二年後
体の真ん中の奥底まで冷えきっていた。心臓も凍りついているのかもしれない。
高架橋の下で壁を背に地べたに座り込んでいた都筑みちるは震える指先で瓶のふたを開け、口内にウォトカを流し込んだ。アルコールは食道で熱気に変わり、ほんの一時だけ体の中心を暖める。それも一時だ。すぐに体を包む冷気が体に染み込み、熱気を呆気なく打ち消す。もう一口飲もうと瓶を仰いだが、熱い液体が流れてくることはなかった。瓶を放る。すぐに寒さが堪えだし、下顎が小刻みに震えだす。
今夜はひどく冷えるぞ。そろそろ動かないと。
立ち上がろうとしたが、中々腰はあがらない。やがて動こうとする気力は失せた。こんなみじめな生活を続けるくらいなら、凍死したほうがいくらかましだ。
国土保安局を辞めて二年、住む場所がなくなってちょうど一年になる。その間にあの日ーーみちるが保安局をやめるきっかけとなった日ーーを忘れた時間は存在しなかった。あのときのことを忘れるために酔うのにいくら酔ってもそれだけが忘れられない。眠っているときは必ず夢にみる。
相勤者の滝田章は、みちるが狙撃に失敗したのを認めると今度はみちる自身が攻撃の対象になることを一瞬で悟り、“目標”の注意を自分に向けるために立ち上がって銃撃した。結果、みちるは助かり、章は死んだ。すぐそばにいた、逃げ遅れたホームレスも死んだ。他の同僚や上司は自分が助かったことを喜ばなければいけないなどと言っていたが、上面だけのことだ。彼らの目は一様に語っていた。大事なときにミスを犯す無能は隊に不要、お前が死ぬべきだったと。
保安局をやめる前に人事の連中は後方業務への転属を薦めてきたが、断った。再就職の支援も。なにをしても失敗する気がした。
傍らに放置されたくしゃくしゃの新聞紙に手を伸ばす。今朝か、もしかすると昨日からずっとそこにあった。だれかが捨てていくのを見たが、気が向かなかったからそのままにしておいただけだ。
一面には大きな文字で“レアズによる被害、増加。群生地域を脱出か?”
新聞社はあと何年この見出しを一面に据えておくつもりだろうか。あの醜い生き物による被害が増えていることはみちるが保安局にいる頃から言われている。群生地域を出る個体が増えているということも。今さら言うことなどではない。
「一人前に朝刊広げてどうなったんだ?」
頭上でざらついた声がした。声の主はすぐにわかった。心底みちるを見下しているし、それを隠そうともしない。
「失せろよ、サカキ」
新聞紙を丸めながら吐き捨てるように言うと、サカキはしゃがんで視線をあわせてきた。髪も髭も伸び放題で、顔は所々黒ずんでいる。唯一好感の持てる大きな目も血走りっている。生暖かい息が鼻先にかかる。笑った拍子に虫歯のせいで欠けた二本の前歯が見える。
みちるが出会ってきた人間の中でもサカキは最悪の部類だ。自身が大学を出てメガバンクに勤務していたという理由だけで他のホームレスを見下している。運転免許を取り消された経験があり、ーー正確には異なるがーー元警官のみちるは取り分け嫌われていた。
「そんな言い方はないだろ。一人で寂しそうだから声を掛けてやったんだ」
この男がやっかいなのは自分が他人から有り難がれる存在であると信じて疑わないせいだ。だから他人を否定する言葉を山ほど出せる。他のホームレスは今さらひどいことを言われようと気に留めないのかもしれないが、みちるは気に入らなかった。
「だまれ」
「おい、いい気になるな......」
サカキはそのあとも続けるつもりであったようだが、それを許さなかった。胸ぐらを両手で掴んでサカキを立ち上がらせ、そのまま位置を入れ替えた。背中を壁に叩きつけてようやくサカキはみちるの怒りに気付いたらしく、大きな目をもっと大きく広げていた。
このままサカキを殴ったらどうなるだろうかという考えがふと浮かんだ。殺すこともできないことではない。それから? きっと本物の警官に逮捕されるだろう。そのあと検察に送られて裁判を受けて、最後には刑務所にぶち込まれる。それも構わないだろう。これ以上悪くはならない人生だ。
右手で拳を握り、振り上げる。サカキがきつく目を閉じた。
唐突に背後から飛んできた鋭い制止の声によって暴力の行使は阻止された。警官だ。
「おいお前、壁に手をつけ」
みちるは警官の指示にに従おうとしたがそれより早く警官は彼をサカキから引き離し、腕を背中で極めた。肘関節に電撃のような痛みが走り、呻く。警官は構わずみちるを壁に叩きつけた。胸を勢いよくぶつけたせいで咳き込む。
「早くこの場から離れろ。早く。逮捕するぞ」
もう一人の警官はグロック自動拳銃をサカキに向けて彼を逃がした。
おかしい。通常の任務に従事する警官ならサカキも一時的に拘束して話を聞こうとするはずだ。双方の話に食い違いがないことを確めるために。
「パトロール中のお巡りじゃないだろ?」
二人はなにも言わずにボディチェックを始めた。
「おれがMP5を隠し持ってるように見えるか?」
「だまれ。都築みちるで間違いないな」
「間違いない。それが?」
「手荒にするな」
背後で新手の声が聞こえたが、それには敵意は感じられなかった。
警官が掴んでいた腕を解放したので振り向く。新たにやって来た男は制服姿ではなく紺のスーツを着ている。リムレスの四角い眼鏡以外は印象に残りづらい、気弱そうな顔をしている。四十路に届くか届かないかのようだが白髪は目立つ。
「私は首都警察警備部第一課長の三木。我々はリクルートに来た」
みちるはリクルートという言葉をおうむ返しした。みちるにはそれが不思議な言葉に思えた。今さらできることなどない。
「本当に首都警か? 人を選び直せ。おれの経歴なら確認したんだろう?」
「もちろんした」三木は一拍置いて言うべきか迷ったような顔をしたが、続けた。「二年前まで国土保安局特殊部隊SGTにいた。最終階級は巡査。間違いないね?」
「もっと大事なことは?」
「君がSGTを追い出され、逃げるように保安局もやめたこと。その後酒浸りになり、こうして路上生活を送っていること」
みちるは無言で頷いた。否定のできない、誰の目から見ても明らかなことだ。だからこそ、首都警察の誘いなど断らなければいけない。みちるにできることはない。
「わかってるならいいだろ。酒浸りの路上生活者なんて雇うわけにはいかない。まして、首都警なら」
三木は押し黙った。なにか言おうと口を開きかけるが、その度に躊躇う。きっと見栄を張るのがくせになった男なのだろうとみちるは思った。
「レアズに対処する新設部隊のために人材が必要だ。首都警内はもちろん、陸軍、他道府県警、そして君の古巣の国土保安局にも推薦できる人物はいないか声をかけたよ」
じゃあおれは保安局の推薦を受けたんだな。
そんな皮肉がふと浮かんだが、すぐに呑み込んだ。元保安局員でホームレスなど保安局のイメージダウンにも繋がりかねないのでこれを機に首都警に押し付けようとしたのだろう。三木もかわいそうな役回りだ。
当の三木は眉根をぐっとよせて気難しい顔でこちらがどんな反応を示すかと待ち構えている。
「保安局は君が消息不明であると注意を添えたうえで君を推薦したよ。SGTでは優秀な隊員だったと聞いている」
「最後はドジを踏んだけどな」
「それも知っている。とにかく、今は人が要る。即戦力になる人間がな」
いよいよやばいぞ。これはとんでもない部隊へのお誘いだ。三木があらたに立ちあげる部隊とはまだ人員の目処もついていない。練度も訓練された過程もバラバラな寄せ集めの吹き溜まりみたいなところだろう。
「もうそういう事には関わらないって決めてるんだ。ご縁がなかったということで帰ってくれ」
「あの時のことが頭から離れないんじゃないか?」三木は気難しい顔のまま言った。「あの時のことに決着をつけたいなら、もう一度戦うべきだ」
気にかけるな。頭の中で念じたが、すでにあの時の光景が再生され始めていた。銃声が一、二、三、四、五。静寂。そして章の死体。時おりあれが本当に起きたことであるのかと思うことをある。もう一度一線に立て? できるわけがない。もう二度と自分の失敗でだれかが死ぬような事態に直面したくない
「いつまでも無理だと嘆いて、過去からも、そして今からも目をそらす日々にさよならを言うべきだ。本当は自分でも気付いているのだろ?」
またあの光景がリピート。やつらにもう一度向き合えば、立ち直れるのか? わからない。
なんとなく、やってみる価値はあるのかもしれないという考えがぽつりと生まれる。
「どんな部隊なんだ?」
「どんな? 部隊の性格について言えば......遊撃部隊といえばいいだろう」
みちるは首を振った。やはりできないだろう。一瞬だけ生じた明るい考えも気の迷いだ。
「帰ってくれ。いくら頼まれてもおれにはできない」
三木はきつく目を閉じてため息をついた。何度か瞬きを繰り返した。
「わかった。今日は帰ろう。その内また来る」三木はスーツの内ポケットに手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。「もしその気になったら、巡回中の警官に声をかけろ。自分の名前を言って、警備部の三木に会わせろと言うんだ。霞が関の本庁舎まで来てもいい。場所は知っているはずだ」
それは本当なのかと言おうとしたが、それよりも早く三木は二人の警官を連れて背を向けていた。