夜明け前
あと半刻も走れば、ホーエンドルフ……。
ハナは、獣道に沿うように横たわる巨大な倒木の影で、小憩を取っていた。あまり長く一所にじっとしていると、狼の群れに嗅ぎ付けられ、襲われることもあるファイエルベルク山林の中だ。見えないものを探る感度は、幼い頃から研ぎ澄まされている。休みながらも、四方の闇へと注意を向けることは、ハナにとってさほど苦でもない。
枝のすきまから、星明かりが落ちている。
雪はまだ降ってきそうもない。早めに動いて良かったと、ハナは改めて思う。また、デーネルラントとの関所からホーエンドルフまで、事前に近道を作っておいて良かったとも思った。
近頃、呪術師の動きが盛んになっているようだったので、念のための備えをしておいたのだ。麓までの獣道をいくつか下調べし、使えそうな道を選んでおいた。そして、邪魔な倒木や危ない岩を退けたり固定したり、急な崖道や細道には手すりになるような縄を垂らしておいたり……まさか本当にこの道を使うことになるとは思わなかったが。
呪術師……賢王の治世で落ち着いているはずの、デーネルラントにまで現れたとは。
ところどころ聞き取れた辺境伯とシルヴィの言葉から察するに、呪術師はいま、フェリスを狙っているのかも知れない。そうハナは考えた。
あの”城”が自分の故郷のそれと同じような作りであれば、もっと近くに身を潜め、密かに話される内容もはっきりと聞き取ることができただろう。しかしグロースフェルト城のように、壁も厚く天井の高い石造りの建物では、思うようにはいかなかった。
グロースフェルト卿は、自分たちを拘束していたのではない。扉の前にいた兵……あれは部屋の中を見張っているというよりも、部屋の外を警戒しているといった方が相応しい動きだった。
それと、あのシルヴィという男は、間違いなくピエル=プリエール家の血族だ。アラン様……かつてのピエル=プリエール家の当主で、アナベル様の夫だった人に……よく似ている。プリエールの人間が身内を売るような真似をするはずがないと考えるならば、シルヴィが呪術師と繋がっているという線はない。ハナはそう感じているし、その判断は正しいと思っている。おそらく、デーネルラント国内に潜入していた呪術師の中に、フェリスの出自を知る者がいたのだろう。往路の旅の途中か、ガリエル邸か……少なくともファイエルベルク国を出てからのことだろう。
ただ、呪術師がフェリスを狙っていることを、狙われている本人に伝えなかったことが正しかったのかどうか、ハナは判断できないでいた。
呪術師に狙われる理由を話すということは、フェリスの過去を明らかにすることにもつながる。
それはできないことだ。いずれにせよ、また途中で意識を失ってしまうだろう。
フェリスが出自を……8年前よりも以前の過去を思い出すことができないのは、解呪の後遺症なのだから。
ハナは、短刀と一緒に腰に括り付けていた小さな水筒を手に取り、湿らせる程度の水を口に含んだ。
降るように光を落とす星々を見ると、命に代えても守りたかった主アナベルを思い出す。こんな自分を庇護し、生きる喜びや希望を再び与えてくれたその人の遺言を、ハナは片時も忘れたことなどない。
それが、彼女の”最後の望み”が、また呪術師によって侵されようとしている。
ハナは目を伏せて自分の呼吸が整っていることを確認した。
再び開かれた目はしっかりと前方を見据えた。ハナは山上を目指し、足音も立てず闇の中へと走り去った。
***
「もうすぐ夜明けか……」
クリスは、白み始めた東の空を目の端に留めながら、居城から離れた場所にある方形の建物へと向かった。その建物も石造りになっており、平時は入り口の前に1人の兵を置くのみだ。
いまそこは、入り口に2人、建物の周りを規則正しい歩調で巡回する5人の、合計7人で警戒態勢にある。中にも2人、再奥の独房の前に立っている。
その独房の中に、グスタフが捉えられている。先ほど、城内に侵入した彼を見張りの兵が捉えたとの報告があったのだ。グロースフェルトの”拘束”は、本来、この建物で行われる。
クリスは、その方形の建物の中に入り、グスタフのいる独房の前に立った。中の男は足かせに繋がれており、薄暗い石の部屋の奥で、自身も影に溶け込むように佇んでいた。その亜麻色の髪は陽の光を受ければ黄金に輝くのだろうが、今はクリスの髪よりも暗く見える。
「グロースフェルト辺境伯って、君のことだったのかクリス。」
拘束されている割には、やけに明るい声色でグスタフ……グスターヴォ=エメロンは尋ねた。
「君のこと、騎士学校時代に見ていたよ。有名人だったよね。」
ブラン城内に併設されていた騎士学校に、突然入ってきた黒髪の少年。年齢の割に大人びており、剣術も体術も年長の学生に劣らず優秀だった。同じくその学校で学んでいたグスターヴォは、剣技よりも学術優先の学生だったが、城主にも教師らにもただ「クリス」と呼ばれていたその少年が何者なのか気になっていたのだという。
しばらくの間、鉄格子越しに彼の問わず語りを聞いていたクリスだったが、その言葉が途切れたところで口を開いた。
「アラン様を……アラン=ピエル=プリエールを殺したのはおまえか。」
何の表情も出さずに尋ねたクリスをじっと見つめたまま、グスターヴォはふふと低く笑い声を立てた。
「”仲間”がね、アラン様に会いたいって言ってきたんだ。僕は引き合わせただけだ。」
「ではその仲間とやらが、アラン様を殺したんだな。」
「アナベル様と……瑠璃姫もね。」
クリスは、そのアメジスト色の瞳に険しい光を滲ませた。そのわずかな顔色の変化に気づいたかは不明だが、”呪術師”は揶揄うように言葉を続けた。
「でも驚いたよ……生きてたなんてね。しかも、祈祷師になってたなんて。そうだ、君の兄さんには一杯食わされたよ。」
ガリエル邸を出た馬車を追うと、中からやたらと強い祈祷師が出てきた。一緒に馬車の中に潜んでいた王宮騎士隊の連中に、襲わせた傭兵もみな捕らえられてしまった。その様子を少し離れた場所で見ていたという。おかげでいま、自分ひとりだけになってしまった、と……
「彼女、女兵士だったんだね。あの祈祷師が偽物だったなんて、すぐには気づかなかったなぁ。だって君、フェリシア様には随分と熱心に体術を教えていただろう?強かったよね、瑠璃姫。”騎士ごっこ”の域を超えてたし。」
「おまえのような不埒な人間が、いつ襲ってくるとも分からんからな。」
呪術師のひとり語りが再び始まる前に、クリスは彼の言葉を遮った。
「なぜここに来た。おまえのその洞察力とわずかな時間でここまで移動できる足があれば、今頃、本物の祈祷師一行に追いついていただろう。」
グスターヴォの伏せ気味の赤い瞳が、鈍く光ったような気がした。しかし口は下に弧を描いたまま、笑みを残している。
「僕は、”火種”なんだ。」
「なに?」
「祈祷師一行には、国境近くに待機してる”仲間”が会いに行くそうだよ。」
クリスはその言葉に目を見開き、踵を返して建物を出て行った。
「今さら追いかけても、もう遅いと思うよ。」
その背を見送りながら、呪術師グスターヴォは静かに呟いた。