足跡化石(1)
外に出るために装備を整えていたあたしは、気づいた。
ない。
愛用している、青い柄の岩石ハンマーが!
腰のベルトには革製のケースだけが残されていた――そうだ、昨日、あの〈光化種〉とかいうへんな生物に襲われて、その時に落としたんだ!
師匠に買ってもらった部の備品なのに!
「クーちゃん。昨日の河原にハンマー置いてきちゃったんだけど、取りに行っていい?」
弟はいいよ、と返事をして、河床に向かって歩き出した。
ここは、数百人程度が住むだけの場所で、街というより村に近い。最初に宿に入った時に西部劇みたいだ、と思った印象そのまま。
シャツにベストに不思議な模様が刻まれたケープ。足下は丈夫そうなブーツを履いている人が多かった。これでテンガロンハットなんて被っていたら完璧なんだけど、どうやらあんまりそれは一般的じゃないみたいだった。
ますます西部劇だ。保安官でもいるんじゃないだろうか。
そう言うと、クーちゃんは頷いた。
「いるよ、保安官みたいな人。『自警団』って呼んでるんだ。それぞれの町に国から派遣された行政組織の『国営ギルド』があってね、自警団はその下についてる。治めてるのは国だけど、町ごとに駐在所があって、その土地に住む人が取り締まってる感じかな」
こう見えても一応、3年前から法治国家になったんだよ、と弟は言う。
法治国家って、なんだっけ。
誰にも縛られない法律があって、その法律に沿って秩序立てるのが『法治国家』、だっけ? 王様が治める『人治国家』と反対の意味になるって社会で習ったような、気がする。
あたしは生物とか地学は得意だけど、社会はとっても苦手なのだ。
「もしかして、クーちゃんもその自警団なの?」
「うーん、厳密にいうと違うんだけど、やってる事は一緒。所属する組織が、国営ギルドじゃなくて、共和国の中央議会だってだけ」
「それって違うの?」
「地方公務員と国家公務員くらいの違いかな」
中学生だった弟が、今や国家公務員。5年という時の流れは残酷だ。
共和国から派遣される、平和を守る騎士――その響きであたしが思い出したのは、フォースを使って銀河系の自由と正義を守る共和騎士の姿だった。
「じゃあ、昨日、クーちゃんが使ってた〈ライトセイバー〉は、もしかして共和国のヒーローの武器なの?」
「違うよ。あれは、ルースがオレのために特別に作ってくれたんだ。この世界の人間じゃないからかな、オレって、〈光術〉っていう魔法みたいものが一切使えなくてさ。でもそれじゃ、光術師と戦うときに困るからって作ってくれたんだ」
光術師と戦うこともあるんだね……
さらりと物騒な事を言う弟に、あたしは胸のどこかに小さな痛みを感じる。
「まあ、光術が使えない分、攻撃的な光術も全然効かないから便利っちゃ便利なんだけど」
いま、さらっとすごい事を言ったような。
つまり、弟は魔法が全く効かない体質ってことでしょ?
「その代わり、オレは〈光術〉の素養がいっさいないけど、理論は全部、隅から隅まで学んだから。何でも聞いて! 光術製品の設計だって得意なんだよ!」
ふふん、と胸を張った弟はひとまずさておき、あたしは目の前に迫っていた河床に釘付けになった。
「あっ、ここだ! 足跡化石を見つけた河原!」
「……聞いてよ、りー姉。相変わらず、オレの話、聞いてくれないよね」
昼間、太陽の下で見ると、その河床の広さに感動した。日本は土地が狭くて急峻な地形が多いから、平野が少なく、地層が幅広く分布することもない。
ところがこの場所はどうだ。映画でしか見たことのないような、見渡す限りの河床。川の上流には緩やかな山地がある。あたしと弟が落っこちた異世界というのは、どうやら潤沢な大地を有しているらしい。
素晴らしい! もしかしたら夢のような景色が見られるかもしれない。
日本では絶対に見られなかったグランド・キャニオンやフィヨルド、桂林の山々のような広大なカルスト地形。壮大な光景が見られる予感にあたしは打ち震えた。
ああ、〈カメラ〉が欲しい。どうしても、〈カメラ〉が欲しい。
写真を撮って、師匠にも見せたい!
「ねえ、クーちゃん。この世界に〈カメラ〉ってないの?」
「うーん……聞いたことないなあ。作る技術はありそうだけど」
弟曰く、細かい部分は異なるが、この世界の文明はだいたい産業革命後くらいのものらしい。
だとしたら、確かに微妙かもしれない。
「後でルースに相談してみるよ。ルースなら、仕組みさえ説明すれば何でも作ってくれるから。〈ライトセイバー〉もね、オレが記憶を頼りに説明して、かなり高い精度で作ってもらったんだ!」
「へえー」
あたしは好き嫌いの多い、口の悪い王子の姿を思い出しながら、いぶかしんだ。
あの人が工作したりするのかなあ?
「ルースは光術師なんだ。それも、すっごいレベルの。ゲームで言えばカンストしてるレベル。光術に関しては、天才って言ってもいいよ。頭もいいし、強いし、いいやつだし。ルースがいなかったら、オレ、何度か死んでただろうし。りー姉も困ったらルースに相談するといいよ」
相棒を自慢して、再び胸を張った弟はひとまずさておき、あたしは河床に降りた。
きょろきょろと見渡し、あたしはすぐに青い柄のハンマーを見つけた。
そして、昨日発見した足跡が、無惨にも破壊されている様子が火の元にさらされていた。
「……そうだった。昨日、あのへんな生き物に壊されたんだった」
追いかけてきた弟は、かりかりと頭をかいた。
「光化種相手じゃ、しょうがないよ。りー姉が怪我しなくてよかった。大型になると、光術を使ってきたりするんだよ? 昨日のは小型だったからせいぜい触手を振り回して傷つけるくらいだけど」
「それにしたってひどいよ……!」
あたしは怒りに打ち震えていた。
これは、大切な大切な過去の遺産だ。ロマンだ。ずっと昔、ここにいた生物が残した生活の痕跡なのだ。
それを、事もあろうにこんな風に踏みにじるなんて……!
ぐっと拳を握りしめた。
が、その時、弟は不意に耳をそばだてた。まるで獣のように、周囲を見渡す。
「姉さん、ここにいて」
「どうしたの?」
弟は、ダンゴムシのような光化種が現れたあたりの草むらに入って行った。
いったい、何を見つけたというのだろう?
と、不意に風向きが変わった。
風に乗ってきたのは、あたしも知る匂い。吐き気をもよおすようなひどい匂い。鉄錆から、腐敗した肉の匂いに代わる。
獣でも死んでいるのだろうか。
弟のいいつけを守らず、あたしは草むらに入って追いかけた。
そこには男の人が一人、倒れていて、クーちゃんはその傍に跪いていた。
「……ダメだ」
弟はため息をついた。
ダメだ、ってどういうこと?
あたしは呆然と立ち尽くした。
「この町の自警団の人だ……ってことは、ルースが調べに行った組織の、新しい犠牲者なのかも」
ごろりと転がされたその人の胸には、大きな丸い穴が開いていた。血は流れきって、固まっている。全身も硬直していて固く、動かない。死んだ人って、こんなにも固くなるんだな――呆然と、あたしはそんなことを思う。
山の中で、シカやイノシシ、犬や猫の死体はよく見ていても、人間は初めてだった。
動かなくなってしまっている男性を見て、全身の血がさぁっと引いていき、指先が震えた。
青ざめたあたしを見て、弟ははっとした。
「ごめん、りー姉」
心臓の音が耳元で鳴り響いている。
喉元にせりあがる感情が、悲しみなのか怒りなのか、それとも他の何かなのかは判別できなかった。
ただただ、自分が動揺していることだけ感じていた。
「戻ろう。ルースに知らせなくちゃいけないし……りー姉は、少しだけ休んだ方がいい」
そう言って笑った弟は、今にも泣きそうな顔をしていた。
でも、死体に動揺している様子はなく、それがますますあたしを動揺させた。
分かりたくない。
知りたくない。
弟が5年間、泣きながら、助けを呼びながら暮らしていた世界では、死がとても身近なものだったなんて。
日本という安全な国で、戦争のない国で、死体が一つ出れば大事件になる国で育ったあたしは、すぐに受け入れることはできなかった。
ただ動揺する自分を知り、動揺しない弟を知り、そこに横たわる時間と認識の大きな差を認めざるを得ない状況に追い込まれていた。




