人形道
毎日会社勤めをしている私は、家にいることを限りなく幸せと感じる人間で、夕方の5時に仕事が終わるチャイムが鳴ると、なんとかして早く家に帰ろうと近道をする。
ここ最近利用しているのが「人形道」と私が呼ぶ裏道である。不思議なことにここを通ると往路よりも時間が短縮されるのだ。
両側には見事なまでの壁がそびえて立ち並び、そのせいで異様な圧迫を感じる。しかしここを通れば確実に家に帰るための時間が圧縮されているようなので、さけることはできない。今の私にぴったりの道なのである。
さて、そんな石造りの壁が立ち並ぶ途中で、ぽっかりと空間があいていることに気づいた。どうやら店のようだった。小さな木造りの吊るし看板には「水青蔵」と書かれてある。
ただの店なら「ふうん、こんなのができたんだ」と思うだけだった。しかし玄関の扉近くにマネキン人形が立っていれば、気を向けない人間はいない。
百貨大楼にあるようなマネキン人形とはまたちがうような気がする。強いて云えば限りなくヒトに近い、しかし完全なヒトとはちがう、そんな感じなのである。人形道と呼ぶ由来はこれである。
見た目は少年だった。年齢で云えば15・6歳。麻地で紺色の格子柄が入った着流しを慣れた様子で着こなし、気取った笑みを浮かべている。その袖から伸びる肌がやけに白く光って見えた。
そんな少年マネキン人形が、正体不明な店の前に立っているのである。そして奇妙なことに、毎日毎日、この道のこのマネキン人形の前を通るたびに、人形の立ち位置や手の位置などが変わっているのである。
今日は残業もなく気分もよかったので、この道を利用して初めて、店を覗こうと考えた。どうせ老人の道楽か何かだろうと踏んでいた私は、しかし店の前に来たときにいつも見る少年人形の姿がないことに不安を覚えた。
「あ、」
がらがら、と水青蔵の引き戸を開けた私は、そこに見知った少年を見て思わず声をあげた。見紛うことなく、いつも店の前に立っている黒いマネキン人形である。眼を疑った。
「いらっしゃいませ」
君は……、と言葉を継ごうとした私より先に、我を取り戻したらしい少年がそう云った。やはりここは店だったのか。改めて「君はあのマネキンか」と、あとから考えれば間抜けな質問をした私に、彼はにこりと笑って、
「そうです」
と答えてくれた。
「いつもこの道を通りますよね」
マネキン人形――いやこの場合はもう少年でいいかもしれない――は私を座るように促し、そう云った。お茶も出してくれた。私は一応客として来たのだが、彼がそうするのだからいいのだろう。
「早く家に帰りたいから、」
「じゃあ最適ですね、この道は」
何に最適なのかは語らなかった。少年はやさしい笑みを浮かべたままだ。しかし気になることは訊かねばなるまい。私はなぜマネキン人形がこのように動いたり喋ったりできるのか訊いた。
「簡単です。ぼくが動いたり喋ったりできるマネキン人形だからです」
答えられたのかどうかすらわからなかった。
「なぜ、動いたり喋ったりできるの」
「わかりません。あなた方はなぜ動いたり喋ったりできるのですか?」
「そりゃあ生き物だし……コミュニケイションを取ったり、生きるために必要だから……じゃないかな」
「それだったら、ぼくも他の誰かとコミュニケイションを取ったりできるんです。生き物かどうかはわかりませんけどね。例えば、あなたとこうやってしている対話」
言葉にできない感覚だった。あえて言葉にするなら、普段なら会話すら成立しない異国の人間と話しているような感覚。うれしいような、まだ信じていないような、そんな夢心地である。
「でもね、実はびっくりしました。まさかお店の中に入ってくるとは思っていなかったから、油断してたんです。本当は店の前に立ってなきゃいけないんですけどね」
「どうして?」
「ぼくは、水青蔵の主人の亡くなった孫と、棄てられていたマネキン人形との2役を演じているんです」
水青蔵の主人とは今年85歳になる老婦人で、この少年の姿に数年前に亡くなった孫を重ねているのだと云う。一方で呆けだした頃から蒐集癖を持つようになり、そのおかげで少年は水青蔵の店の前に立つようになったらしい。
「ぼくが店の前に立っていて主人の視界から消えると、主人はのことを忘れてしまうんです。でも見つけるとぼくを孫のようにかわいがってくれるんです。でも店の前にぼくがいないと驚いて大声を出すんです。大変でしょう?」
でも動いたり喋ったりできるおかげで老主人とも会話ができるし、自由に動けるから楽しいですよ、と少年はうれしそうに笑った。私はちんぷんかんぷんだ。
ぼおん、ぼおん、と壁掛けの振り子時計が鳴った。そろそろ家に帰ろうか、と心のどこかの「まだいたい」という気持ちを抑えて立ち上がった。
「お茶、ありがとう」
「いいえ、お愛想なし」
少年は玄関まで送ってくれた。
「そう云えば、この店は何を売ってるの?」
「なんでも売ってます。ほとんど拾いものだから商品価値はありませんけど、主人の宝物ばかりです」
そう云って、少年は手を振って見送った。途中でふりかえると、彼はすでにマネキン人形としての務めを果たしていた。
翌日、私は今日も家に早く帰ろうと人形道を通った。少年はいつものようにマネキン人形だった。しかしやや照れたような表情を浮かべるあたり、まだまだだな、と思う私であった。
―――了