルロッテは語った。
「あれから私は悪魔を夢に見るようになりました。途中までは普通の夢で、私はこの修道院の回廊を歩いていたり、礼拝に参加していたりと、変わることのない日常を過ごしています。ただし、その様は現実と区別がつきません。石壁の冷たさや、ふいに触れた修道女の手のぬくもり、食卓に供された川魚の繊細な甘味だとか、薬草園から漂ってくるヒソップの辛い香りに至るまで、鮮やかに感じられます。そんないつも通りの風景の中に、黒い靄のようなものが急に現れるんです。その中には何かが潜んでいるようで、男とも女ともつかない囁き声がVINIVINIと繰り返します。靄はスープを服に零した時のようにじわじわとその大きさを広げ濃くなっていき、私は美しく鮮やかな世界よりも、その靄の方に目を奪われてしまいます。初めて見た時は胡桃の殻の大きさでした。最初の夢から目覚める頃には両の掌ほどまで大きくなっていて、今では人ひとりが中に入れそうな大きさです。そう、ちょうど私が入ってしまいそうなくらいの」
噛み締められた唇に朱が滲む。
「フリーデが亡くなってから、夢は一層頻繁に、そして恐ろしいものになりました。靄の中から手が伸びてくるのです。何本も、何本も。干乾びたように細いものもあれば、纏った脂肪の内から漿液を滲ませるものまでありますが、どれも皆正常な人の手とは思えぬ醜さです。押し寄せる大量の手の群れに足を竦ませながら私は、何故囁き声の性別がわからなかったのかを理解しました。声は独りではなかったからです。この手の一つ一つが同時に声を発し、聖句の詠唱のように重なりあった声があの声だったんです。更にあの声は、あの胃の底が裏返るような声は言うようになりました。VOLO TE……VOLO VOS」
シャルロッテは止まらない。柘榴のような下唇を舌で拭い、懸命に言葉を紡ぐ。
「フリーデは……連れていかれてしまったのかもしれません。院長は間違いなく素晴らしいことを成し遂げられました。だからこそ主は祝福されたのでしょう。しかし、院長の命が尽きる前に、悪魔はフリーデを餌食にしていた。それは、その時悪魔は既に院長からフリーデへと憑く先を変えていたということではありませんか? 15年も耐えた院長に見切りをつけて、フリーデの魂を手にするために」
「シャルロッテ! あなたなんていうことを!」
イザベラは腕を解いて両腕を上にあげる。まるで食卓の下に汚い虫を見つけたときのような反応に、シャルロッテは自嘲的な笑みを漏らした。
「そうですね、そうやって私から離れた方が良いかもしれません。こんな呪わしいこと、自分で言っていて恐ろしくなりますが……私が次に見に行った時、魔術の後は全く残っていませんでした。もしも片づけられたのではなく、最初からそこにはなかったとしたら? 私だけに見せられた幻影だったのだとしたら? 修道院に異端者が紛れ込んだのではなく、亡くなったフリーデがあれを作った可能性だって否定できないと思いませんか? あの悍ましい偶像が、見た人に誘惑の手を伸ばすための道具だったとすれば、今狙われているのはきっと私。だからイザベラ修道女も、カイ修道士も、きっと本当は私なんかに関わらない方が良いんです。今まで主に生かされてはいるものの、もう、私は疲れきっています。次に悪魔の夢を見たら、逃げきれずに引きずり込まれてしまうかもしれません」
沈黙。風の吹き抜ける音。カイの背筋を冷たい汗が走る。イザベラを見遣れば、大きな空色の目を更に見開き、しきりに睫毛を震わせていた。恐怖、後悔、憐憫、悲哀といった負の感情を煮詰めたような影が白蝋の肌に射す。どこかで猛禽の声が響く。耳に届くはずのない攫われた被食者の声も、カイとイザベラは確かに聞いていた。
言葉を失う二人に目を合わせることもなく、虚ろな笑みを湛えたまま少女が語る。
「ごめんなさい。私がこうして話すことで、お二人にも危険が及ぶかもしれないと思うと、申し訳なくて仕方がありません。でも私はお二人が動いていると聞いて、話さずにはいられませんでした。だって悪魔はVOLO TEとだけ言ったのではありません。VOLO VOSとも言ったから。きっとこの修道院の仲間全員を狙うつもりです。だから……犠牲者は私までで食い止めなくてはいけないんです」