”白い森”の秘密
フェリスは、告げられた言葉を頭の中で繰り返した。
シルヴィが、わたくしの兄……?
兄……
「シルヴィとフェリスが、兄妹?!」
ラドルは驚いて大きな声をあげた。もともと大きな目が、こぼれんばかりに見開かれている。
シルヴィは、フェリスの手に自分のそれを重ねたまま、大きく頷いた。
「そーだそいつは”兄”みたいなもんだ!!」
突然そう大声で言い放ったのは、ローレルだ。
「そして俺は”パパ”だ!な、フェリス!」
そう言いながら、赤い外套の大男はフェリスを抱き上げ、シルヴィから引き離した。
「……なに言ってんの、ローレル。」
「ローレル殿……俺はフェリスと大事な話をしているところです。邪魔しないでいただけますか?」
怪訝な顔で見上げるラドルとシルヴィに背を向けて、ローレルはフェリスの瑠璃色の瞳を覗き込んだ。
「あの男は、おまえの……その……親戚っちゅうか……ああそうだった、俺のいとこの奥さんの姉さんの隣ん家の息子だ!」
「……苦しいよ、ローレル。」
ラドルは師匠の背中に小さく突っ込んだ。
「派手な祈祷師殿、どういう事情で隠すのか分からないが、真実を伝えなくては話が進まない。」
「それはそうなんだが……つか、俺は派手じゃねぇテメーが地味なんだ!何度も言わせんな!」
冷静に事を進めようとするクリスに同調しつつも、ローレルはやはり気が進まないといった面持ちで、腕に抱えたフェリスを見た。
「……おまえにとって、辛い話かも知れない。」
「先生……わたくしの出自にかかわるお話なのですね?」
フェリスは困惑気味に師匠と目を合わせていたが、しばらくして目を伏せ、そして決意したように再び目を見開いた。
「わたくし、知りたいですわ。」
どれだけ願っても、頭の中の空白を埋めることはできなかった。自分が誰なのか、どこからきたのか……ふとした瞬間に切れてしまいそうな糸でいつも繋がれているような、心細い気持ちになることもあった。でも、代わりにローレルやハナ、ラドル、村の人たちが心に空いた穴を埋めてくれたし、いまも祈祷師としての仕事が世界と自分を強く繋げてくれている。
過去のどんな真実を知っても、今のフェリスは”フェリス”でいられる。
**
自分は、8年前にブラン城が滅ぼされた当時、人質として隣国デーネルラントに送られていたアランの長子なのだと、シルヴィ……真名をシルヴァン=ピエル=プリエールというその青年は語り始めた。
10年前のドレア村の事件について、デーネルラント国内において何者かにより『グロースフェルト領内の国境近くの村が、ランチェスタ王国によって襲撃された』とあっという間に伝え広められた。『宣戦布告もなく攻撃をしかける卑怯な隣国に報復を』と一部の貴族たちが騒ぎ立て、やがてその勢力は、『詳細を調査してからランチェスタに説明を求める』という王宮政府の方針に強い態度で反発した。一方のランチェスタ王国でも、エトワール宮廷において『濡れ衣を着せられた』と憤る強硬派貴族の間で、好戦の気運が一気に高まっていた。
そんな両国の不穏な空気を治めるため、国境を接する領主たちの間で人質が交されることとなった。
それが現在のグロースフェルト辺境伯であるクリスと、ピエル=プリエール家嫡子だったシルヴィである。
「俺たちは2年間、互いの国で人質として過ごしたんだ。」
クリスが、補うように言葉を添える。
シルヴィはデーネルラント王都ノルトハーフェンへ、クリスはランチェスタ王都エトワールへ送られた。
しかしランチェスタ国内は、夭逝した王や当時まだ幼なかった王太子に代わり、宰相が権勢をふるい始めていた。一度高まったデーネルラントへの反感はなかなか収まらず、もともと宰相と近しい関係だった取り巻きの貴族たちが強硬派であったこともあり、ピエル=プリエール家を始めとした三代公爵家を含む穏健派の貴族たちへの圧力は、徐々に強くなっていった。
そのようなエトワール宮廷の情勢を危うく感じていたアランは、クリスの身を案じ、彼を王都から自分の領内へと移したのだ。念のためクリスには名と身分を伏せさせ、ブラン城内の騎士学校の学生として潜り込ませた。
アランはその数ヶ月後……人質の交換から2年経った時に、それぞれの身柄の返還を提案する。
「アラン様は、俺のことを守ってくれたのだと思う。」
クリスは誰に聞かせるともなく小さくつぶやいた。
デーネルラント王国と当時の辺境伯はそれを了承し、グロースフェルト領内で最も国境に近いフルスの町で、人質の返還と、不戦のための協定書簡が取り交わされることになった。しかし二人の人質とそれぞれの護衛ための兵、そしてアランの代理で派遣された重臣たちがフルスに到着した直後、ブラン城は襲われた。
襲撃の合間に辛うじて城から出された早馬でそのことを知ったシルヴィたちは、大きな衝撃を受け、皆いきり立ち帰国を急いだ。そんな彼らをフルスに押しとどめ、密かにブラン城のその後を探らせたのが当時のグロースフェルト領主だった。
アランがクリスを守ったように、辺境伯もシルヴィを守るために動いた。
『ピエル=プリエール家嫡子は、帰国の途上で何者かに襲われ亡くなった。』
ブラン城を襲った”首謀者”にそう思わせるための偽装をし、シルヴィや護衛のため入国していたプリエール騎士隊、そして重臣たちをグロースフェルト兵として国境警備隊に紛れ込ませた。その後彼らは、8年かけて再びランチェスタへ……フォレ・ブランシュ(白い森)領やブラン城に戻るための策を巡らせてきたのだった。
「その辺境伯って、ルッツのことだろ?」
ローレルが口を挟んだ。
「ルードヴィヒ=グロースフェルトは結局、今のガリエル伯爵だよな。」
「ローレル、ガリエル伯爵と知り合いだったの?!」
ラドルは驚いて師匠に訊ねた。
「いや俺は、2年前に避暑で来てたあの”ガリエル一家”とは会う機会がなかったからなぁ。おまえらがグロースフェルトの城で”静養”することになったっていう手紙が来るまで、まったく結びつかなかったんだが……」
そう言ってローレルはひとまずフェリスを腕から降ろし、再びベンチに……シルヴィの隣に座らせてから言葉を続けた。
「ルッツとは……そしてアランとも、10年前にドレア村へ派遣された時に知り合ったんだ。」
病に苦しむ村人のために、”国”という枠を越えて共に働いた二人の領主のことは、もちろん忘れるわけがない。そう言って、並んで座るシルヴィとフェリス……8年ぶりに名乗り合った兄妹に優しい眼差しを向けた。
「じゃあガリエル伯爵は、フェリスの本当の名前とか、全部知ってたの?ほんとはどうして僕らをノルトハーフェンに呼び寄せたの?」
次から次へと明かされる真実に、ラドルの頭も混乱気味だった。
「あいつは……というか伯爵夫人だが、何も知らずにフェリスを呼んだんじゃねえかな。」
ローレルは、シルヴィの隣で俯き気味に話を聞いているフェリスの肩にそっと手を置いた。
「おまえの出自については、俺たちもルッツが考えたのと同じような理由で伏せておいた。それに、ハナがどうしても明かしてはいけないと言い張るもんでな。」
そこで一度、言葉を止め、愛弟子に向かって安心させるように微笑みかけた。
「途中でまた眠っちまうかも知れねえが、こいつらに聞かせてやらねえとな……。」
そう言って、低い、穏やかな声色で話し始めた。
「8年前に突然、異国の女……ハナが、でっかい荷を背負ってうちに来たんだ。」
厚みのある大きな布に包まれていたのは、すっかり肌の色が抜け落ち、いまにも息絶えそうな少女だった。
ハナは自分のことを『ランチェスタ王国のフォレ・ブランシュ(白い森)から来た者だ』と話した。ブラン城で侍女をしていたのだが、城が何者かに襲われた。主である城主の妻に言われ、彼女の娘をここに連れてきた。この子に掛けられている”呪詛”とやらを、どうか解いてほしい……息を切らしながら、ハナはそう訴えた。
少女はすっかり弱っていた。解呪の後、何日も眠り続け……ようやく目が覚めた時には、呪詛だけではなく記憶までも抜け落ちてしまっていたのだ。
無事に一命をとりとめたが、ハナは少女とともにファイエルベルクに留まることを選んだ。ランチェスタに戻れば、再び城を襲った者たちに狙われるだろう。ローレルにも、身元については口外するなと強く要望したという。
「まあ、アレは”要望”というか……脅し……か。」
「何かされたの?」
「いや、まーあれだ!大人にはいろいろ事情があって……」
「やましいこと、いっぱいあるもんねローレル。」
ラドルの眇められた目に、大人の師匠は曖昧な笑みを向けて言葉を濁した。
「とにかく!だ。行く宛てがないのなら、うちの仕事を手伝ってもらおうと思ってさ。……ラドルも合わせて、今ではまあ、家族みたいなもんだ。」
そこから先は、フェリス自身に聞くといい……最後にそう言ってローレルは話を終えた。
「そうですか……」
シルヴィは大きな吐息とともに目を伏せ、しばし黙考した。
再び開いた目には、優しい色が浮かんでいた。
「ありがとうございます、ローレル殿。それにラドルも。」
そして隣に座っている”妹”の肩を抱き寄せた。
「生きていて良かった。本当に……。」
フェリスは、されるがまま”兄”の肩にその頭を乗せた。そうしていると、温かい気持ちに満たされる。
ローレルやハナに抱きしめられている時のように、ほっとするわ……。
……やっぱりシルヴィも、家族なのね。
嬉しい……。
……。
**
「……寝てるし。」
ラドルはフェリスの顔を覗き込み、心配そうにつぶやいた。
「やっぱり思い出しながら寝ちゃうのは、どうしようもないのかな。」
「本当に、熟睡だな。」
同じようにクリスも、その安らかな寝顔を覗き込んだ。
「眠れる香油がなくても、思い出そうとするだけで眠れるのか……ラドル、フェリスは一生、不眠に悩むことはないということだ。」
「おまえ、前向きだな。」
ローレルも加わった3人のやり取りにシルヴィは頬を緩めたが、自分の肩に小さな頭を預けて眠る”妹”を見ながら表情を引き締めた。
呪術師が現れたことで、より明白になった……祖国ランチェスタは、今なお政情不安に揺れているのだ。
***
フェリスの今後について……ランチェスタに連れて行くというシルヴィと、ファイエルベルクに連れて帰るというローレルとラドルの間で話がまとまらず、ひとまずは皆、フルスで一晩過ごすことになった。
夕方、生き別れた兄との対面を果たした感動もそこそこに眠ってしまったフェリスは、数時間後に目が覚めた時にはすっかりお腹を空かせていた。皆より遅れて夕食を取るべく、人気のない食堂へやってきた。
「さ、祈祷師のお嬢さん。今夜はジャガイモのポタージュに、ローストした子羊のあばら肉だよ。肉にはジンジャーソースをかけてあるからね。」
部屋の端で、木製の長テーブルの一席に着いたフェリスの目の前に、丁寧に盛り付けられたお皿とスープボウルが料理番によって並べられた。
「どうぞ、召し上がれ。」
フェリスは美味しそうな夕食に目をキラキラさせて、厨房へと戻っていく料理番の背中に感謝の言葉をかけてから、うやうやしくラム肉を手に取った。
「フェリス、もう起きたのか?」
かぷり、とその肉に噛み付いたのと同時に声をかけられ、そのまま声の方を振り向くと、クリスが驚いたような顔をしていた。
「……すまん、食事中に。」
「ひへ……」
フェリスはとりあえずその一口を噛み切って飲み下した。生姜の香りと甘みのあるソースが肉にからんで、とても美味しい。
「おまえ、先に肉から食べるんだな。温かいうちに、先にスープだろ。」
そう言って笑いながら、クリスはフェリスの前に座った。
「クリス様って、おっしゃることがラドルにそっくりですわ!」
ラドルも、割と細かいところを突いてくる。
「どちらから先にいただいても、最後にはお皿は空っぽになるんですもの。同じことでしょう?」
「確かにそうだ」
クリスはそう言ってまた笑った。初めて会った時には思いもしなかったが、クリスは案外よく笑う。フェリスは、この青年の笑った顔が好きだ。クリスの笑顔は、グロースフェルトの城から見える緑の草原を思わせる。
「フェリス、俺は今からグロースフェルトの城に帰る。」
ちょうど城からの景色を思い出していたこともあり、クリスからその言葉を聞いて驚いたフェリスだった。
「今から、ですか?」
「ああ。」
城に捉えている呪術師のことが気になってな……クリスはそう言って眉のあたりをくもらせた。
ローレルによると、呪術師には強い妖の力を持つ者がいるらしい。もし捉えているグスターヴォがそんな力を持っていたら、石牢を抜け出すことは容易だ。抜け出した呪術師は、今後何か仕掛けてくるかも知れない。
フェリスは、手にしていたラム肉をひとまず皿に置いて、身を乗り出すようにしてクリスの顔を覗き込んだ。
「クリス様、呪術師のことは祈祷師にお任せいただかないと……わたくしはまだ未熟ですが、ローレル先生ならきっと力になってくださいます。」
「いや、いいんだ。ローレル殿には、できればおまえと一緒にランチェスタに向かってほしいと思っている。」
せっかくこうして兄妹が生きて出会えたんだから……クリスは淡いすみれ色の目を細めた。
「またここでお別れだ、フェリス。」
そう言ってクリスは椅子から立ち上がり、腰をかがめてフェリス耳元に顔を寄せた。
「俺もおまえが生きていてくれて、また会えて……本当に嬉しかったんだ。」
顔を上げる間際に、そっと薄い唇を白い頬に触れさせた。
「……特にお守りにはならんのだが……その、元気で。」
身を翻しコツコツと長靴の音を立てて食堂を出て行った黒いマントを見送りながら、フェリスはまだ暖かい感触の残る頬に手を当てた。
ラム肉にかかっていたジンジャーソースが付いていた。
「ソースを拭き取ってくださった……のでは、ないわよね」
なぜだろう、急に胸が痛いような熱いような……例の焦燥感とは異質の衝動に、顔まで熱くなってきたフェリスだった。
「と、とにかくお夕食をいただきましょう。」
それから、ローレル先生に相談しなくては。なぜか胸がどきどきすること……そして、グロースフェルトのお城にいる呪術師のことも。