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アンネリーゼの首縄  作者: 澁澤まこと
第2章 ブリギッテ
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それは歪な

少々ホラーな表現があります。苦手な方はご注意ください。

また、ルビの文字数の制約により、一部原文と意味の異なるルビが振られていますが、ご容赦ください。

「藻掻いても藻掻いても、押し寄せる流れに逆らうことはできません。光は渦となり、周囲の景色を知覚できません。深淵に運ばれるにつれ、ひどい冷えが私を包んでいきます。濁流の立てる轟音の中で、無機質に繰り返されるVINI(来たれ)VINI(来たれ)という声だけがはっきりと聞き取れました。私は、この婦人が必死に私を手繰り寄せているのだと感じました。VENIAM(お傍に) AD VOS(参ります)と応えると、私の心臓と婦人の心臓が繋がったような感覚を得て、私は急に暗闇に放り出されました。例えるならば冬の水底。前方に光を見つけ、泳ぐようにしてそちらに進んでいくと、光はやがて人の姿をとりました。それは赤いローブに緑のマントを羽織り、書物を手に携えた美しい方でした」



 神の祖母、とカイは呟いた。図像学上このような姿で表される聖アンナは、聖母マリアの母であり、子供のいない夫婦の守護者。しかし、彼女の名を冠するこの修道院にあっては、意味するところはそれだけにとどまるまい。



「ウィンプルの下から覗く大きな金の瞳は焔に揺れて、私をじっと見据えています。長く豊かな睫毛に縁どられた下瞼は、溢れる血涙に濡れていました。私は、この美しいお方は私という小さき主のはしために一体何をお望みなのだろうと考えました。すると、私がその疑問を口にする前に、婦人は悲しげに右手を掲げ、私の額にあてられ……ああ、ああああ!」



 突然、ブリギッテは組んだ手を震わせて叫んだ。談話室が再びどよめきに包まれる。唇からは喘鳴ばかりが漏れ、蒼白な頬を涙が伝う。いつもどこか大人びた雰囲気のブリギッテが、無力な少女の顔をしていた。背伸びした仮面など簡単に引きはがすほどに、ただ恐怖だけが彼女を支配しているようだった。


 イザベラは両腕で彼女を抱きしめ、背中をさする。



「話すのが辛いなら、無理をしなくてもいい。でも、ここには今みんながいるわ。見たものを一人で背負いこまないで。その辛さを分かち合わせて」



 ブリギッテは顔を伏せたまま、浅い呼吸で懸命に言葉を紡いだ。



「……婦人の指先が額に触れると同時に、私は幻影をみました。それは人影、そう人影のようなもの(・・・・・・・・)です。頭があり、四肢がありました。しかしあまりにも歪なものでした。指も、腕も、脚も、異様に細長く捻じれています。骨格を無視したその曲がり方は、引き延ばしの拷問を思い起こさせました。肉があり、皮膚がありました。しかし表面は皮膚というよりも粘膜のようで、ぬらぬらと粘液に濡れて照りついており、赤や青紫の血管が浮き出て脈打っています。肉の付き方も均一でなく、根元が削げていると思えば末端が急に肥大していたりしました。そして何より、頭です。ナイフで切れ込みを入れたような口には唇がなく、血と粘液を絶えず吐き出して折り、その奥には歯の代わりに解体した豚の腱のような筋が見えていました。同じく瞼のない目は耳ほどの大きさがあり、青白い瞳が左目には二つ、右には三つ。悪魔です。それ以外に、私はこれを表す言葉を知りません。五つの瞳をこちらに向けて、悪魔が笑うのです。私を下品に嘲笑うのです!」



 そこまで一気に喋り切ると、ブリギッテは再び声を上げて泣いた。咽び泣く彼女を抱きとめるイザベラの顔にも血の気がない。修道院が名を捧げた神の祖母の見せたとは思えぬほどの冒涜的な幻影に、誰しもが言葉を失っていた。カイは一人静かに十字を切る。修道女の間にそれが伝播する。談話室はこんなにも寒かっただろうか。誰かが己を腕に抱く絹ずれの音がやけに大きい。比較的大きな部屋に、ブリギッテの泣き声が良く反響した。


 そのまましばらくの時が過ぎた。皆が暗い顔のまま、そろそろ解散しようかという雰囲気になってきたころ、ブリギッテはしゃくり上げながらようやく言葉を継いだ。



「手が離れると、幻影は消え、目の前には血涙を流す高貴な婦人がいるのみでした。そして、怯えながら見上げる私に、招いた時と同じ抑揚のなさで婦人はおっしゃったのです。DIABOLUS(悪魔は) NON ABIIT(未だ去らず)、と」



 誰しもが息を呑んだ。思いもよらぬ呪いの言葉。



「私はすぐに、アンネリーゼ院長の遺書のことを思い出しました。きっとこの言葉は、私自身ではなく、この修道院に向けられたものです。20年以上も修道院長を苦しめ続けたあの悪魔は、祓われてなどいなかったのです」



 談話室を悲鳴が彩り、絶望が包む。涙を流す者、膝を折る者、卒倒する者。カイはあたりを見回して、頭を搔いて天を仰いだ。このままではこの場を狂気が支配するだろう。それだけの衝撃があった。



「……幻影はそれで終わりですか?」



 場を収める意味を込めて、カイは静かにブリギッテに問うた。



「はい。気づくと私はここに寝かされていました。見たものは全てお話ししました。私もまだ混乱しています……本当は、もう少し自分の中で整理してからお話すべきだったのかもしれません」


「いえ、充分順序だてられたお話でした」


「ありがとうございます。でも、こうして泣いている場合ではありませんね」



 涙をぬぐいながら俯くブリギッテは未だイザベラの腕の中にあるが、その声に震えはない。ふいに雰囲気の変わった彼女に、混乱していた周囲の視線が再び集まる。



「皆さん、これはきっと主の与えたもうた試練です。あの婦人は私たちに教えてくださったのです。DIABOLUS(悪魔は) NON ABIIT(未だ去らず)、つまり去らせることができると。退けましょう。私たちの間に悪魔がいるのなら、皆で退けましょう」

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