異世界と再会(3)
ルースが新しく部屋を一つとってくれたらしい。
男女で別れるかと聞かれたが、あたしは弟と一緒でいい。話したいことはたくさんあった。
それより何より、クーちゃんがずっとあたしを抱き上げたまま離そうとしない。あたしにとってはすぐだけれど、クーちゃんにとっては5年ぶりだもんね。寂しかったよね。
5年間一人だったという弟が、あたしの傍を離れようとしないのは、くすぐったくも嬉しいものだ。
うんうん、もっとお姉ちゃんを頼ってくれていいんだよ!
本当なら弟が寝るはずだった堅い寝台に寝転がると、途端に眠くなってきた。いろいろ話を聞きたいけど、あんまりお話はできそうにないな。
せめて。
あたしはクーちゃんに向かって手を伸ばした。
「寒いんだから一緒に寝ようよ、クーちゃん。少し前まで一緒に寝たじゃん」
あたしたちは、父親から苛められて傷が痛む夜や、心が痛くて眠れない夜には、手をつないで一緒に寝ていた。
クーちゃんが中学生になってからは断られていたけれど。
「えー……でも、オレはもう子供じゃないんだけど」
「いいの。弟なんだし、5年も一人だったんでしょう? おとなしくお姉ちゃんの言うことを聞きなさい!」
あたしが主張すると、少し迷った後、弟はおずおずと寝台に乗り上げた。
「……もう子供じゃない、の意味、分かってる?」
ぶつぶつとつぶやきながら。
でも、小さくて華奢だった弟は、しっかり男性の骨格に成長していた。不思議だ。あたしの感覚では、さっきまで中学生だったのに。
子供みたいに頭を撫でてくれる手が優しいけれど、どこか艶めかしいような気がして、ドキドキした。
「クーちゃん、5年間どうしてたの?」
「うーん、いろいろ」
弟は言葉を濁した。
「きっとそのうち話すよ。戦争に行ったり、国に追われたり、大変だった」
「戦争?!」
思わず叫ぶと、クーちゃんは静かに、とあたしの唇に人差し指で蓋をした。
「おかげで、いろんな事が出来るようになったんだ。この世界ではオレが先輩なんだから、りー姉を守ってあげるよ」
「何言ってるの。お姉ちゃんが来たからには、どんどん頼っていいんだからね」
「でも、りー姉が頼りになった事なんてないもんなあ」
「嘘だよ。あんなに泣き虫だったくせに!」
「いつの話してるんだよ、姉さん。やっぱりオレのこと、いつまでも子供だと思ってるでしょ」
弟は呆れたように言った。
そこであたしはふっと家の事を思い出した。
「でも、あたしもクーちゃんもいなかったら、お母さんが心配だなあ」
ため息をつくと、クーちゃんは不意に静かな声になった。
「……姉さんは帰りたい?」
そう問われて、口を噤んだ。
当たり前に帰るものだと思っていたから。
「実は、オレはもう、半分諦めてたんだ。5年経ってると思ってたから、もう戻ってもどうしようもないなあって。でも、リー姉が5年前のままだとすると、案外、向こうもそんなに時間が経ってないのかもね」
あたしにとってはついさっきの出来事。
リビングに漏れ出した光を思い出す。化石採集から帰ってすぐ、光の本流に飲み込まれて、そのまま。
いったい何が起きたのか、全然わからなかった。
「そういえば、男の人がいた気がするけど、あれは誰だったんだろう。クーちゃん、わかる?」
「知らない。知らない人だったよ。でも、あいつが何かしたのは間違いないと思う」
手がかりが全然ない。
落っこちたのが突然すぎて、何が起きたかもよくわからないのだ。
「でも、手がかりがないわけじゃないよ。少し遠いけど、この国で一番の研究所があるんだ。オレとルースもそっちに向かってるところだから、ひとまずはその研究所を目指そう。この世界は飛行機とかないから、少し時間がかかっちゃうけどね」
「そうかあ……」
でも、完全に手詰まりってわけじゃない。
クーちゃんも5年分、この世界の事を知っているわけだし。
「大丈夫だよ、りー姉。姉さんだけは、オレが絶対に元の世界に返してあげる。絶対だよ。安心して」
でも、その言葉であたしは不安を覚える。
もしかして、クーちゃんは帰りたくないの、と聞きそびれてしまった。
それが5年経ってしまったからなのか、あの家に帰りたくないからなのか、それとも別の理由があるのか、あたしにはわからなかった。きっと聞かないほうがいいと思った。
問題は、先延ばしでいい。
明日、起きたら考えよう。
ひとまずあたしは、降りてくる瞼に身をゆだねた。
「おやすみ、りー姉」
弟の声を耳元に聞きながら、その大きな腕の中にもぐりこんだ。
「……りー姉、あんま近寄らないで。姉さんは、胸が大きいからすごい気になる。オレがハツジョーしたらどうするの?」
「クーちゃんはそんなことしないでしょ。今日くらい、我慢してよ」
「リー姉、他の人にそんな風にしちゃダメだよ。りー姉はちっちゃくて可愛いから、すぐ誰かに騙されて連れていかれそうで心配」
「こんな風にするのはクーちゃんだけだよ」
そう言って胸元に抱き付くと、弟はあきらめたようにあたしの背に手を回した。
「……じゃあ、オレも、今日だけは甘えさせて。本当は、寂しかったんだ」
「いいよ、お姉ちゃんに甘えなさい」
そう言うと、弟はあたしの髪に顔を埋めて安心したように息をついた。
ずっと強がっていた弟が、ようやく力を抜いたようで、あたしは安心する。
戦争に行ったり、国に追われたり。弟の口からは物騒な単語がいくつも出てきていた。
あたしの知らない5年間。
弟を育てた5年間。
だって、あたしをあの暖かな場所から引き揚げた泣き声は、クーちゃんだったんでしょう?
一人で寂しくて、泣いていたんでしょう?
「オレ、たぶん、りー姉が思ってるよりずっと強くなったからさ。姉さんもたまには、オレに頼ってよ」
悲鳴のような声に答えるには、あたしは眠くなりすぎていたけれど。
それでも、大人になってしまった弟からは、少しだけ、知らない匂いがした。
次の日は快晴だった。見上げれば、あたしが知る日本の空よりも色が濃い。夕焼けとは言わないが、どこかオレンジ色がかった空の色。確かに、夜空も少し赤みがかっていたのを思い出した。
隣でおはよう、と笑う弟に、おはようと笑い返した。
異世界だのなんだの、このよくわからない状況でこれだけよく寝られる自分の神経の図太さに感謝する。
でも、一晩寝て起きて、ほぼ確信した。
この現実味のある感覚に。開けられた窓から入ってくる風も、瞼をさす太陽の光も、弟の体温も、すべて本物だ。
でも、変な世界だ。何しろ空は赤っぽいし、月は3つあるし。
これって、暦はどうなってるんだろう?
それに、月が多ければ潮の満ち干も相当変わってくると思うから、海の地層の堆積の仕方が違うかもしれない。機会があれば、潮汐堆積物も観察したいなあ。
二人で一階に降りると、とてもいい匂いがした。ウィンナーを焼いているようだ。
宿の裏の井戸で顔を洗って戻ってくると、すでに朝食の並んだテーブルに、ルースが座っていた。眠そうにあくびをしながら、あたしたちの姿を見つけて手を挙げた。
席に着くと、既に机の上にはいくつか皿が並んでいた。皿に乗っているのはロールパンとウィンナー、それにスクランブルエッグ。湯気の立つカップには、淡い緑色のスープが注がれていた。
「おいしそう!」
いただきます、と手を合わせると、弟とルースは両手を組み合わせ、祈りを捧げた。何やら神様に祈ったようだけど、あたしにはわからなかった。
この世界の人間であるルースはともかく、弟がその文化に染まっていることに、あたしは軽く驚いた。
「ルース。今日なんだけどさ、りー姉と一緒に街を歩きたいんだ。いろいろ説明しなくちゃいけないこともあるし」
「構わねーですよ。ギルドの報告も調査も、俺一人で十分だ」
ルースはそう言いながら、スープの中に入っている緑のアスパラのような物体を、器用にフォークで拾って弟のスープに放り込んでいた。
いったい、何をやってるんだろう?
あたしは緑のスープを口に運ぶ。下の上で少しざらつく、これはきっと豆のスープだ。中に入っているのはやっぱり、アスパラのようだった。
「ルースさん、もしかしてアスパラ嫌いなの?」
「ああ」
事もなげに返答されてびっくりする。
「好き嫌いはダメだよ?」
「いいだろ。何を食べるかなんざ、俺の勝手だっつの」
そう言いながら、最後のアスパラを弟の目の前に突き付けた。
弟は慣れたようにそのアスパラを口に含んだ。どうやら、いつもの事らしい。
結構いい歳の男の人なのに、嫌いなものを相手に押しやるなんて、まるで子供だ。見た目は王子なのに……きっと残念な人だ。あたしは、第一印象からルースの性格を書き換えた。
「すでに犠牲が数人出てるって話だから、すぐに見つかるだろう。こんな田舎で、光術痕を完璧に消せるような使い手がいるとは思えねーからな」
「いいよ、ルース。オレの事は放っておいて。捕まえたらギルドに引き渡しちゃって」
「りょーかい」
さっき、簡単に聞いた。軽く打ち合わせた二人は、とても息が合っているように見えた。
相棒、って言ったのは本当なんだな。
あたしは、弟が5年間孤独だったわけじゃないことにふと安堵した。
 




