第五話 第二次エチオピア戦争、スペイン内戦、そして第二次世界大戦へ
今回は第二次エチオピア戦争から第二次世界大戦の勃発まで書くので、冒頭の会話文は無しです。楽しみにされていた方はすみません(そんな人いるのかな
第二次エチオピア戦争。イタリアのムッソリーニがローマ帝国復活の第一歩としてエチオピアへと侵攻したこの戦争はフランス、イギリスの両国に対する挑戦でもあった。
特にフランスにとってはエチオピアは仏領ソマリランド(ジブチ)と仏領スーダン(チャド)を結ぶ要衝でもあり、フランス資本などもエチオピアに投下していた事から、反イタリア感情も高まったが、ドラロック内閣内部ではこの戦争に対してどう対応すべきか意見が分かれていた。
というのも当時の政権内ではイタリアとラテン同盟を結成して、イギリスに対抗するべきであるという意見もあり、結論はなかなか出ず、そうこうしているうちにエチオピア戦争自体が終わってしまった。
しかも当初からイタリアに制裁を課していたイギリスと異なり、フランスは結局最後まで足並みをそろえられずに制裁自体も中途半端なものに終わってしまいイタリアから不信感をもたれイギリスからも警戒されてしまった。
一方、第二次エチオピア戦争では日本からの義勇軍も派遣されて航空機等が持ち込まれており、特に中島のキ11はイタリア軍の航空機を多数撃墜した事で知られ、戦後に少数ながら輸出にも成功している。
キ11は、当初は張線構造の採用などからアメリカのボーイングP-26、イタリアのブレダBa27の輸出機かライセンス生産機またはコピーだと思われており、イタリア空軍機が撃墜された事に対して非公式にイタリアからアメリカに対して抗議が行われ、アメリカ側は困惑しながらもボーイング社による不正輸出疑惑を調査したという話まである。
しかし、イタリア機が装備するブレダSAFAT12.7mm機関銃により撃墜される機体も少なからずあったため防弾装備の必要性が認識された他、複葉機であったフィアットCR42に対して優位に立つため従来通りの格闘戦から一撃離脱戦法への転換を余儀なくされ、予想以上の戦果を挙げたことから、将来戦闘機を一撃離脱重視の重戦闘機とする事が要求されることになった。
エチオピアの空で得たこれらの戦訓は日本の新鋭機開発に大きな影響を与える事になる。
続いて1936年7月から勃発したスペイン内戦においてイギリス、ドイツなどが中立を宣言する一方でフランスやイタリアはナショナリスト派を援助し、義勇軍を派遣、シャルル-ドゴールを指揮官とする機甲部隊を中心としたフランス義勇軍は旧態依然とした戦術で立ち向かってくるスペイン共和国軍、ソヴィエト義勇軍そして世界各国から集まった国際旅団を撃破しマドリードを瞬く間に占領下に置いた。以降戦局はナショナリスト派の圧倒的優位で進むことになり、共和派を援助していたソヴィエトでは責任問題が浮上しブジョンヌイ派が失脚、トハチェフスキー派が復権した。
一方で、共にナショナリスト派を援助しているはずのフランスとイタリアの間では不和が広がっていた。
というのもホセ-サンヨルジュ、エミリオ・モラといったフランスが次の指導者と目していた人物が次々と事故死を遂げており、これをフランコもしくは彼を援助していたイタリアによる陰謀と見做したフランスがイタリアに対して一方的な敵意を募らせ、当時イタリアの半植民地となりながらも独自路線を模索してイタリアと対立していたアルバニア王国に対して援助を行ったことにより、両国間の関係は悪化、かつて唱えられたラテン同盟構想はこのアルバニア問題により完全に実現不可能なものとなった。
フランスがイタリアと対立を深めているころ、ドイツでは1933年に大統領に就任した国家人民党のアルフレート-フーゲンベルクの下で本格的な再軍備を開始していた。
当初は共産党をはじめとする左派勢力による妨害から思うようにすすまなかったものの、翌年のフランスでの右派連立政権の成立に対する警戒により反対は徐々に減っていき、スペイン内戦後のモスクワからのドイツ再軍備への協力指令により、共産党からの反対もなくなったためようやく本格的な再軍備に着手していたのだった。
一方、ドイツ再軍備の動きを見たフランスはアルバニアから手を引く事によりイタリアと妥協し、同じくドイツに対して警戒を強めるポーランド、チェコスロヴァキアとの連携を強めた。
これに対しイギリスはドイツ側に立って参戦する用意があるとしたが、実際には何の準備も出来ていなかった。
こうした状況を知ったフランス、ポーランド、チェコスロヴァキアは1939年9月1日に対独宣戦布告を行い短期決戦を望んだが、これに対し9月3日にイギリスが3国に対して宣戦布告を行ったため2度目の世界大戦が幕を開ける事になる。
取りあえずは何とか大戦勃発まで行けて一安心です。