階下の密談
”拘束”中の祈祷師とその護衛が、声を落として話し合っていた頃。
フェリスたちの部屋の真下の執務室……ほぼクリスの私室となっているその部屋でも、ふたりだけの密議が凝らされていた。
「兄上からだ。」
クリスはそう言って、一枚の書面を机の前に立つシルヴィに向けて置いた。
そこには、人名らしき文字の羅列がある。
「祈祷師殿がガリエル邸に入ってから、”呪術師”が現れるまでの間の、来客名簿だ。」
「多いな。」
「ちょうど義姉上の出産があったからな。祝いの品を届けた貴族の名がほとんどだ。それを持ってきた使いの者の名まで、全て調べてもらった。」
その紙に書かれた名前を、ひとつひとつなぞりながら確認しているシルヴィに、クリスは声をかけた。
「その中に、フェリシアを知っている人物がいるはずだ。」
フェリシア……クリスもシルヴィも、当時は皆、彼女をそう呼んでいた。
シルヴィは、リストに見知った名前がないことを悔しげに思ったのか眉根をきつく寄せた。
「……どの名前にも心当たりがないな。君も知っての通り、俺はその頃ノルトハーフェン……こっちの王都にいたんだ。」
クリスはその言葉に、目で頷いた。
「ああ。そして俺はあっちの王都に……エトワールにいた。だが、帰国前にしばらくの間、ブラン城にいたことがある。」
クリスは執務用の椅子から立ち上がり、シルヴィの隣に立った。そして、机の上の紙に書かれた、ひとつの名に人差し指を置いた。
「知った名前がある。」
クリスのその言葉に、シルヴィは目を見開いた。そして続きの言葉を待つかのように押し黙っている。
クリスは、指を置いたところにある名前を読み上げた。
「グスタフ=ヘメロン…… 王都で、絹糸の交易に関する利権に絡んだいざこざを起こした男爵家に、出入りしている人間だ。ブラン城では当時、グスターヴォ=エメロンと呼ばれていたが。」
「グスターヴォ……イールズ風の読みだな。」
「ああ。ランチェスタとイールズの、国境近くの町から来たと言っていた。司祭を志してブラン城……ピエル=プリエール家に身を寄せていた学生の内の一人だった。」
「あの人は、貧しい故に機会を得ることのできない、才ある人を見放すことができなかった……そういう若者を集めて、城の中に住まわせていたんだ。」
シルヴィは、当時を懐かしむように目を細めたが、すぐにまた元の厳しい顔つきに戻った。
「ということは、このグスタフという男が呪術師なのか。」
「いや、そうとは言い切れないさ。」
クリスは再び書面を手元に戻し、しばらく眺めた後、暖炉の火にくべた。紙は一度大きな炎を起こしたが、すぐに灰となり跡形もなくなった。グロースフェルト辺境伯とガリエル伯爵……兄弟の間で交わされる密書は、こうしてすぐに燃やされる。
その炎を薄紫の瞳に映し、目の中に光を揺らしながらクリスは言った。
「呪術師の姿は、誰もはっきりとは見ていない。義姉上の父君が襲われたのは、夜の闇の中でのことだ。」
兄の義父であるガリエル閣下が呪術師の襲撃を受けたのは、半月ほど前のことだ。ちょうどふたり目の孫が生まれた日の夜、知らせを受けて隠居していた郊外の館から本邸へ向かう途中のことだった。一命は取り留めたが、呪術師のいうところの”呪詛”が使われ、今も原因不明の病で臥せっている。デーネルラントの民を、娘やその嬰児を同じ目に遭わせたくなければ、ガリエル邸にいる祈祷師を引き渡すように……そう言い残し、その呪術師は闇の中に消えたという。
「では、ガリエル閣下も呪術師の顔までは分からないということか。」
「そういうことだ。でも、もしフェリシアを見分けることができる人間がいるとすれば、当時、ブラン城にいた人間だ。グスターヴォ=エメロンが関わっているのは間違いないだろう。」
「エメロン……イールズの近く……まさか古代エメロニアと関わりのある人間か。」
「……”呪われしエメロニア”か。」
そう言葉にしたクリスは、その目でしっかりと”同士”の目を捉えた。
「10年前の事件を思い出すな、シルヴィ。俺たちが”人質”になるきっかけの事件だ。」
「ああ。」
シルヴィは淡緑色の瞳を陰らせた。
お互いに、人質として過ごした時の思いには、それ以上触れることはせず、話題を移した。
「ところで、”そっち”の準備は整ったのか。」
静かに尋ねるクリスに、シルヴィは曖昧な笑み……彼独特の、柔らかな表情を向けた。
「いつでも大丈夫だ。」
クリスも釣られて笑みを見せるも、その内心は表には出さなかった。一時、場所は違えど同じ境遇となり、その後8年もの間、”秘密”を共有しながらこの城で暮らしてきた”同士”……クリスよりは6つも年上だが、それはもう友のような存在だった。
「グスターヴォ=エメロンのことは、こちらに任せておけ。お前は予定通り、冬に入る前に仲間と共に山を越えろ。」
「……フェリスを……フェリシアを、連れていってもいいんだな。」
「……ああ。」
クリスは、城壁に手を掛けて一心に目の前の景色を見つめていた、女祈祷師の横顔を思い出す……。
「"祈祷師"殿には、呪術師の正体を掴むまで”拘束”させてもらおうと思っていたんだがな。思ったより早く見通しがついた。早く安全なところへ逃してやりたい。」
その言葉に、シルヴィは表情を少し曇らせた。
「いまのランチェスタが安全かどうか、俺には何とも言えないが……フルスの町で仲間が待機している。みんな驚くだろうけど……あの子については、そこでもう一度どうやって守っていくか話し合うよ。」
それにしても、と彼はさらに言葉を続けた。
「何度か部屋を訪ねたけど、やっぱり俺のことが分からないみたいなんだ。」
シルヴィは首を傾げた。クリスは、考えていた一つの可能性を言ってみる。
「……記憶を失ってるんじゃないのか。」
濃紺色の頭巾が風に煽られて目が合ったあの時……なんとか隠しおおせたものの、クリスの驚きは尋常なものではなかったが……自分に向けられた瑠璃色の瞳には、すぐに慕わしい色が表れ、一瞬、再会を喜んでいるのかと思わせるものだった。しかし、続けて聞こえたのは、ガリエル伯爵の血筋の者かと目を輝かせて尋ねる、戸惑いのない鈴を振ったような明るい声。彼女は、自分のことを"クリス"とは認識していなかった。
「……あんなに遊んでやったのに。」
クリスは、早口で低く独り言ちた。
「何か言ったか。」
「いや……覚えてないとはどういうことだろうなと思ってさ。」
いぶかしむシルヴィに、クリスはその薄い唇の両端を上げて、悪戯っぽい笑みを見せた。
「それはそうと、あの"祈祷師"殿は、ずいぶんと城に馴染んでいるらしいな。」
「のんきなものだよ……。」
半ば、呆れ気味にそう吐きだしたシルヴィに、クリスは吹き出した。
「笑い事じゃない。」
なかなか笑いの止まらないクリスを咎めるように、シルヴィは低い声で言った。しかしその目は、怒っているそれとは違い、自身も面白がっているようにも見える。
くつくつと腹から湧き上がるような笑いをなんとか抑え、クリスは言った。
「一応、”拘束”されているはずなんだがなぁ。」
兵士たちだけでなく、城内の人間が次々と拘束対象の部屋を訪れ、健康相談をしているらしい。見張りの者は、見知らぬ人間を部屋に入れているわけではないので、クリスは特に禁ずることもなくそのままにしておいたのだ。
すると、外に出で歩き回るわけでもないのに、祈祷師はわずか5日で城内のほとんどの人間と知り合いになってしまっていた。
「気がつけば、俺一人だけ彼女と話しができていないようだ。」
不本意そうに、クリスは言う。
「俺も『よく眠れる』という香油が欲しい。」
侍従頭が、すっきりとした顔で嬉しそうに話していたのは、つい昨日のことだ。
「”拘束”だぞ。君はもっと、厳しくすべきだったんじゃないか。」
シルヴィは半眼で暖炉の前に立つ上官に苦言を呈した。
「あの子の命だけじゃない、国の大事に関わることだぞ。香油がどうのこうのと、言ってる場合じゃない。」
「……そうだな。」
しばらく無言で目を合わせていた二人だが、こらえきれず吹き出したのは同時のことだった。
「あの子がどうやって生き延びたかは分からないが……あれなら、どこでも生きていけるな。」
シルヴィはそう言って、目尻に浮かぶものを指で拭った。
「……生きててくれて、本当に良かった。」
クリスは、そう小さな声でつぶやく”同士”のそばに寄り、その肩に手を置いた。
「俺たちの大仕事は、これから始まるんだ。守るものが増えて少し変更はしたが、シナリオの本筋は変わらない。」
ゆっくりと、そして確かな声色で言葉を続けた。
「俺は、兄上と共にデーネルラントを呪術師から守る。お前は母国に戻って、まずはピエル=プリエール家を立て直す。」
シルヴィは顔を上げ、隣に立つ”同士”に力強く頷いた。
「ああ。そのために長い年月をかけて準備をしたんだ。これ以上、お互いの領民がむやみに犠牲となるような争いを起こさせるわけにはいかない。」
クリスは、シルヴィの言葉にしっかりと頷いた後、その目を天井へ……上階へ向けた。
「では、我らが祈祷師殿には、今夜はゆっくり休んでもらおう。いよいよ明日の夜だ。」
彼らの計画は、明日の夜、決行される……。