氷の頬
まだ1話しか投稿していないにもかかわらず、さっそくブックマークやご評価をいただきましてありがとうございます!
よく耐え続けたものだと、私は昔の自分を褒めてやりたいと思います。得体のしれない囁き声にあらゆる屈辱を与えられながら、涼しい顔をして過ごしていた当時の自分を。私が陰で氷の頬などと呼ばれているのは存じています。このような固い頬を手に入れたのは、もともとのおとなしい性分もありますが、何より笑顔ごと消し去ってしまわねば怒りや悲しみの表情が浮かぶのを抑えられなかったためです。私はこれも主が与えたもうた試練なのだと思うことにしています。幸か不幸かそれなりの容貌をもって生まれた私ですが、無表情の女に心を動かす殿方のあろうはずもありません。修道女として日々を主に捧げる私にとって、色恋を忘れるためにも丁度良かったと言えます。
話がそれました。ともあれ、私は私の心を完全に肉体のうちに封じ込めることに成功したので、囁き声が私の生活を脅かすことはありませんでした。どうやら声の主は、誰かほかの人に囁きかけたり、物にあたったりするようなことはできないのだとわかって、ほっと胸をなでおろしたものです。どんなに辛くとも、ひたすら無視を続けていればいい。そう思っていました。驚くべきことに、そんな平穏な日々が15年は続いたのです。私は人とは異なる試練を与えられたことを主に感謝しさえしました。
しかし、異変は起こりました。ある朝のことです。私は薬草園の手入れをしていました。草花と土の温かい香りに包まれるのは私の一番好きな時間でした。丁度ベトニーが花をつける時期でしたので、私はそっとその一つを手の中に閉じ込め、胸いっぱいに息を吸いました。ベトニーは幻覚や悪魔を私たちから遠ざけてくれる薬草です。そして目を閉じて言いました「主よ、どうか私の耳からこの恐ろしい幻覚を取り除いてください」……すると、不意にベトニーの香りが強く香りました。もしかして主が私の祈りを聞き届けてくださったのではないか。そんな期待と共に私がゆっくりと目を開けると飛び込んできた光景は、無残にも根元から引きちぎられ、そこら中に散らばったベトニーでした。「いったい誰がこんな」思わずそう呟くと、両耳から頭の中に鳴り響くように声がしました。「FECI ISTUM」。
どうやら今まで私の傍に張り付いていた囁き声の主は、私の中に入り込んで私を支配するようになったようなのです。というのも、呆然としながら両手を見ますと、私の指の間にはべっとりと緑色の草の汁がついていましたから。
そんな事件があってから、私は時々白昼夢を見るようになりました。出てくるのはいつも、闇の中に浮かぶ、闇よりもさらに暗い、大きな人影のようなものです。「人影のような」、という表現に疑問を持たれたでしょうか。ええそうです、人影ではなかったのです。それは人体を引き延ばして歪めたような、目にしただけで肌が粟立つ非常に冒涜的な形をしていました。
私はこれがいつもの囁き声の主であると確信しました。悪魔です。それ以外に、私はこれを表す言葉を知りません。そして、幻影を見ている間、私は彼に操られているのです。
ああ、友よ。あなたは信じてくれるでしょうか。氷の頬を持つ修道院長が時折修道女たちにしてきたひどいことのすべては、自らの意志によるものではなかったのだといったら!
幻影を見るようになったことをきっかけに、私は自分の中に巣食うこの悪魔と闘うことを考えるようになりました。と言っても、私はすでに院長の座にありました。教会に悪魔祓いのお願いをしようとも思ったのですが、外聞が悪すぎます。きっと有耶無耶にされてしまうでしょう。私はいつ降りてくるともわからぬ幻影に怯えながら、一人で祈り続けました。悪魔の名を知れば祓うことができるという噂を聞いて、幻影のさなか、名前を聞き出そうと試みたこともあります。しかし、悪魔は笑うばかりで応えません。囁きはいつだって一方的なのです。
さて、ここで操られている間に行ってきた自分の横暴の数々を懺悔してもよいのですが、私にはもうあまり時間が残されていません。それよりも、あの子の話をしなくてはならないでしょう。先月主のもとに召された、フリーデのことです。
本当にいい子でした。人懐っこくて、よく気が付いて。少しばかり規律を軽視する傾向があったので、私は度々彼女を叱りつけなくてはなりませんでしたが、嫌っていたわけではありません。当然です。ここにいる皆の、だれ一人欠けてはならぬのですから。
そんなフリーデのほとんど唯一といって良い折り合いの悪い相手がカルラでした。あの日も、フリーデはカルラと喧嘩をしていたのです。きっかけはわかりませんが、きっと些細なことだったと思います。私が見かけたときには、肩で息をしているカルラと、びしょ濡れで呆然とするフリーデが相対していました。言い合いの末、カルラがフリーデに水を掛けたのです。私は当然それを見咎めて、二人に部屋で反省するように言いつけようとしたのですが……
その時、目の前を真っ暗な闇が包み込み、あのおぞましい影が飛び込んできたのです。悪魔は笑っていました。私を嘲笑っていました。私は訳が分からぬまま、ただ闇を見つめておりました。
そして、幻影から解き放たれた時には、もう翌日。私は自室でペンを持ち、聖書を広げてぼうっとしていたのです。手許を見やると、恐ろしいことに、私の右手は聖句を塗りつぶして消しておりました。