聖堂にて
白亜の城に、雪が降りつもる。
山の裾野の、森の奥深くに聳え立つその城は、夏は”濃緑のベルベットドレスに輝く真珠”に例えられる。その神秘的な美しさは、ランチェスタの数多の詩や楽曲、歌劇のモチーフとされてきた。しかしそんな清艶な城も、長い冬の間は降り積もる雪に紛れてしまい、遠くからだとまるで消えてなくなってしまったかのように目に映るのだ。
「お父さま!わたくし、とっても”いいこと”をおもいついたの!」
うさぎの毛で作られた真っ白なイヤーマフをつけた少女が、金糸の髪をなびかせながら中庭を突っ切っている。急いで走ったためか、普段は雪のように白いその頬は、外套の色と同じく真っ赤になっている。ふわふわと雪の舞い降散る中、そこだけが陽の光に当たって輝いているようだ。
「フェリシア、また学校に行っていたんだね……ばあやが探し回っていたよ。」
緩やかに波打つ銀髪に淡緑色の瞳をしたその男は、少女の父親のようだ。彼は、腕の中に飛び込んできた少女を、そのまま抱え上げた。
「いけないよ、フェリシア。みんな将来のために、一生懸命、学んでいるんだ。おまえがそんなにしょっちゅう邪魔をしていては、私は学生達に申し訳が立たないよ。」
たしなめるように言い聞かせるも、その瞳は優しいままだ。その少女が勉強の合間に遊んでもらっていることや、その時間が学生達にとって一時の楽しみでもあることは承知している。
「あら、お父さま。わたくし、”おべんきょう”のじゃまをしたことは一度もないのよ?クリスだって、もう今日は”おべんきょう”しなくてもいいんだって、いってたもの。」
少女の後ろから、黒紫色の髪とすみれ色の瞳を持った少年がゆっくりとついてきていた。
「アラン様、ごめんなさい。フェリシアを連れてくるの、遅くなってしまいました。」
今日は授業の後、みんなで雪合戦をして遊んだこと。それが済んでから、クリスと二人で大きなスノーマンを4つも作ったこと……少女は父親の腕の中で、嬉しそうに話をした。
「クリス、すまないね。いつも体力勝負な遊びばかりを要求する娘で……。」
父親は少女を片手に抱いたまま、もう片方の空いた手で少年の頭を撫でた。
「そうだ、お父さまにおはなししなくちゃって思ってたの!とっても”いいこと”よ!……わたくし、クリスと”けっこん”するの!」
父親は、緑柱石を思わせるその瞳を大きく見開いた。
「けっこん……?フェリシア、なんでまた……」
黒紫色の髪の少年は、顔を真っ赤にして俯いている。
「だってお父さま、わたくしがクリスと”けっこん”したら、山のむこうのお国と”かぞく”になるでしょう?」
そうしたら、ふたつの国は仲良くなって、”お兄さま”もすぐに帰ってこれる……少女は興奮気味にその瑠璃色の目を輝かせ、父親にそう話した。
「ははは、フェリシア!ほんとに”いいかんがえ”だね!」
父親は相好を崩して、娘をさらに高く持ち上げた。
「でも、どうかな……国外へ嫁ぐなんて。王都の教会にいる、おまえの”叔父さま”が許してくださるかどうか……それに何より、おまえのような”やんちゃ娘”を、クリスはお嫁さんにしてくれるかな?」
少女の父親は言葉の最後で、訊ねるように悪戯っぽい目を少年へ向けた。
「おれは……フェリシアでもいい。」
「これ、クリス。フェリシア”でも”って……言い方!」
照れて顔をさらに真っ赤にしながら答えた少年を、父親は半眼でたしなめた。
二人のやりとりに構わず、少女は父親にむしゃぶりついた。
「ね!お父さま!これで”いっけんらくちゃく”でしょ?」
山の向こうのすぐ隣の国とはいえ、長い歴史を通して常に敵対関係にあるデーネルラントへ嫁がせるのは、やはり気の進まない父親だった。
「でも”山のむこうのお国”には、おまえにとって怖い人もたくさんいるんだぞ、フェリシア。ここにいる時みたいに、いつもクリスがついてきてくれるわけじゃないし……もしも危ない目にあったらどうするんだい?」
父親の心配そうな眼差しと言葉に、つかの間、きょとんとした少女だったが、すぐに満面の笑顔で父親を安心させるように言った。
「だいじょうぶよ、お父さま!みんな言ってるわ……わたくしの”ひじてつ”と”わきがため”と”ずつき”は、むてきなんですって!」
「……クリス。フェリシアの”騎士ごっこ”、明日から禁止だからね」
日に日に強くなる娘の握力については、最近の父の懸念事項だった。どうやら、このまま放っておくと、自分の娘はそのうち”戦士”になってしまうかもしれない。
困ったように眉根を下げる少年と、小さな鼻孔を膨らませて目いっぱい得意げな表情を見せる娘に、曖昧な笑みを向けていた父親だが、ふと思い出したように眉を上げた。
「そうだ二人とも、今から暖炉の前でお茶にしよう。”お母さま”がきっと待ちくたびれているよ、フェリシア。」
父親は娘と少年に優しい笑みを向けた。三人は、そのまま笑顔でその日のできごとを語り合いながら……真っ白な雪の中庭を後にして、真っ白な城の中へと入っていった。
冬のとある1日。
白亜の城に、雪が降りつもっていく……。
***
「……リス……フェリス!!」
……ああ、クリスが呼んでいるわ。
もう”おべんきょう”は終わったのかしら。
「フェリシア!」
……あら、”おにいさま”まで。よかった、帰っていらっしゃったのね……
「おい!フェリス!!ちくしょう……おまえら、フェリスに何かあったら承知しねえぞ!!!」
……ローレル先生?
そうだわ……わたくし、ローレル先生と一緒にグロースフェルトのお城に戻ってきたのだわ……
フェリスの、白く靄がかっていたような意識が、徐々にはっきりとしてきた。
……お城に戻ってきたら、火事になってて……知らないおじさんに呼ばれて……
はっと顔を上げると、クリスやシルヴィ、ローレル、その後ろでたくさんの兵士たちがこちらを見ている。
そして、”知らないおじさん”に後ろから肩を羽交い締めにされている。
フェリスの体は、考えるよりもはるか先に動いた。
腰を落として右肘を後ろへ引き、”知らないおじさん”の鳩尾へと食い込ませた。直後、肩に回されていた”おじさん”の腕を左手でわっしと掴み、固定した状態で金糸の後頭部をその顔面へと打ち付け、よろけたところをお尻でドーン………。
気がつけば”知らないおじさん”……白い外套の男は、フェリスの足元に仰向けで倒れていた。
「秒殺だな……」
「瞬殺だったな………」
「強ぇな、あの祈祷師……」
一瞬の出来事に、みな言葉を失っていたが、そのうち兵士たちの間でぼそぼそとした囁やきが交わされる。
「やだ、わたくしったら……」
フェリスは真っ赤になった頬を隠すように、両手で顔を挟んだ。
刹那、耳元で金属の弾ける音がした。
左側にはシルヴィ、右側ではクリスが、フェリスを囲うように背を向けて立ち、襲いかかる兵士の剣を受けていた。
「フェリシア、無事でよかった!」
シルヴィは口元だけ笑ってみせ、すぐに厳しい眼差しでローレルを援護しに走った。そのローレルは、どこで拾ったのか鉄の棒を嬉しそうに振り回しながら呪術師と思しき黒い外套の男に迫っていた。
クリスは背中でフェリスをかばいながら、聖堂の入り口近くへと呪術師から遠ざけた。目が合うと、薄い唇の両端をあげて笑っている。
「よくやった、フェリス。見事だったよ」
”騎士ごっこ”で仕込んだ体術をしっかり体で覚えていたとは、さすが俺の”瑠璃姫”だ……そう言って切れ長の目を細めた。
フェリスは、何を言われているのかよく分からないが、とにかくクリスが喜んでいるようだということは感じられた。
しかしその表情が緩んだのは一刻で、すぐに目に鋭い光を目に宿し、シルヴィやローレルたちの方へと顔を向けた。
「おまえはここにいろ。」
短くそう言い置くと、クリスはフェリスに数名の兵士をつけ、自身は呪術師の方へと戻っていった。
**
呪術師たちを護るように戦っていた4人の兵士は、すでにシルヴィやフルスからの兵、そしてグロースフェルト城の兵たちによって取り押さえられつつある。逃げ場のない閉所にくわえ、こちらの方が圧倒的に人数が多いのだ。盾のようにされていたフェリスが解放されれば、彼らを追い詰めるのは簡単だった。
ローレルは、虹彩を赤く滲ませている青年の腕を掴み上げた。
「おまえか、うちの子をしょっちゅう襲ったのは!」
「人聞きが悪いですね。僕らは”お迎え”にきたんですよ」
そう答えるグスターヴォの表情は変わらない。むしろ笑みを浮かべて落ち着き払っている。ローレルは不審に思った。呪術師は、”第三の神事”を封じることのできる祈祷師を怖れるものだ。
「呪術師の妖の力は”赤い瞳”だけではありません、祈祷師殿。フェリシア様には、ランチェスタへお戻りいただきます。『連れていけ』……」
グスターヴォの言葉で、ローレルは『しまった』とフェリスを振り返った。
「フェリス!!そいつらから離れろ!!」
聖堂の入り口では、背で守るようにしてフェリスの前後に立っていた兵士たちが、ゆるりと体の向きを変えた。そのままゆっくりと手を伸ばす……その目に光はなく、まるで糸で操られた人形のようだ。
「呪詛だわ!あの方……呪術師なのね!」
「フェリス!六芒星の布を出せ!!解呪だ!!」
ローレルの言葉に弾かれるようにして、フェリスは外套の下に肩掛けにしていた沼色のずだ袋に手を突っ込んだ。
「解呪、いきます!!覚悟せいや!」
そういってフェリスは、袋から”仕事道具”を掴み出した……
***
マルクグラーフ村では、城から避難してきた者たちと村人たちが入り混じり、皆、息を詰めて少し離れた城を見つめていた。
「あ、見てリリー!」
一緒に村まで戻ってきたラドルは、城のあちこちで上がってた炎や煙が徐々に落ち着いてきていることに気づいた。ラドルと同じように感じたリリーは、ホッとしたように眉尻を下げた。
「よかった……さっきよりずっと収まってるじゃない。」
本当にフェリスたちは、お城の騒ぎを何とかしてくれたんだわ……何だか大変なことになってきたと心配でたまらなかったリリーは、ようやく体のこわばりが解けていくのを感じた。
とはいえ、まだフェリスが知らせにきてくれるまでは心から安心できない。
ぐぅ。
突然、耳に入った間抜けな音の主は、ラドルだった。少年は、顔を真っ赤にしてお腹を辺りを押さえている。
「やだ、ラドル。お腹空いてるの?!」
祈祷師見習いの少年は、顔を隠すように頭巾を深くかぶった。
「ちょっとホッとしたら、鳴っちゃったの。」
「ラドル、可愛い!!後で料理番に、ラドルの大好きな”お肉たっぷりシチュー”を作ってもらいましょうね!!」
リリーは、照れている少年の頭を頭巾ごとぎゅーぎゅー抱きしめた。あまりに可愛くて、”お城の危機”を一瞬忘れそうになるメイドだった。
ラドルは、うんざり顏でされるがままだったが、ふと思い出したように外套の下に提げていたずだ袋に手を入れた。
「そうだ、リリーのお母さんが焼いてくれたお菓子……」
ずっと馬で走っていたので、水以外ほとんど口にしていなかったのだ。ちょっとつまんじゃおう、そう思ってがさごそと袋を漁ったのだが……
「あ。」
嫌な予感がして、手に触った”もの”を袋から引き出した。
それは、大きな白い布だった。
そこに描かれた”浄化の六芒星”は、数日前に自分とフェリスが暖炉の木炭片で描いたものだ……。
***
「覚悟せいや!!」
そういってフェリスが手にしたのは分厚い書物……ラドルの愛読書、『賢者の冒険物語』だった。
「あら?どうしてこんなものが……」
フェリスは慌てて本をずだ袋の中に戻し、”例の布”を探すために中身を確認した。他に入っていたのは、山のみんなに作ったスミレの刺繍入りハンカチと、小さな包み……リリーの母親お手製の焼き菓子と……大小のさじと…………お財布と……5万フォリンの入った、薄い皮の袋が二つと……。
「どうしましょう!六芒星の布がありませんわ!!!」
「よっし、じゃあ取り敢えず逃げろ!!」
危急の場面でもローレルは慣れたもので、さっと頭を切り替えた。フェリスの”うっかり”は、今に始まったことではない。呪術師の封印は後回しだ……愛弟子の元に駆け寄ろうと、背を向けたその時、両手を握り合わせたグスターヴォの拳がローレルの背中めがけて振り下ろされた。
「……っツ!!」
わずかによろけたところへ、グスターヴォは体当たりして赤い外套の大男を跪かせた。そして足元に落ちていた長剣を拾い上げ、冷たい灰色の石の床に片手と膝をつくローレルの背中へと振り上げる……フェリスは、悲鳴を上げた。
「ローレル先生!!」
しかしその切っ先が深くローレルの肩を裂く前に、彼らの間に滑り込んだ者がいた。
ハナだった。
彼女は両手の短剣で器用に相手の剣を受け流し、膝をつくローレルからグスターヴォを引き剥がした。圧倒的な素早さで相手を追い詰め、体勢が揺らいだところで後ろに回り、後頭部に手刀をめり込ませた。
気絶して足元に倒れたグスターヴォを見下ろし、静かに呟いた。
「間に合って良かったです。」
「間に合ってねぇぞハナ。」
突然現れたハナに驚くこともなく、よろよろと立ち上がりながらローレルは突っ込んだ。
「ハナ!よかった、間に合ったわね!!」
「……俺が打たれたことは、どうでもいいんだなおまえら。」
ローレルは拗ねたような眼差しで、再会を喜ぶフェリスとハナを見遣った。呪術師は意外と怪力だったのか、じくじくと背中が痛む。
「背中を打たれたくらいで済んで良かったのです、ローレル様。だいたい、あなたが付いていながらこの体たらくは何ですか。」
グロースフェルトに戻ってきたら、城は火事の後のように煤だらけだし、気配を辿ってやっと見つけたフェリスは危うく悪漢に捉われそうになっているし、そもそも何故ローレルがここにいるのが意味不明だし、だいたいこの気味の悪い聖堂で皆、何をやってるのだ……普段は言葉数の少ないハナにしては珍しく矢継ぎ早にローレルを問い詰めた。
「説明は後よハナ!さっきあたながやっつけたのは、呪術師なの。先生に早く力を封印していただかないと……」
ハナの倒した呪術師は昏倒中だ。まずローレルはすぐ近くに倒れている白い外套の男に目隠しをしようと近づいた。男の外套の一部を細く帯状になるようにナイフで裂き、頭を覆い被していた頭巾を外した。
波打つ銀髪……そして、露わになったその顔は、ローレルのよく知る人のものだった。
「……アラン?!」