白梅、黄昏の露に光りて
春告げる佐保姫の一行が今年も京の都へ至る。常人には見えぬ一行。殊に現代の常人には。
ふわりとした紫と若草、桃色の襲を纏った佐保姫は、牛車から降りて人里の白梅に触れる。時は黄昏。黄昏の露が白梅を仄白く浮かび上がらせている。佐保姫の嫋やかな指が撫ぜると、白梅はふるり、と震える。震えると黄昏の雫がちらちらと煌めいて、目も綾である。白梅の古木持つ家は、佐保姫の知己の家だった。春を告げる務めの為に都にいる間、その間だけの逢瀬をこの家の主と持つ。
佐保姫と家主が出逢ったのは、まだ家主がほんの少年の時。
白梅に戯れる佐保姫の姿を、その少年はまんまと見抜いてのけた。美麗で高貴な佐保姫に、初め、少年は憧れを抱いた。彼の初恋だったであろう。少年は佐保姫に無理を言って、また来年の逢瀬を約束させた。
佐保姫は少年の無垢で一途な想いを微笑ましく思い、それを承知した。
明くる年も。
そのまた明くる年も。
約束は揺蕩うように続いた。何かを寿ぐ宴のように続いた。
少年はやがて成長して青年になる。
もう思慮も分別も備えた年頃だ。佐保姫と住む世界が違うことも、悟っていた。
それでも毎年の逢瀬をと、彼は望んだ。
佐保姫は微笑して、いつもそれを聞き容れた。
恋慕は片方通行のものではなくなっていた。
佐保姫は彼を白若と呼んだ。
姫自らが人に仮初めとは言え、名を与えるなど稀なること。春の一行の随身や侍女たちは危ぶんだ。白梅に戯れるように、これが戯れの恋ならば良し、もし姫が熱情を持てば務めに支障が出るやもしれぬ、と。
そして白若は成人すると同時に、嵯峨野の別荘に居を移す両親から家を任されることとなった。僅かな時の逢瀬ではなく、佐保姫が逗留することが可能となったのだ。もうその頃には佐保姫の目に、白若は熱を孕み映っていた。丁度、黄昏時の白梅のように。この恋は禁忌やもしれぬ。佐保姫の懊悩を見越したように、白若が佐保姫の一番外の、桃色の襲に触れた。肌が触れた訳でもないのに、佐保姫はその場に脱力して座り込んでしまった。
月の美しい夜だった。
随身たちは最早これまでと観念して、家の外にて待った。無論、常人には姿は見えない。
襲の一枚一枚が、花びらのひとひらのように丁重な手つきで恭しく、はがされていった。
唇を求めたのは、ほぼ同時だった。
指と指が絡み合って、するりするりと動きながらも決して離れようとしない。いや、白若の指は時折、佐保姫の肌を滑った。精緻な文様をなぞらえるようなその動きに、佐保姫はあえかな息を吐いた。春を告げる姫は息さえ花の香りがした。
上から見ると翅を広げた蝶を、白若が食しているようだった。
事実として食していたのだろう。
重なり合った身体と身体はそのように見えた。
未来永劫、離しません。
白若は佐保姫を抱きながら告げた。
佐保姫は堪える顔でこれを聴いた。
春が来ると恋が来る。
佐保姫の恋路は毎年、続いた。
今年でもう何年になるか、と佐保姫は白梅に触れていた手を胸に当て、恋知り染めし乙女のように俯いた。しかし毎年であればすぐに、佐保姫が先触れを遣ると、迎えに出る筈の白若が出てこない。佐保姫は一人、家の内に入り込んだ。鍵は掛かっていたが、神霊である佐保姫には造作もないことだ。
いつも二人で過ごす座敷に、白若が床を敷いて寝ていた。枕元には薬袋と水差し。その時が来たのだと、佐保姫にはすぐに察しがついた。いつか来ることと怯えていた。人と神霊の時の流れは異なる。それでもまだ、白若は青年の域を出ない年齢だった。早い死期の訪れに、何という運の悪さかと、佐保姫は嘆いた。
嘆く佐保姫の頬の涙を、白若の手が拭う。
泣かないでください。
されど其方は逝ってしまう。逝ってしまうではないか。
姫。泣かないで。
逝ってしまうではないか……。
それ以上を言わせじと、白若は佐保姫の言葉を封じた。彼の命の最後。その露の一雫は佐保姫を愛する為だけに滴り落ちた。不治の病の身のどこに、そんな焔が潜んでいたのかと思う程に、嘗てない激しさで白若は佐保姫を求めた。月は最初の晩と同じように天頂高く出て、二人を照らしている。佐保姫が喘ぐと、白若はその息すら吸った。声も唇もどこもかしこも、佐保姫を喰らい尽くさんばかりに白若は猛り狂った。今の二人の間に人と神霊の隔てはどこにもない。佐保姫は燃える心地で白若の愛情を受け容れた。
やがて月が隠れ、外がうっすら白んでくる頃。
夜の激しい動きが嘘のように、動かなくなった白若の頭を抱く佐保姫がいた。もう彼女の涙を拭う手はない。
佐保姫は、白若の亡骸が腐らないように呪を掛けた。
そして春の務めを終えると、吉野に向かった。
吉野は古来より蘇りの聖地とされ、佐保姫はその神霊である丹生都姫とは永の付き合いだった。
のう、白若。
いつか言うたように、未来永劫、わたくしを離さないでおくれ。
佐保姫はまるで生きているかのように、白若の亡骸に語り掛ける。
泣きながら語り掛ける。
その涙を拭う手が、あった。
翌年より佐保姫の一行には随身が一人、増えた。人の身から人ならざる者へと蘇ったその者は白若と呼ばれ、常に佐保姫の傍に侍ると言う。
写真提供:空乃千尋さん