第一話 ある対戦車兵の戦死と始まり
よくWW1後に連合国がドイツに対して厳しくしなければWW2は避けられた、という話がありますが本当にそうだったのでしょうか?
1940年春 ドイツ国 キール
キール市街はすでにフランスとポーランドによる連日の空爆によって灰燼と帰していた。
そんな中で1門のPak36 3.7cm砲を装備した対戦車陣地があった。
キールからイギリス海軍とドイツ海軍の支援の下でイギリスへと脱出しようとする友軍将兵のために少しでも時間を稼ごうとしていたのだった。
バイエルン州ツヴァイブリュッケに生まれ開戦後、若干18歳で志願してこれまでポーランド軍の戦車を多数撃破してきた砲手は自慢の3.7㎝砲を見つめていた。
その時、戦車の履帯の音が響いてきた。じっと待つ、そして現れたのはシャールB1だった。
3.7㎝砲では貫く事はできない、フランスの誇る重戦車の出現に陣地内に緊張が走った。
「大丈夫、擬装は完璧なはずだ」
誰かが言い聞かせるようにつぶやいた。その通りだと思った。だが現実はそう甘くはなかったシャールB1の75mm砲から榴弾が放たれた。
次があれば『虎』のように強い戦車に乗りたい、砲手オットー-カリウスはそう思いながら死んだ。
『もしフランスの提案通りに第一次世界大戦後にドイツに厳しい制裁を加えていれば第二次世界大戦はなかっただろう』
これは第二次世界大戦を振り返ったある歴史家が残した言葉である。この言葉に関しては、その通りだと賛同する意見もあれば、歴史はそれほど単純ではないという意見もある。
1919年2月19日、フランス共和国首相ジョルジュ・クレマンソーが暗殺されたことで歴史は大きく動き出した。
犯人はフランス人のアナーキスト過激派だったが、一時は共産主義者、ユダヤ人、ベルギー人、イタリア人などを犯人とするデマが飛び交いパリを中心に暴動がおこった。
フランス政府内では取りあえず外務大臣のステファン-ピションを首相代理に任命し講和会議を続行したが、
大統領のレイモン-ポアンカレやフェルディナン-フォッシュ元帥と言った強硬派の影響が強まったことから、ドイツの分割を含むようになったフランスの提案は速やかな講和を望むイギリスとアメリカにことごとく拒否され、逆に賠償額の減額と35万人まで陸軍の保有をスイス式の民兵制度への転換を条件にドイツに認める結果となった。
このことにより戦後ドイツ軍は同様に民兵を軸にした軍事思想を持っていた初代陸軍統帥部長ヴァルター-ラインハルトの指導の下で再建が図られる事になったが、左翼将軍と見なされていたラインハルトへの右派勢力からの批判は強く、構想中だったソ連との協力すら流れてしまった。
こうしてドイツはヨーロッパにおける勢力均衡のためにドイツに対して比較的同情的だったイギリスへの接近を強める事になる。
一方、フランスでは首相候補であったアレクサンドル-ミルランがユダヤ人であるという風聞が流れ混乱の末にクレマンソー内閣で海軍大臣を務めた経験を持つジョルジュ-レイグが首相に就任し、積極的な海軍拡張策を打ち出し、イギリス、アメリカとの関係を悪化させていた。この海軍拡張のため当時構想されていた国境要塞建設は廃案となっている。
結局、新型艦の建造に関しては遅々として進まなかったが、この時行われたドックの建設などの設備投資は後に大きく役立つことになる。
ジョルジュ-レイグに続いて首相となったアリスティード-ブリアンはレイグとは逆に融和政策をとり、アメリカ主導のワシントン会議では自国に不利な海軍比率を認め、更にイギリスの提案によりイギリスの威海衛の返還に連動して広州租借地を返還した。これらにはフランス国内からの反発も大きく反国際協調と国家主義を標榜する右派政党から批判された。
一方で共和主義に基づく親近感から孫文率いる中華民国広東政府を支援しており、後のフランス、チェコスロヴァキア、ポーランド、中華民国という枢軸同盟はここから生まれたとも言える。
前書きでも書きましたがww1後にドイツに対して厳しくしなければよかったという話があります。
しかし、そうするとおそらくWW1最大の被害者である(あくまで個人的見解です)フランスは納得しないでしょう。
もちろんフランスのWW2での負けっぷりからしてフランスなんてほおっておいてドイツを何とかしてWW2を阻止すべきだったという意見もあるでしょう。
ですが、もしフランスが明確な復讐心を持ってドイツに挑みかかっていたらどうでしょうか
果たして世界は私たちが思うように幸福になっていたのでしょうか