異海の玩具(1)
その後、あたしは数日間寝込んだ――何の事はない、光術の使い過ぎです。
何の訓練もせず、ただただ大きな光術を乱発した報いだった。
光術を使うと中央処理の疲労が、現実の肉体にフィードバックし、脳全体に疲労が蓄積するらしい。体は急激に睡眠を欲し、まるで気絶するような眠りへと誘ってくるそうだ。
確かにあたしは、クーちゃんの無事を見届けた後の記憶がない。
電源を切るように、記憶がぶつりとそこで途切れていた。
どうやら、リーダーに主記憶を貸したせいもあるらしいんだけど、それは秘密だ。何しろリーダーから絶対に内緒にするよう念を押されてるんだから。
「おはよう、りー姉」
目覚めたあたしを迎えてくれたのは、大きなクーちゃんだった。
頭の上に黒い犬を乗せた大きなクーちゃんが笑い、ついで、頭の上に乗った黒い子犬も、おはよう、と繰り返した。そこが定位置になっちゃったんだろうか。
小さいクーちゃんは表情の分かりづらい黒い子犬だけれど、撫でてあげるとちょっと口元を緩めた……気がする。
あたしは思わず笑ってしまった。二人のクーちゃんが、可愛くて。
「おはよう、クーちゃんと……クーちゃん?」
「『オン』だよ。オレがクーで、こいつはオン」
大きいクーちゃんがにこにこ笑う。目尻がへにゃんと下がって嬉しそうな顔になった。
小さいクーちゃんはいまいち表情が分からないけど、肩のあたりに下がっている尻尾が左右に振れているからご機嫌が悪いという事はなさそうだ。
「クーちゃんと、オンちゃん?」
うんうん、と頷いた子犬。どうやら二人は仲良くなったみたい。
弟の本当の名前は『クオン』だから、先にこの世界に来てた弟は『クー』、犬になったちゃった5年前のクーちゃんが『オン』。二人で名前を分けたんだね。
「オンちゃん、大丈夫? リーダーが容赦しなかったから……体、痛くない? 怪我してない?」
「大丈夫だよ。りー姉は心配性なんだから」
ふん、と鼻を鳴らしたオンちゃん。
どうも、あたしの記憶にあるよりちょっと生意気になっちゃったみたい。優しい成分を、大きい方のクーちゃんにとられたせいかな?
大きい方のクーちゃんは穏やかだし、頼りがいがあるもんね。
「ルースは今、ザイオンさんと一緒に共和国の将軍ってヒトと話してるよ。たぶん、オレたちもすぐに呼ばれると思う」
「どうも、ボクの存在が面倒らしいんだよ。人語を理解する光化種が、人に対して敵意を持たずに一緒にいるってのがあり得ないらしくて。それと、なんだっけ、『生命起源説』? とかいうものの動かぬ証拠になっちゃうんだってさ。これからもいろんな人がボクの事を調べたいってきちゃうかも……」
「そっかあ。オンちゃんは光化種になっちゃうんだね」
おいで、と手を伸ばすと、オンちゃんは大人しくあたしの腕に収まった。
ふわふわの毛がとっても柔らかい。光素の気配だったけれど、それ以上に慣れた弟の気配がしていたから抱きしめるととても安心できた。
オンちゃんは尻尾を振り振りしながらあたしのほっぺを舐めた。
「りー姉も寂しかったんじゃないの? ボクもう14歳になるのに、こんなにぎゅーってされるの、子供のころ以来だよ」
「いいじゃん。久しぶりに会ったんだからさあ」
ぐりぐりと頬を押し付けていると、大きい方のクーちゃんがあたしの頭を撫でていた。
目を細めて、嬉しそうに笑っている。
「なんだか、妹と弟が出来たみたいだ」
「じゃあ、三人兄弟だね。でも、クーちゃんだってあたしの弟なんだからね。クーちゃんもオンちゃんもお姉ちゃんを敬いなさい」
そういうと、はーい、なんてクーちゃんとオンちゃんがそろってよい返事をした。
「でも、なんでボクだけ犬なんだろ……」
「かわいいよ、オンちゃん」
あたしの中に安堵が広がっていく。
よかった、これで、やっと泣いている弟を抱きしめる事が出来た。異海の底で眠りについていたあたしを引き揚げた泣き声の主にやっと会えた。
その時、不意に自分の左手が目に入った。
小指の約束。真名の交換――秘密にしろ、と言ったリーダーの真剣な眼差しを思い出す。
左手の薬指にはまった指輪を見て、また頬に熱が戻ってきた。
ううん、違う違う。この世界にそんな習慣はないから。ただ指輪がちょうどはまる指につけてくれただけだから。
そう思っても、胸が苦しくなるのは避けられない。
でも、指輪をじっと見つめていたら、クーちゃんに気付かれてしまった。
「あっ、それ、ルースの指輪だ。何で? りー姉、ルースと結婚するの?」
恥ずかしげもなくそう言うクーちゃん。
ストレートな問いに、息が詰まった。
「ちっ、違うよ! だって、この世界にそんな習慣ないでしょ? これ、リーダーがくれたプロセスが入ってるの。たまたま大きさの合う指が薬指だったから……」
やめてほしい。そんなこと言ってたら、意識してしまうから。
「えーでも、りー姉、嬉しそうじゃん。じゃあ、オレがルースに教えていい? 左手の薬指にそういう意味があるんだよって」
「やめて!」
そんなこと知られたら、しかもそれを喜んでるなんて知られたら、とてもリーダーに合わせる顔がない。
「オレはルース好きだからいいと思うんだけどなあ」
「……ルースってあいつだろ、あの細長いヤツだろ。ボクはヤだよ」
からかうようなクーちゃんと、少し不機嫌になってしまったオンちゃんと。
3人に増えてしまったけれど、あたしたちはとても仲の良い姉弟だった。生まれてから、辛いことも苦しいことも一緒に乗り越えてきた大切な家族だ。
もちろんあたしは気づいてる。
クーちゃんがこの世界に残る決意をしている以上、オンちゃんも留まるしかないって事。
でもそれは少しずつ話をしよう。
お願いだから、あたしがこの世界を去るまで、左手の薬指にはめた指輪の意味を知らないでいて。そして、あたしの気持ちに気づかないで。
優しい優しい、誰より信頼しているリーダー。
その全幅の信頼がいつか、どろどろとした恋愛感情に変わるのなんて、分かりすぎるくらい分かってたから。
まさかそんな重い感情まで、優しいリーダーに押し付けることなんて出来ないよ。
――だってあたしはいつか、この世界を去るんだから。
それでもあたしは、薬指の指輪を毎日撫でながらため息をつく日々を予感した。
そして、ほんの少し〈紡〉の光素が残る手を握りしめた。
あたしは、少しだけでいいからそんな人たちの役に立つことが出来るだろうか。
何も出来ないあたしだけど、一歩だけ進む事は出来るだろうか。
いつか帰るから、と距離を置かずに勇気を出して手を差し伸べることが出来るだろうか。自分に出来る事なんてわからない、なんて言わず、ちゃんと自分で考えて小さなことからでも始める事は出来るだろうか。
例えば、『歌姫』という存在だけで人々の心に安心を与える事が出来るというなら、あたしは誰かのためにもっと歌いたい、と思えるくらいに。
その時、コンコン、と扉がノックされた。
「クォント、入っていいか?」
いいよー、という弟の返事と共に部屋に入ってきたのは、白いケープを纏ったリーダーだった。
リーダーがこちらに気付き視線を向ける。その表情は、あたしを見て明らかに和らいだ。
「ああ、リーネットも起きたか。大丈夫か? 光術の負担が大きかっただろう。光素の調節はしておいたから、眠れば回復すると思うが、辛かったら言えよ」
「うん、ありがとう」
自然に笑いかけてくれるリーダーを見て、いろんな事を思い出した。
レンミッキさんに捕まった後、助けに来てくれた時の熱い手。暗闇に閉じ込められた時に感じた息遣い。絡めた指と、囁かれた本当の名前――
何だかとっても恥ずかしくなってきてしまって、思わずシーツを口元まで引き上げると、リーダーはいぶかしげな表情になった。
ああ、いつもの顔に戻っちゃった。
穏やかそうに笑うリーダーがとっても好きなのに。
リーダーはあまり気にせず、クーちゃんに声をかけた。
「クォント。少し来てくれるか? 将軍に呼ばれている。『オン』、お前も一緒だ。もし動ければリーネットからも話を聞きたいと言われているが、どうする?」




