偶像
まさか半年も空白を作ることになるとは、申し訳ありません。更新は今後も不定期ですが、お陰様で環境も体調も安定してきたので、せめてひと月に1回は投稿できるようにしたいものです。
「私にあなた方を助ける力があるかはわかりません。しかしこれだけは約束しましょう。私は死力を尽くしてこの問題に挑みます」
一語ずつ噛み締めるようにカイは告げ、真っ直ぐにシャルロッテの瞳を覗き込んだ。どんな上辺の言葉も受け付けぬであろうその瞳に、必ず助ける、などと確証のないことを言うことはできなかったが、だからこそこの手で救いたいと願う気持ちは本物であるとカイは言葉ではなく目で伝えることを選んだ。
シャルロッテが瞼を閉じる。丸みを帯びた小さな顎から、つ、つ、と雫が滴り落ちる。雨音を思わせる速さ。カイは視線をずらすことなくその様子を見守る。石壁に響く浅い呼吸、時折混じる押し殺した声。カイは無理に泣き止ませようとは思わなかった。先ほどの言葉がシャルロッテの胸に染み渡るのをただ待つ。イザベラもその傍らで見守る。談話室には誰も入ってこない。
雨垂れが次第に緩慢になり、最後の雫が落ちたとき、再び若草色の瞳が姿を現した。先ほどよりも大きく澄んで見えるその瞳には、淡い笑顔を保ったままのカイの顔がくっきりと映っている。
「失礼いたしました。やっと助けてくれる人がいらしたと思ったら、わたし……」
「いいんですよ。今まで怖かったのですよね」
「はい……」
シャルロッテは反射的に手を伸ばし、カイの手を握る寸前で方向を変え、イザベラに縋りついた。イザベラの腕の中で頭を撫でられる小さな修道女を眺めながら、カイはどうやら自分の言葉が思った以上に深く響いたらしいことを知る。
「ユッタ修道女から概要は聞いています。あなたが見たことを、聞かせてくれますか?」
率直に問うた。シャルロッテは大きく頷き、息を衝く。
「あれは聖燭祭の翌朝でした。私は来客の手伝いがあって正門の方まで歩いていたんです。でも、厩舎の前を通りがかったとき、ふと寒気を感じて……」
「寒気、ですか」
「は、はい。なんか嫌な感じというか、いつもと違う感じというのでしょうか。気になって近くに寄ってみました。そうしたら、馬たちの様子がおかしかったんです。一頭の馬がしきりに高い声で啼いていて、左右の馬がその馬に頭をこすりつけたりしていました。今考えれば止しておけば良いのに、私は厩舎の中へ入りました。馬が怪我か病気をしているなら、馬丁に知らせなければと思ったから……」
言葉を切って俯く。
「声は掛けましたが厩舎に馬丁はおらず、馬の鳴き声と足踏みの音、隙間風の音だけが響いていました。その静寂とも喧噪ともつかない空間が何だか気持ち悪くて、本当は早く立ち去りたかったのですけれど……鳴いていた馬をよく見ると、尻尾の先を怪我しているみたいでした。それも、毛が妙に短く切り揃えられていて、誰かが尻尾の先を切ってしまったように見えました」
華奢な腕が己を抱く。小刻みに震える肩。
「誰がこんなことを、と思って振り返ったんです。目に入ったのは……とてもおかしなものでした」
「おかしなもの? 本来置いてないものでも置いてあったのですか?」
「いえ……置いてある場所がおかしいとかではなくて、見たことのないものでした。一瞬、私は不敬にも見間違えてしまったのですが……」
「見間違えた? 何にです?」
「あ、いえ! その、気にしないでください! 申し訳ありません!」
「え? 謝るようなことなのですか?」
「違うんです。私の目は悪い目です、どうかお許しください!」
「見間違え程度、別に許しを請わずとも……」
「すみません、ごめんなさい!」
真っ青になって首を振るシャルロッテに取り付く島はなさそうだった。カイは追求を諦めて先を促す。シャルロッテはコットの裾を強く握りしめ語りだす。できる限り誰かに聞かれたくないとでも言うような囁き声で。
「……近寄ってみると、それは私の考えとは全く違うものでした。爹児のようなもので黒っぽく染められた、膝の高さほどの木の枝が地面に刺さっていました。そこに、何かぶよぶよとしたものが掛けてあったのです。あまりの気味悪さに目を逸らしてしまいましたが、それが何なのかはすぐ臭いでわかりました。つんとした饐えた臭い……生の肉の塊です。周りに蝿が飛び回っていました。枝の根元にはどす黒い粘着質な何かが纏わりついていて、何故かもぞもぞと蠢いて見えました」
囁き声は次第に湿り気を帯びていく。
「それらを囲むように地面には円形に何かが描いてありました。掘った溝には木の枝を染めているのと同じ黒っぽい色がついていて……今になって思いますが、おそらく血でしょう。円の外側には文字が書かれているようでしたが、読む前に目を閉じました。私の信仰心が警告したんです。あれはきっと、読んではいけないものだと」
「なるほど。何か呪文のようなものが書かれていたのかもしれませんね」
カイは思わず唸った。この怖がりな修道女であれば、馬丁が行った蹄鉄の付け替え作業を勘違いした等もあるかと思っていたが、語られた状況はあまりに常軌を逸している。シャルロッテを抱きしめるイザベラの腕にも、自然と力が籠っているようだった。
「ああ、あの光景が頭にこびりついて離れません。私はどうしてこんなものを目にしてしまったのでしょう。円の内側には七芒星が描かれており、その中心にあの偶像が立っていて……」
「偶像? 木の枝が?」
「あれは偶像、穢らわしき偶像です。それ以外に何があるでしょう。きっと悪魔をかたどった偶像だったんです。だって、私は……ああ、最初にあれを見た時、私は」
シャルロッテは囁き声のまま叫んだ。
「主よ、どうかお許しください。あの腐った肉の塊を、磔刑の聖像だと思ってしまったのです」