百六十七話 君の。
────僕は顔を上げる。
「い、いやちょっと待って!」
「わわ!?」
世界が黒に落ちたことで頭が唐突に冴えたのかもしれない。僕はほんの数センチも無く近くにいた小鳥遊さんを押しのけ少し後ずさりした。
今、何が起きてた? 多分僕の後ろにスイッチがあって、それを見つけた小鳥遊さんが僕の上からそれをつけようとして、僕が同時に立ち上がり……
「……意気地なし」
そう言った彼女はジト目で僕のことを見つめてくる。
「え、あ、いや……」
「……もうちょっとだったのになあ」
「も、もうちょっとって……」
悔しそうにしながら勢い良く立ち上がった。動きに伴ってスカートはふわりと浮き上がり、座り込む僕との高低差から僕は当然彼女を見上げることになる。
「ん、なに? 胸は触ってパンツも見ようとするのに、キスはしてくれないんだ?」
「や、そういうんじゃなくて」
すごく悪い言い方すればそうなるんだろうけども! もうちょっとなんか表現の仕方あったでしょ!
「ふ~ん、そういうのじゃないならどういうのなのかな。もしかして、カラダの関係ってやつ?」
「違う違うぜんぜんそんなつもりでもないから」
すねているのか怒っているのか、さっきとは打って変わって目をちっとも合わせてくれなくなった小鳥遊さんは何も告げずに踵を返して棚の方へと歩き出した。
そういえば、勢いであんなことになっただけで僕らは本来なにか物を取りに来たはずだ。それを思い出し、僕もまた急いで立ち上がり続く。
「あ、あの、小鳥遊さん」
「なぁに?」
なんだか雰囲気がぴり突き出したように感じられて呼びかけてみるも、返事だけでいつものように笑顔で振り向くようなことはない。
「なんか、怒ってる……?」
「…………そりゃ一世一代の告白を押し返されて終わりなんてなったら怒るよ、どんな子だって」
う、確かに……
僕が口をつぐむと小鳥遊さんが体の向きを変え、僕の方へ二歩踏み出してきた。僕らは再び目と目があったら離せなくなるような距離になる。
「もしくは」
彼女は逃すまいと僕の首に両手を回した。
「やり直してくれるの? 今度こそ、私とキスしてちゃんと『はい』ってお返事くれる? 私のものに、なってくれる?」
責め立てるような、まくし立てる様な言葉。柔らかく微笑みかけながら、目だけはまっすぐと僕を捉えている。
「ねえ、答えてよ。良夜君」
心臓を跳ねさせる呼び方は、まだ変わっていなかった。
十数秒に及ぶ沈黙。ゆっくりと小鳥遊さんの顔から笑みが消え、張り付く表情には何もなくなり、首から手が這い、落ちる。最後には目線すら落ち、合わなくなる。
「……なんてね、仕方ないよね」
僕にもかろうじて聞こえるほどの声量で、小鳥遊さんはそうこぼした。
「いまのりょーくんは、どっちかっていうと白撫さんのことが好きみたいだし」
「……え?」
「自分の気持ちに気づかないなんてことないもんね。私だって気づけてるのに」
「い、いや、それは……」
予想だにしなかった言葉が僕の心拍を速める。その声音は諦めか悲哀か。
確かにここ最近は前よりも白撫さんと一緒にいる時間は長くて、二人でいると心安らぐ感覚はあった。しかし自分の中で答えを出そうと急いているわけでもなくなっていて、僕自身が誰をどう思っているのかなんてことに焦点を当てて考えることも少なかったようにも思う。
そんな僕だけど、小鳥遊さんの言葉は少し腑に落ちる感覚があった。
「その反応、図星だ」
二つの、小さくて白い拳が強く握られるのが視界の端で見えた。
「私だってりょーくんが白撫さんのこと好きなのに負けないくらい、りょーくんのこと、好きなんだけどなぁ」
再び顔を上げ、まっすぐ僕に言う彼女の頬に涙が伝う。笑っているのではなく、どこか決心しているような表情は、その感情を余すことなく僕の心にねじ込んでくる。ひたすらに気持ちが伝わってくる。
「りょーくんは最後どっちと付き合ってるのかな、なんて寝る前にいつも思うの」
左手で右腕を握り、少し震えた声で言う。
「私だったらいいな、白撫さんに、限らず、ほかの女の子だったら、いや、だなって。胸があったかく……なったり、張り裂けそうになったり、するの。もし、相手が男の子だったりしたら、どうしようも、ないけど……どんなことが、あっても、りょー、くんの相手は……私で、あってほしいし、私の、相手は、りょーくん、以外…………認めない。それ……くらい、好きで、好きで、しょうがないの。こ、んな、キモチ、わかるかなぁ」
言葉を重ねるたび滔々と溢れて止まらなくなる涙をこらえたいのか、両の瞳は僕に向きつつも顔はどんどん上を向き、瞼も落ちていく。
今の彼女は、いや、この部屋に入ってから、小鳥遊さんの感情は縛りから解き放たれたように暴れている。いつものように笑顔一辺倒ではない。色気があった。怒りがあった。すねているようにも見えたし、決意もくみ取れた。最後には悲しみか、泣き出してしまった。
こう考えるのはおこがましいかもしれないけど、多分それらの感情は全て僕のことを好いているが故に巻き起こったのだ。今僕は、人を想うことの本気を魅せられた。
「…………小鳥遊さん」
無意識に、その名前を口にする。返事はなく、代わりに少し荒い呼吸音だけが返ってくる。
二度目の沈黙が訪れ、彼女は俯いた。濡れていない両手のひらで涙をぬぐい、手の甲で目尻を撫でる。
「…………ごめんね、ごめん。こんなの、わかるわけないよね」
止まらぬ涙を押さえつけながら、小鳥遊さんは言う。
「困っちゃうよね。ごめん、ごめんね」
僕は声をかけられない。彼女の気持ちに応えられないから。僕は声をかけられない。こういう時の正しい言葉を持っていないから。だから僕は、彼女に何も言えない。
……違うな、これも逃げだ。かけられないんじゃなくて、かけないだけ。ここで彼女が泣き止むまで黙って待っていれば、いつか終わりが来る。それを待てば、何も言わずに必要なモノだけ持って教室に帰れる。僕はその道に逃げることが許されているんだ。小鳥遊さんの優しさをもって。
「すん……」
小鳥遊さんはスカートのポケットからティッシュを取り出し、鼻をかみ涙を拭いた。
「……ッごめん! りょーくん、もうだいじょぶだから! ほら私、泣き止んだから! にへへ!」
きっと強がりだろう、未だ彼女の目尻には涙が浮かんでいる。今感情をほんの少しでも揺り動かしてしまえば、再び彼女は大粒の涙を流す。それでも小鳥遊さんは人差し指で頬をぐっと押し上げ、笑顔を作って見せた。
「さ、トレンチもってこ! みんな待ってるから!」
無理に張り付けた笑顔で彼女は棚に向かい、探し物を始めた。すぐに見つかったらしく、小鳥遊さんは目の前の箱を棚から引き出す。それを僕はただその場に立ち、微動だにせず見つめる。
「あ、あったあった! ん、しょ……一箱だけみたいだし、私だけでよかったかな! 私これ持っていくから、りょーくんは先帰ってて!」
小さめの段ボール箱を持つ小鳥遊さんはこちらを向いてそう言った。
きっと彼女を想うのであれば、ここは彼女だけを置いて離れるのが正解だろう。一箱しかないなんて確認したときにわかっていただろうし、そもそも手に持っている段ボール箱にはまったく違う文字が書いてあり、目的のトレンチではないことは容易にわかる。つまり、全部ウソだ。僕に気持ちをもう一度伝えたくて、ここまで連れてきた。運ぶのなんてその口実で、本当は練習にすら使わないのかもしれない。仮に僕が先に教室に帰れば、小鳥遊さんはここに残って一人涙をこぼすのだろう。その、証拠に。
「かえって、よぉ……!」
こらえきれなくなった涙が、またあふれ出してきている。
「おね、がいだから、かえ、って、よ……! み、ない、で…………!」
いつもだったら『一緒に持って』だなんて言うんだろう小さな箱に、涙が滴る。耐えきれなくなったのか、小鳥遊さんは箱を床においてしゃがみこんだ。
『いっしょに運ぶよ』と、僕は言わない。今その言葉を伝えることの無責任さは、さっき知った。
『どうして泣いてるの』なんてのも聞かない。いつもと違う彼女であることは、さっき知った。
僕が伝えられるのは、ただ一つ。
「小鳥遊さん」
「やめて!!!」
廊下まで、痛々しい慟哭が劈くように空間を駆け回る。逆らうように、一歩踏み出す。
「小鳥遊さん」
「いや! 聞きたくないの! 先に帰って!」
彼女は耳をふさぎ、頭を横に振った。
「小鳥遊さん」
「この気持ちを終わらせたくない! 好きな人にとどめを刺されるなんて、そんなのいやなの!」
いつもの、僕を振り回すだけのわがままとは違う。
「おね、がい、やめて、よぉ……!」
心からの懇願。でも僕は、それを聞かない。
「小鳥遊さん」
呼びかけに反応はなく、嗚咽だけが波打つ。
「僕は」
まだ、決まってはいない。決められてはいない。
「僕は────」
「────いや」
いつからか分からない。初めて『ご褒美』をもらったときか、それとももっと前か。いつ、どんなふうになんてのは分かりはしないけど、それだけは変わりようのない事実。たった今、自覚させられた。
「小鳥遊さんの言う通り、白撫さんのことが好きだ」
「いやっっ!!!!!!!!」
気持ちを伝えるのはどれだけ怖くてつらいだろう。それを僕は知っている。
「前に気持ちは伝えてもらった。両思いだ。きっと打ち明ければ付き合える、側にいられる」
「ききたくないッ!」
伝わらない痛みも、知っているから。
「でも、君の気持ちも痛いほど伝わった」
「あなたが手に入らないなら意味がないの!」
受け止め、返さなくちゃいけない。
「僕は、小鳥遊さんのことも好きだ」
「だからやめ…………ぇ?」
馬鹿にしたくなるような答え。
僕は一歩、踏み出す。
「君の知る僕を僕は知らない」
決めなくちゃ。
「君の知る君を、僕は知らない」
決めなくちゃ。
「それでも、僕を想う君を、僕は知ってる」
決めなくちゃ、いけない。
「……僕はまだ、答えを出しちゃいない」
もう一歩、踏み出す。すぐそこに、くしゃくしゃの泣き顔がある。
「ちゃんと、伝えるから」
小鳥遊さんは、自分の気持ちを伝えきった。白撫さんも、まっすぐ僕に伝えてくれた。だったら僕も、誠実に答えなくちゃいけない。
「もうすぐ、文化祭だし」
だから僕は、彼女と同じ目線で話す。
「誰かにとっては耳をふさぎたくなるような答えだろうけど」
僕は、過去にとらわれない。
「そこで、伝えるから」
「────────わかった、待ってる」
僕は、退路を断つんだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。




