リランシス・ノイピール男爵令嬢の苦悩
初投稿です。よろしくお願いします(._.)
ドレスで着飾ることが嫌いだ――とは言い切れない。
己を何倍にも美しく見せてくれる魔法。19を過ぎたばかりの乙女の心はいやでも踊る……
だからって!
好きでもない舞踏会に毎夜のごとく駆り出され、母に言われるがまま数多の男性の手を取る日々。
淡く輝く黄金色の髪を高く結い上げたリランシスは、大広間を見渡しながら出そうになった溜息を飲み込んだ。
「あら、まあ。……いいことリランシス。幾ら熱い視線を向けられようと、絆されてはだめよ」
扇子で口許を隠しながら、リランシスの母――ノイピール男爵夫人――は鋭く言い放つ。
社交界デビューから約二年の月日が流れた。嫌でも慣れる。そんな単純なことを未だに注意されるのかと憂鬱は募るばかり……
広間に入ってからずっと感じているねっとりした視線。美丈夫と名高いローディコ子爵に不躾とも言える視線を向けられ、リランシスは呆れてしまった。
(あんな男がなんでモテるのかしら)
ローディコ子爵とダンスを踊ったのは記憶に新しい。やたらと体を密着させては顔を覗き混み、微笑んできた男。劣情を隠そうともしない瞳に見つめられた時には寒気がした。
母は伯爵位以上の方と結婚させたいようだから、彼とダンスを踊る機会があるかどうかわからない。例えあったとしても、だいぶ先になるだろう。その間に勝手に彼と踊ってしまわぬよう釘を刺されたわけだが、リランシスからしたらいらぬ心配もいいところだった。
「わかっているわ。お母様の言われた方としか踊らないから」
険のある言い方にピクリと眉を動かしただけに留めたノイピール夫人は、色褪せぬ美貌で「では、行きますよ」と微笑んで見せた。
* * *
右に左に。ゆらりふわり。
「あなたは会うたびに美しくなられる。こんなにも麗しいなあなたを神が放って置くわけがない。……天へ攫ってしまわれないか、いつも不安なのですよ」
「まあ……でも、その時は伯爵様が助けに来て下さるのでしょう?」
「もちろん。私にその権利を頂けますか?」
七色のドレスが大広間を、色めく男女を華やかに彩り、演奏家が奏でるワルツがそんな彼らに力を貸した。
「権利がなくては駆けつけて下さらないのですね」
その中の一組。
陶器のように滑らかな首元に後毛を一筋垂らしたリランシスは寂しそうにこぼし、向かいあった男性を見上げた。
「ま、まさか。何があろうと、必ずあなたを守ってみせる。誓ってもいい」
僅かに口調を荒げた様子から、必死さが伝わってくる。ほっと息を吐き出し笑顔を作れば、伯爵の顔に赤みがさした。
男の無垢な反応に少しだけ良心が痛む。けれどリランシスももう限界なのである。
(あともう少し……)
母に気付かれないように広間を抜け出すなら、今しかない。母がひとりの男性と話し込む姿を、幾つもの人の影から確認していた。
(きっと、今目の前にいる伯爵様のお父様だわ)
会話に集中させ、気づかないように扉の近くへ誘導する。母達はリランシスが戻ってくるまで話し続けるだろう。これは待ってもないチャンスだった。
「それにしてもリランシス嬢は肌が雪のように白いですね。この、星がごとく煌めくあなたの髪がよく映える……」
その言葉に曖昧に微笑んで見せたところで音が止んだ。
名残惜しそうに手を離した伯爵に、お辞儀をする。リランシスはできるだけ恥じらって見えるよう顔を伏せると、小さな声で呟いた。
「素敵なひとときでしたわ」
「それはこちらの台詞ですよ、リランシス嬢。さあ、あちらに戻りましょう」
手で母達がいる方を示した伯爵にそっと首を振る。
「私……熱に当てられてしまったのかしら。なんだが身体が火照っている気がしますの。少し部屋で休んでいこうかと思いますわ」
「……ならば私がお供致します。部屋までお送りしましょう」
伯爵の声音が変わったのがわかり、体温が下がった。これだから男は信用ならないのだ。
しかしそんな思いはおくびにも出さず、そっと男の顔を見上げた。
「ありがとうございます。でも、申し訳ないわ。多くのご令嬢があなたと踊りたそうにこちらを見ておられますよ」
「そんなこと、あなたが気になさる必要はない。私はリランシス嬢、あなたといたいのですよ」
「いいえ、いいえ。私にも彼女たちの気持ちがわかりますもの。伯爵様を独り占めにはできないわ」
「リランシス嬢……」
「でも、伯爵様のお心、とても嬉しかったわ。……また機会があれば踊って下さる?」
「何度でも」
もう一度礼を告げると、リランシスはその場を去った。背中に感じる視線に気づかぬふりをして。
大広間を出ると足早に歩を進める。万一母が追いかけてきても見つからないような場所、と考えひたすらに歩く。
(少し、やり過ぎたかしら)
きっと彼は悪い人ではない、と思う。故意に男を誑かしたのだと思うと心が重くなった。
(でも社交界なんてそんなものなのよ。きっと……)
されど願わくば今年の社交界でもう彼と会いませんように。そう願った。
息がいよいよ苦しくなって足を止めた。ここが何処なのかわからなかったけれど、人通りが全くないわけでもない。現にメイドがひとり、廊下を歩いていく。
気が済んだら戻り方を尋ねればいい。通路の角まで来ると少しでも楽になるよう壁に身体を預け、リランシスは心で呟いた。
(それにしてもお母様ったら、きつく締めすぎよ)
まだ社交界デビューを果たして間もない頃。
お腹が空いたからとはしたなく料理に手をつけてはだめよ。リランシスの性格をよく知る彼女の母は口を酸っぱくして言い聞かせた。
はい、お母様。と頷いてみせた彼女だけれど、朝から碌にものを口にせず踊り続けるのは苦痛だった。少しくらい。ちょっとくらいいでしょう?
母の目を盗んだ少女は、綺麗に盛り付けされた料理に目を奪われた。
どれもとても美味しそうな香りを放っていた。その全てを堪能してみたいと思ってしまうのも無理はない。
リランシスは小さなお皿に一つずつ取り分け、全部とは言わずも多くの料理をお皿に収めた。一皿分くらいなら許されるわよね、と。
しかし淑女への道はそんなに甘くなく、幸い口をつける前にノイピール夫人に見つかったこともあり彼女の失態が世間に知られることはなかったけれど、こっぴどく叱られたことは言うまでもない。
それからと言うもの夜会の際、母は食欲など消えてしまえとばかりにリランシスのコルセットをきつく縛るようになった。肌が白いと褒められることが多いのは、締め付けが強いせいで貧血ぎみになるからでもある。
(今日は特に苦しいわ……)
苦しいからとコルセットを緩めてくれるような母ではないのはわかっていた。ならば自分でどうにかしなくてはいけない。舞踏会から逃げ出したことでまた怒られるだろうが、どうにも我慢できなかったのだ。
「あ……」
急に目眩に襲われ、壁に両手をついたままずりずりと崩れ落ちる。
(これは、困ったわね)
苦しげに息を吐き出して、リランシスは胸を押さえた。
このままでは本当に倒れてしまう。
気を失うよりはぐちぐちと小言をもらう方がまし。とにかくコルセット緩めよう。
思うが早く、立ち上がろうと床に手をつく。しかし力が入らずなかなかうまくいかない。
「もう、仕方がないわ」
右の脇の下にある留め具を外すと、コルセットを締めた上半身を露わにした。母に見られたら悲鳴どころでは済まないだろう。リランシスとて恥ずかしいし、他人の城のどこともわからぬ廊下の端で下着姿になるとは思ってもいなかった。
(でもそんなことも言ってられないわ! 素早く緩めればいいのよ)
右手で背中を探る。しかし固く結ばれた紐はなかなか解けない。両手で試してみてもそれは同じだった。
何度も何度も試す。
そのうち肩がピキピキ音を立て、腕にも痺れが走った。自分だけでは紐が解けないなどと思ってもみなかった。
「んっ……は、もう……」
ダメ。と言いかけたその時。
廊下に足音が響いた。その音はどんどん大きくなり、誰かが自分に近づいてきているのだと気付く。
リランシスは最後の力を振り絞り、叫んだ。
「あのっ、そこのお方……!」