魔物
「もうやめましょう、こんな話」
絹子は恐怖で顔が強張り、2人の友人を嗜めるように声を発した。
嗜める、というのは建前で自分が怖くて仕方なかったのだ。ただでさえ放課後の学校は人が少なくて怖い。それなのに2人は全くそんな素振りも見せずに「建物に潜む魔物」の話で盛り上がっているのだ。
どんな物にも魂は宿る。
絹子の家にある茶箪笥にも、古びてゼンマイを巻くのがちょっと大変になってきた針時計にも、幼い頃から使用しているお茶碗にも。なんなら、家自体にも魂は宿ると言うのだ。
絹子も座敷童程度なら知っているし、古来から日本には八百万の神と言うくらいに物は大切にしなさいという文化がある。
だから魂が宿ると言われても最初は「なるほど」と納得できていたのだが、徐々に話が脱線して、学校の階段には魔物が住んでいて、年に数回悪さをする、だとか、公園のブランコには妖怪がいて小さな子どもを取って食ってしまうだとか。
「駅のホームには人を飲み込む妖魔がいて、昨今の飛び降り自殺はその妖魔が引き摺り込んでいるんだわ」
そこまで聞いて、絹子は恐ろしくなってしい、2人の話を遮るように止めたのだ。
「まあ、絹子は怖がりなのね」
「信じているの?」
コロコロと鈴が転がるような声で2人は笑う。
「いいの、そういう絹子だからいいのよ」
「ごめんなさいね、私たち少しからかってしまったわ」
「からかったの?」
「全部嘘よ、ないことだから。安心してちょうだい」
「怯えてる顔が可愛くて、つい」
そういうと、2人は悪戯が成功したようにあどけなく笑った。
「ひどいわ2人とも」
絹子の反応が見たくて続けていた、と告げられて、些か腹は立ったが話がはっきり嘘だとわかると、悔しいが安心もした。
分かっていても怖いものは怖いのだ。
「さあ、そろそろ帰らないと」
「あら、本当だわ。逢魔時、というものね」
「またそんなこと言って」
怪談話を終えた3人はあーでもないこーでもないと小鳥の囀りのように止まらないお喋りを繰り返しながら歩いていく。
今日の授業のこと、明日は朝から体育だ、課題を出した先生の物真似、などなど。
取り留めなく花が咲くように話しは続く。
「そういえば、絹子の誕生日は明日だったわね」
「覚えていてくれたの?ありがとう。嬉しいわ」
「可愛い絹子の誕生日ですもの、明日は早く帰るのでしょう?」
「ええ、母が張り切っていて。太らされてしまうわ」
「まあ!」
賑やかな笑い声が高く高く空へと響いた。
「じゃあ私今日はここで、伯父様の家に届け物をしなくちゃいけないの」
「私も今日は電車があっちなの、おばあさまの様子を見てから帰ることにするわ」
「2人とも今日は一緒に帰れないのね、寂しいわ」
「そんなこと言わないで、明日は一緒に帰りましょう」
「そうそう、明日は絹子の誕生日なんだから、ね?」
2人に諭され、我が儘をいう自分が幼く感じてしまい。絹子は仕方ないと頷いた。
「2人とも、また明日ね」
あれだけ騒がしく楽しく来てしまったので駅のホームに着くと急に寂しさがこみ上げてくる。ホームの柵から見える商店街の賑わいと、自分の状況がミスマッチでまるで線路を跨いで別世界に隔離されてしまったようだ。
こんな時に駅の魔物は出るのかしら?
ふと、学校で話した会話が頭を過り身震いする。
だめだめ、いくら寂しいからって、変なこと考えたら怖くなってしまう。
絹子は自分に言い聞かせて、小さくため息をついた。
瞬間、ホームに何かがあるのを視界の隅で感じ取った。
え?
改札から入って来た時、ホームには誰もいなかった。絹子は改札のすぐ横にいるのだから誰かが入ってくればわかるはずだし、切符を切る音も、駅員さんの声も聞こえなかった。
恐る恐る見てはいけないと分かっているのに、絹子は確かめずにいられなかった。
確認して安心がしたい。
ただのゴミかもしれない、野良猫が入り込んだのかもしれない。
ゆっくりとホームの端へ視線だけを向ける。
あれは何?黒い、モヤモヤとした黒い生き物
それは陽炎にしては嫌に輪郭がはっきりとしていて、人影というには歪な形をしていた。
「逢魔時というものね」
友人の言葉を思い出す。
まさか、まさか!変な話をしたから勘違いしているのよ!黒く蠢く物の正体は近くで見ていないから曖昧なだけなのだ。
でも、じゃあ"アレ"は何なのだろう?
ずず…っず…
何かを引きずるようにしながら黒いものがゆっくりとじわりじわりと近付いてくる気配を察する。
「いや…」
ずず……ずず……
地面を引きずるような、這うような音の中に何やら複数の声も聞こえてくる。
気にしてはいけない、聞いてはいけない、わかっている。それなのに囁くような声達に耳がそば立つ。
「…あんなに怖がって…」
「まるで幼い子どものよう…」
声は誰かに似ている。
誰だろうか…。
聞いては駄目、意識してはいけない。
「ああやってカマトトぶって」
「本当は怖くも何ともないくせに」
この声は、ああ!
先程別れた友人2人の話し声。
いるわけがない、ここに2人はいない。
だってさっき2人と分かれて、私はここに1人きりなのだから。
「あの子といると嫌になる」
「可哀想だから一緒に過ごしてやっているのに」
やめてちょうだい!
2人の声音を真似して、嫌なことを言わないで!!!
黒い影が近付いてくるほどに、ざわりざわりと声もはっきりとしてきた。
「声音を真似してるですって」
「知らぬは自分ばかりと気付いていないんだわ」
やめてやめて、2人はそんなこと言わない。
2人はとても仲の良いお友だちよ!
「でもほら、ごらん。お前を残して2人で何処かへ行くようだ」
突然、2人の声が消え、くぐもった男のような女のような低い低い声が聞こえた。
弾かれたように目を開け、線路の向こう側、商店街を見つめる。
「どうして…」
そこには先程たしかに分かれて別々の道を行った2人が楽しげに歩いていた。
「お前は一人ぼっちなんだ」
怖がりの絹子…
低い低い声が囁く。
その声は知らない男の声にも、女の声にも聞こえる。でも、あの2人の声にも聞こえる。
幾重にも重なった声が絹子の頭の中に響く。
「やめて、やめて頂戴」
堪らなくなり、絹子は叫んでいた。
「ふたりとも!待って、私も一緒に!!」
電車の警笛音が駅に響く。
切符を切っていた駅員が叫ぶ。
隣で電車が来るのを待っていた男が絹子の腕を掴み損ねる。
子どもを連れてホームに立っていた女性が子どもの顔を覆うように咄嗟に身を屈める。
このホームには私と、魔物だけじゃ…なかった、の?
スローモーションのように線路に落ちる絹子の目に映った最期の光景はどこまでも高い空と友人の顔だった。
翌朝、教壇に立つ担任が静かに言葉を告げる。
「絹子さんが、亡くなりました」
「そんな、ああ…絹子」
「どうして、私たち誕生日の贈り物も買ったのに…」
あんな話をしたのがいけなかった、あんな話をしたから絹子は連れて行かれしまったのね。
2人が商店街で歩いていたのは絹子に内緒でプレゼントを買うためだった。
でも、魔物に魅入られた絹子は2人の心を疑ってしまった。
結局恐怖と疑心暗鬼に心を囚われてしまった絹子は自ら闇に足を踏み入れてしまったのだ。
2人が絹子の死に嘆き悲しんでいることも知らず、真実を知らない絹子は駅のホームで1人、「寂しい」「悲しい」と2人を待っている。