祈祷師、また拘束される
月のない夜空には、星が降るように瞬いている。
フェリスが馬に乗るのは、離れた集落を訪れたり、ホーエンベルク山の中腹にある神殿まで急ぎのお遣いに行く時くらいだ。いくら山暮らしで夜目が利くとはいえ、星明かりだけでこれ以上速く駆けていくことなど危なくてとてもできない……じりじりとしたはやる気持ちを抑えつつ、慎重に手綱を握り、前を走るローレルやシルヴィたちを追いかけた。
煙を上げている城が間近に迫った頃、二重城壁の外側に人だかりができているのが見えた。
「フェリス……フェリスじゃないの?!」
手綱を引き速度を落としたところへ、その人垣の中から一人の少女が駆け出してきた。リリーだ。
「フェリス!あんた、無事だったのね!」
「リリー!」
フェリスは馬を降り、彼女に駆け寄った。お互いの無事を確認するかのように抱き合うと、リリーのお仕着せから、燻されたような臭いがした。
「あぁ、リリー、無事で良かった……!!それで、いまお城は……クリス様はどうなっているの?」
「それが、私らにも分かんないのよ。」
数人の兵士が城勤めの人を呼び集め、特に事情も説明しないまま大急ぎで自分たちを城の外へと避難させたのだとリリーは話した。逃げる途中、城の中のどこかで火の手が上がった、煙の立ち込める中、皆で何とか城の外に脱出したとのこと。
よく見るとリリーの後ろの人だかりは、フェリスもよく知るメイドたちや侍従、厨房や城内の働き手たちだった。みな、不安そうな表情を浮かべている。
シルヴィや兵士たちと城門を近くまで様子を確かめに行っていたローレルが、馬首を返して戻ってきた。
「城門は閉められている!壁を乗り越えるぞ!」
「壁を越えるの?!だったら東側の林の方から行くといいわ!壁が一番低いところだし、そこから入れば厨房から城内に入れるもの。私ら、そこから出てきたのよ!」
その言葉に反応したリリーが、即座に提案した。
ローレルはメイドの言葉に『わかった』と大きく頷き、シルヴィたちに伝えに行った。
フェリスは、リリーの手を自身の両手で包み込んだ。
「リリー、ここは危ないわ。ラドルと一緒にみんなを連れて、近くの村に逃げて。お城のことは、わたくしたちに任せてちょうだい。」
「あんたも行くの?!だめよ、危ないじゃない!」
「わたくしだけじゃないの。わたくしの師匠やシルヴィ、フルスからもたくさん兵士が来てくれているのよ。大丈夫よ。お城の中が落ち着いたら、村まで知らせに行きます。そしたら、みんなでお片づけしましょう。」
そう言ってフェリスは励ますような笑顔をリリーに向け、師匠の後を追うようにその場を走り去った。
「お片づけって、そんなのんきな……あんなに火が出てるのに……。」
リリーは眉根を下げ、その後ろ姿を見送った。しかし、その背中が兵士たちと共に林の中に消えていくのを見届けた後、ぐっと顎を引いて何かを決意するように口元を引き締めた。そばで一緒にフェリスたちを見送っていたラドルと目を合わせて頷き合うと、城勤めの仲間の元へと駆け戻り、言われた通りに近くの村へと避難しようと声をかけてまわった。
**
ローレルやシルヴィ、フルスからついてきた兵士たちは、リリーの提案通り東側の城壁を越えた。そのまますぐ近くの厨房の出入り口から城に入り、東翼の棟を通り抜け、正面の大玄関にたどり着いた。
「シルヴィ様!!」
城門へと続く大扉の向こうから、数名の兵士が駆け寄ってきた。
「ああ、フルスから援軍を……ありがとうございます!!」
黒衣のうえに煤で顔を黒くしているため、闇に紛れてわかりづらいが、グロースフェルト城の兵士たちのようだ。
「外から見たら、城のあちこちに火の手が上がっていたようだが……ここはそうでもないな。」
東翼は、すでに消火の後のように湿った煤の匂いがしていた。ローレルは不思議に思って城の兵士に訊ねた。
「はい、すべてクリス様の指示なんです。」
火と煙は、襲ってきた者たちによるものではない。クリスの指示に従ってグロースフェルトの兵士たちが、燃え広がらないように工夫された場所に自ら火を放ったのだという。その煙と炎は、戦うにはこちらが有利な場所へと侵入者を誘導するためのものだ。”火事騒ぎ”に敵を巻き込み、こちらの作戦通りに動いたことを確認したので、自分たちはいま城内の消火活動をしているところだ、と兵士たちは説明した。
城内は燻されるが、呪詛で皆の命を奪われるよりはいい。”最後の一手”として考えておいた策だったという。
ローレルはヒュウと口笛を吹いた。
「やるなあ。さすがルッツの弟だ。」
しかし、最後の一手を使ったということは……。
「呪詛を使われてしまったんだな……呪術師は今、どこだ?」
「大聖堂です。敵を追って、戦える兵士たちがクリス様と共にそちらに向かっています。」
「呪詛をかけられた者たちはどうしてる?」
「西翼の奥に大広間があります。そこに運び込みました。」
わかった、といってローレルはフェリスにその解呪を任せようと……したが、その場にいない。
「フェリス?!おい、フェリスはどうした?!」
ローレルに尋ねられ、フェリスがその場にいないことにシルヴィも気づき、青ざめた。
ついさっきまで、傍にいたはずなのに……。
**
ローレルたちとともに大玄関に走りついたフェリスは、突然、頭の中に声が響くのを聞いた。
『フェリシア……』
大玄関の奥の方から聞こえたが、そこに何があるのか、フェリスは見当もつかなかった。6日間、ずっと同じところにいたのだ。自分たちが閉じ込められていた部屋と、その近くにあった図書室以外、どこに何があるのかよく分かっていない。
『フェリシア……こっちへおいで……』
ローレルからは『知らないおじさんに声をかけられても付いて行くな』とよくよく言い聞かされているが、顔を見てみないことには、その声の主が”知らないおじさん”かどうかもわからない。
「近くに先生もシルヴィもいるし、大丈夫よね。」
フェリスは声のする方へと歩いていった。
大階段の両側は中庭へ出るテラスとなっていて、そのまま庭の向こう側の建物へと続く回廊状になっている。
子供の背丈ほどの茂みは、バラだろうか。月のない夜のためよく分からないが、方形の中庭にはシンメトリーに配置された花壇のようなものがあり、その真ん中にあるのは、小さな四阿のようだ。そこには、声の主とおぼしき男が立っていた。
『そうだフェリシア……もっと近くへおいで……』
フェリスは言われた通り四阿のすぐそばまで……声の主の顔が見えるところまで近づいてみたが、その人はどう見ても”知らないおじさん”だった。
「あなた、どなた?」
声の主はそれに答えることなく、四阿を出てフェリスに近づいてきた。
『私が誰だか、分からないようだね』
「ええ、存じませんわ。ごめんなさい。」
『もっと近くに来て……よくみてごらん』
言われるがまま、近づいて観察してみた。その”知らないおじさん”は、よく見るとシルヴィにそっくりの顔をしている。
「あなた、わたくしの”兄”によく似ているようですわ。でもごめんなさい、やっぱり”あなた”のことは知りません。」
『やはり、記憶を失っているのか……』
シルヴィによく似た”知らないおじさん”は、急に表情を変えて、口元に歪んだ笑みを浮かべた。
すると、たちまち”知らないおじさん”の顔が、まったく別人の顔へと変わってしまった。まるで魔法のようだ……フェリスは驚く間もなく、鼻の奥が痺れるような感覚に襲われた。何か香油のようなものを嗅がされ、その後ほどなくして意識を失った。
***
夕刻過ぎに城に近づいた荷馬車には、また新たな呪術師と、プリエール騎士隊の兵服に身を包んだ傭兵が潜んでいた。彼らと城門あたりで対峙していた時に、石牢のグスターヴォが見張りを襲い数名の兵を引き連れ城内へと入ったとの報告がクリスの耳に入ったのだった。
シルヴィたちを襲った傭兵たちのように、城に侵入したその傭兵たちも呪詛に掛けられていたのだろう。いくら剣で払っても、幾度となく立ち上がってきた。とはいえクリスの配下の者たちは皆、鍛え上げられた屈強な兵士たちだ。少しずつ相手の戦力を削いでいき、ついに呪術師を追い詰めた。
が、そこで赤い瞳が……呪詛が彼らを襲った。
どういう仕掛けか、近づくだけでバタバタと倒れていく。頭を抱え、悶える者までいた。
目の前の呪術師だけでなく、城内にもグスターヴォが……クリスは後方の兵に指示を出し、”最後の一手”を打つべく急ぎ走らせた。
数名の黒衣の手兵を引き連れたグスターヴォは、最も人の多い西翼の執務棟に入ったようだ。しかしすでに、城内の人間はクリスの指示により外に出ていた。そこへ炎と煙が上がり、誘われるようにして中央の大玄関に現れた。クリスたちが城門で追い詰めた呪術師は兵の間をすり抜け、大玄関でグスターヴォに合流した。彼らはその奥の中庭を囲っている回廊へと走り去った。
クリスの”一手”……城の各所に仕掛けられた火と煙は、二人の呪術師を城の奥へと追い立て、大聖堂へと向かわせた形となった。
手こずってはいるが、まだ今のところ、こちらの作戦通りだ。
煙を吸わないように袖を口に押し当てながら、クリスは呪術師たちを追って城館再奥の大聖堂へと入った。
大聖堂は、その奥に巨大な六角垂の尖塔をもつ立派なものだ。かつての城主に聖職者がいたらしく、その時に作られた比較的新しい建物である。とはいえ、その増築かはらすでに数百年経っているのだろうが。
ひどく目がかすむ……
グスターヴォを前にして、クリスの視界は、急に靄がかかったようにかすみ始めた。
城門前で呪術師の瞳から放たれた、赤く滲んだような光が思い出される……今頃になって、あの呪術師の呪詛が体内で蠢き始めたのだろうか。
まだ体は動く。ともかく大聖堂に入ってしまえば煙は届かず、しかも入り口はひとつなので彼らにとっては”行き止まり”となる。また、そこは城の最奥なので外に逃げた城内の人間やマルクグラーフ村の人々から最も距離を引き離すことができるのだ。
グスターヴォを、呪術師を仕留めるなら大聖堂が一番いい。
クリスは一度、瞼の奥が白くなるまでぎゅっと目をつぶり、首を振った。そしてその瞳の色と同じ、アメジストが守り石としてはめ込まれた剣の柄をぐっと握りしめた。
「君、呪詛にかかってたんだね。」
クリスの変化に気づいたグスターヴォは、意外そうに言った。
「”仲間”の瞳にさらされて、無事でいるなんて……君、”山の神の祝福”を受けていたのか。」
「……何のことだ。」
”山の神の祝福”……クリスは心当たりのない言葉を怪訝に思ったが、それよりも自分が呪詛にかけられているということを相手に気取られないように気をつけた。
「お前とその”仲間”とやらの目的は……デーネルラントとランチェスタの不和だな。」
10年前、デーネルラントでは国境を接するグロースフェルト領内のドレア村が襲われ、それをきっかけに両国間に戦の気運が盛り上がった。しかしそれはアランやルッツにより未然に収められた。すると、それに続き2年後にはランチェスタ国内ではブラン城が何者かに攻め落とされた。そしてその後8年間、宰相は呪術師を使い、アランを失った穏健派の勢力を抑えつけている。
そして今、”彼ら”はグロースフェルトの城を襲撃したのだ。
この城が陥ちれば、さすがのデーネルラントの賢王も確実に動くだろう。
饒舌なグスターヴォは、珍しく黙って話を聞いている。
「そしてフェリスは……フェリシアは、唯一のプリエールの血の生き残りだ。お前たちはフェリシアをランチェスタ聖教会との取引に使うつもりだろう。」
ピエル=プリエール家が滅んだのは、ランチェスタ聖教会にとっては大きな痛手である。なぜなら聖教会の大司教は、ピエル=プリエール……ランチェスタ王国エトワール王家を支える3つの石のうちの一つ、”祈る石”を繋ぐ血統から出るのだから。
エトワール王家を支えるピエル=プリエール(祈る石)、ピエル=ガルド(守る石)、ピエル=バートル(戦う石)の三大公爵家のうちの一つを滅ぼしたことにより、宰相はますますその権勢をほしいままにできると考えた。しかし現実は、王家と残りの公爵家だけでなく、聖教会をも巻き込んで、その抵抗をますます強くするものとなっていた。
呪術師を使い徐々にその力を削いできたところへ、デーネルラントの王都に住む男爵から接触があった。
隣国へ付け入る機を逃さず、呪術師グスターヴォが派遣された。
彼はそこで、思いがけずピエル=プリエールの生き残りを見つけたのだった。
ランチェスタでは、聖教会の大司教による承認なくしては、国王と同じ権限を振るうことはできない。どれだけ金を積んだところで、”聖教会の承認”には敵わない。良くも悪くも最終的にはその因習に従わざるを得ないのだ。
フェリスは、間違いなくそのランチェスタ聖教会の希望となるだろう……彼らは、取引に使えると考えた。
「君は勘がいいね……その通り、フェリシア様は、我々が取引の手札として使わせてもらうよ。」
グスターヴォと呪詛で意識を支配された黒衣の兵士たちの間に、聖堂の奥から……暗闇から溶け出すように現れたのは、城門前で呪詛を使った白い外套の呪術師と……
「フェリス!!」
白い外套の呪術師に片手で後ろから肩を抱かれた状態で現れたのは、頭巾のはだけた金糸の頭をぐったりと下げた濃紺色の外套の祈祷師……フェリスだった。