修道院の騎士
ユッタは修道女の名を告げるなり、両手の平で顔を覆い沈黙した。荒い呼吸と震える指。快活でよく喋る彼女が見せた濃い恐怖の色は、カイとイザベラに事態の深刻さを実感させる。そのまましばらく時が流れた。カイはイザベラの冀うような視線に押され、軽く咳ばらいをする。そして、おずおずと顔を見せたユッタを安心させるように笑いかけた。
「シャルロッテ修道女ですか、たしか先ほどもお名前が出てきましたね。のちほどお話を聞いてみます。現場の状況から何かわかることがあるかもしれません」
ユッタはゆっくりと薬指と中指を離し、間から赤みの強い薄茶の瞳を覗かせる。カイは少々わざとらしい程に大きく微笑んで、ユッタを促すように頷いた。鍵を掛け忘れた重い扉が開くときのようにゆっくりと、両の掌が頬から剥がされていく。
「……カイ修道士は、悪魔祓いにお詳しいのですか?」
少し曲げた丸い背中。腕を伸ばしながら呼吸を落ち着かせたユッタは、下方からカイの顔を見上げる。睨め上げる訳ではないが、強張ったままの頬。値踏みされているのだ、とカイは思った。カイが心強い味方となるかどうか、測りかねているのだろう。恐怖は去っているまいに、案外強かなものである。
「いえ、私は悪魔祓いなどしたことはなく、魔術についての知識もありません。しかし、どんな恐ろしい業であっても、そこにはそれを行った人間がいるはずなのです。人間の行動であれば考えも及びます」
その言葉にユッタは一瞬目を丸くするが、やがて浮かんだ笑顔はどこかぎこちない。
「そっか……行った人間、ね」
低くかさついた声。未だ震えていた両手が、コットの脇をぐっと握り締める。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、考えもしない事態になって、びっくりしているだけです」
ユッタは二、三回頭を振ると、両手で自分の頬を強く叩いた。ぱしん、という乾いた大きな音に驚き肩を竦ませたカイの目を、真っ直ぐに見据える。
「よし! 私も腹を括ります! もし私にできることがあれば、何でもおっしゃってください。多少危険な役目でも構いません。もう覚悟はできましたから」
「ユッタ修道女……」
今にも泣き出しそうだった弱い女の姿はどこにもなかった。赤茶の瞳には騎士と見紛うほどの力が宿っている。
「フリーデのような子の命が奪われるなんて、私本当に許せないんです。悪いことをして誰かの恨みを買ったならまだしも、悪魔なんて理不尽な存在に遊びのように殺されるなんて。だから私、絶対にあの悪魔を地獄に送り返してやりたい!」
顔の前に拳を掲げ、握り締めて見せるユッタ。まるで自分が殴り倒すとでもいうようなその姿に、カイは苦笑を漏らしつつ感謝した。
「私は一介の修道士に過ぎません。悪魔を探すと言っても、皆様のお話を聞いて、その所在を類推するまで。祓うことに関しては、司祭にお任せしようと思っています」
「そうか、そうですよねぇ……でも本当に、私にできることがあればおっしゃってくださいね? 例えば聞き込みの手伝いとか。この年になりますと、他の子たちの相談に乗ることも多いんですよ。だからきっと、みんな私には困り事も打ち明けてくれるんしやないかしら」
「ありがとうございます。何人か気になっている方はいるので、その方々は私の方で聞いて回りますが、もしかするとその後でまたお話を伺うかもしれません」
ユッタは恥じらうように拳を下ろす。イザベラはそれを見て微笑みを浮かべるが、彼女を笑うことはしなかった。皆、気持ちは同じなのだ。もし自分に悪魔と対抗するだけの力があるならば、何故その拳で叩きのめすことを思わないだろうか。
ユッタは空気を変えるように咳払いをひとつ。ふっくらとした頬を綻ばせてカイに問うた。
「ところで、さっき何人か気になっているとおっしゃってましたが、具体的には誰なんですか?」
「既に聞き込みをしたのがブリギッテ修道女とイリーネ修道女。次は先ほど魔術を発見したとおっしゃっていたシャルロッテ修道女にお話を伺おうと思っています」
「そうですか。シャルロッテは気立てのいい子ですが、ひどく気が小さいんです。聞き込みをするときは、どうかあまり怖がらせないでやってくださいね」
「わかりました、気をつけます」
ではそろそろ、とカイはイザベラを伴って小屋を出る。イザベラが振り返ると、ユッタは素早く小刻みに手を振った。両手を振ってそれに応えるイザベラの頬には赤みが戻っている。悪魔に立ち向かおうとするユッタの力強さが、イザベラの恐怖を吹き飛ばしたのだろう。カイは微笑んで一礼し、歩みを進めた。