二年前
状況は緊迫しているわけではない。
“目標”は興奮し、手に持った槍のような武器を振り回して早足に同じところを行ったり来たりしている。周辺の住民の避難は済んでいると聞いたが、屋根やベランダがなくなり、鉄筋が剥き出しになった建物しかない廃墟も同然の街に人が住み着いているとは思えない。今いる場所は難を逃れた背の低いマンションの屋上で、その下の通りを見下ろしている。
図々しくコンクリート片を踏み砕きながら歩く“目標”をスコープに捉えながら、都築みちるはまるで意思を持ったような人差し指を落ち着けるように自動装填式狙撃銃--M14 EBRの機関部に押しつけていた。腹這いになり銃把は右手だけで保持し左手は右肘の下に置いてある。冷たい風が絶えず頬を撫でている。灰色の空のせいで一層冷ややかに感じる。
「部隊はなにしてるんです? もう展開してるんでしょう?」
みちるは独り言のように呟いた。緊張を強いられるような事態ではないし、珍しい事でもない。“目標”が自分たちの苦労も知らずにふらふらと歩いているのを心のすみで忌々しく思っているに過ぎない。体の所々が黒く、無機質なものに変化し、背中の肩甲骨辺りからは白く、しなだれた羽がはえているのも醜悪だ。早く片がついてほしいし、そのために自分が引き金を引くことになっても全く構わない。
「展開してるが、天子さまがいらっしゃるまでは囲うだけだろうな」
みちるのとなりで同様に腹這いになっていた観測手の滝田章がやはり緊張感のない声で答える。章は二脚を立てたライフルのスコープではなくスポッタースコープを覗いている。傍らにはM27 自動小銃が置いてあるが、最悪の場合に備えたバックアップに過ぎない。狙撃手として出動すれば章は完璧に調整された、30-06弾を使用するM1500を手に取る。観測手は引き金を引くことに集中する狙撃手にあらゆる情報を提供する。
みちるは鼻を鳴らしただけで返事はしなかった。なにが天子さまだ。
“目標”を通常の火器で倒すことは困難で、一体倒すためだけでも多くの損害が出るといわれているが、実際は違う。理論上、弱点を狙えば拳銃一丁でも倒すことができる。拳銃を使うほどに接近していれば死を覚悟する他になにもできないのが実際ではあるが。
しかし狙撃でなら倒せる。実際みちるは過去に二度、“目標”を倒したことがあり、より長く狙撃手を務める章は四度、仕留めている。決して確実ではなく、みちる自身、両手の指では到底足りないほど、任務中に命を落とした狙撃手の話は聞いているのもまた事実だ。
「あれを倒せば主任との差は一体ですよ」
「そんな差はすぐになくなるぞ。来年度からおれは教導隊へ配属だ」
章が後ろめたそうな表情を浮かべていたのがわかった。
「教導隊? 冗談でしょう。転属希望出んですか?」
章はスコープから目を逸らさずに小さく頷いた。
「来月には子供が産まれる。家内が頼むから一線から外れてほしいって......」
章の言葉が止まるのとみちるがスコープの円い視界の中に異変を見つけたのは同時だった。
「避難は済んでるはずじゃ......」
章は答えずにスロートマイクのスイッチに手を伸ばした。
視界の中に突如表れたのは灰色のボロをかぶった老人だった。ここらを寝床にしていたホームレスだろう。隊員も見逃していたのか。
「排除に移るべきです」
ホームレスは“目標”の前で驚き、座り込んでしまった。
ーーなにしてるんだ。はやく逃げろって。
胸のうちで何十回とそう唱えた後だった。
「排除だ、都筑。“目標を”排除しろ」
章の声は上官らしい、平淡で厳かなものに変わっていた。それに答えるみちるの声も淡々としている。
レティクルの中心に“目標”の顔の右半分を据え、呼吸を止める。視界のブレが小さくなり、中心は“目標”の目のあたりをぐるぐるしている。引き金の遊びを消す。真っ赤な目。スコープ越しにその目とみちるの視線がぶつかった。引き金をそっと絞り落とす。銃声は意識の外にあった。当たったと確信していた。
目から“目標”の頭部に侵入した7.62mm発火弾丸は貫通する前に爆発し、“目標”の首から上を吹き飛ばす。
しかしみちるはその光景を見なかった。真上から頭部に激しい衝撃が加わり頭がさがる。直後に銃声。三、四、五度。
再び無音になった。そっと頭をあげ、観測手の様子を確認した。頭が真っ白になった。
章は自分のライフルを抱えたまま仰向けに倒れていた。“目標”は先を斜めに切って尖らせた鉄パイプを投擲したのだ。章はライフルでそれを防ごうとしたのだろうが、貫通し彼の胸に凶器は深々と刺さっていた。
みちるは動けなかった。下で銃声が聞こえた気がした。