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アンネリーゼの首縄  作者: 澁澤まこと
第2章 ブリギッテ
10/24

炎の槍

大変ご無沙汰しております。

こちらの作品につきまして、突然告知もなく更新を停止してしまい、大変申し訳ありませんでした。半年ぶりの更新にもかかわらず、読みにきてくださり、本当にありがとうございます。

 先程までの歓喜の色から一変して、青褪めた肌に浮かぶ微かな汗と眉間の皺に読み取れる苦悶。ブリギッテを囲む修道女の輪の中に、戸惑いの息遣いが伝播する。目を泳がせて頼る先を探す者、自らに言い聞かせるようにぎこちない微笑を浮かべる者……そして、期待を裏切られた憤りを見せる者。その間にも少女の唇は小さく開閉を繰り返すが、息が漏れるのみで言葉は紡がれない。火の入っていない談話室の隅で、カイは身体がしん、と冷えていくのを感じた。かじかむ耳に届くのは、薬草園の葉が風に擦れ合う音。



「ねぇブリギッテ、一体何が見えたの?」



 皆がきっかけを譲り合う中、沈黙を切り裂いたのは駆け寄ったイザベラの一言だった。彼女はブリギッテの右手を自らの両の手で包み込み、温めるように撫で回す。その行為に、ぼんやりと床を向いていた暗い瞳はゆっくりを持ちあがり、ようやく目の前に像を結んだようだった。



「さっき見えた幻影は、美しいものではなかったのね。でもいいわ、話すことを躊躇わないで。あなたが視るものは主より与えられた祝福。それを私たちの一存で否定するわけにはいかないでしょう?」



 ブリギッテは尚も逡巡を見せたが、やがて大きく息をついた。



「主はお嘆きです」



 たったそれだけで言葉が切られる。深く額を覆うウィンプルの下で、灰と琥珀の入り混じった瞳が窓辺の光を取り込んで揺れる。曇天の雲間に陽光を探すように、皆の視線が集中する。



「はじめは光でした。回廊を歩いていると、自分の足音が徐々に遠くなっていき、床が白い霧に包まれていきました。ただの霧ではありません。あんなにも甘美な香りをもった霧が地上にあるとは思えませんから。ニオイスミレよりも甘く、ローズマリーよりも高貴なその香りに誘われて思わず足を止めると、霧は私の足に纏わりついて私の身体をゆっくりと持ち上げました。霧は私の踝より下を覆うのみでしたが、真綿のような柔らかさと鋼の様な堅牢さを併せ持ち、私は母に抱かれる子の安らかさで身を預けることができました。運ばれるままにゆっくりと空へと上りますと、四月の空とは思えぬ温かさが私を包み込みます。温かさが増すごとに、あたりの景色の色合いは普段目にするものから遠のいていきます。薄い雲母の破片越しに眺めているよう、とでも言うのでしょうか、目に映る総てのものが虹色の輝きを湛えているのです。遥か下に修道院を望み、太陽の方が近くに感じられる頃には、虹色の雲間を金粉が舞い、祝福を告げる御使(みつか)いの歌声があたりに響いておりました。私はその光景の美の中に主の愛を強く感じました。主の創りたもうた世界がこんなにも美しさに溢れているということが、主より私たちに向けられた愛の、何よりもの証であると思われました。私は膝を折り、忘我の境で感謝と賛美の祈りを捧げました」



 ブリギッテは饒舌であった。今まで口数も少なく、氷の壁越しに見るかのようであった彼女が、吟遊詩人(ミンネジンガー)の如き滑らかさで幻影を語った。



「すると、天から燃え盛る炎の槍が降ってきて、私を刺し貫きました。焼鏝の拷問も生温いほどの熱です。しかし私が感じたのは、痛みではなく悦楽でした。私は驚きと共に理解しました。これは愛です。先刻美しい景色の中に見た主の愛の発露なのです。私は何度も刺し貫かれました。主の愛は甘く、熱く、とめどなく注がれて、私を満たしていきます。指先も、爪先も、首筋も、唇も、髪の毛も、全てが抱き締められ口付けられるようでした。主の愛によって五感が塞がれます。目も、耳も、鼻も、舌も、肌も、全てが溶け落ちてしまいそうでした。例えるならば蜂蜜の壺に身を沈めるような、感じ取れる限界を越えた悦楽なのです。ですがどうしてそれを拒むことがありえましょうか。身体も心も、私の全ては主のものです。受け止めきれず壊れたとて、それを主が望まれるのであれば、私は喜んで壊れましょう。ですから、自我と外界の境目もわからぬ愛の海の中で、私が唯一気を配ったのは、祈りを絶やさぬことのみでした」



 蒼白だった頬に僅かばかりの血色が戻る。それを見つめる修道女たちの瞳も潤み始め、DEUS(神は) CARITAS() EST(なり)という言葉が、愉悦を以て口々に呟かれた。皆が主の愛に、そしてその一端を身を持って理解し伝えるブリギッテという存在に感謝していた。我々は主に愛されている、そしてその愛は身体を打ち壊す程に強い……キリスト者にとってこれ程の福音があろうか。


 だがそれは、幻視がこれで終わればの話である。



「素晴らしい幻視です。だがあなたは最初に『主はお嘆きです』と言った。何故です?」



 思わず口を挟んでしまったカイに、ブリギッテは笑顔になりかけていた頬を引き締めて返した。



「何十回目かのAMENを唱え終わった時、もはや御使(みつか)いの歌声も覚束なくなっていた私の耳に、VINI(来たれ)VINI(来たれ)と繰り返す婦人の声が届きました。思わず声のする方に顔を動かそうとすると、突如として濁流に飲み込まれたのです」


「濁流……?」


「はい。濁流としか例えようのない、空間を丸ごと押し流すような激しい流れです。私はそれに飲み込まれて、息も出来ぬままに何処かへ運ばれていきました。光に溢れていた先程の場所からは遠く、どこか深いところへ」



 福音に舞い上がりつつあった修道女たちの心は、ブリギッテの冷たく低い声と共にその翼を切り落とされた。落ち行く先は深淵。この先を聞くことを拒んだとて、喜びに酔いしれることはもう叶わない。

今後はしばらく不定期更新とし、ペースが掴めたら定期更新に切り替えたいと思います。改めてどうぞよろしくお願い申し上げます。

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