異海の歌姫(2)
ずきん、と胸が痛んだ。
ゆっくりとしか動かない手を胸元に当てると、すでに誰かの手があたしの胸の上に置かれていた。
「……クーちゃん?」
ぼんやりとその名を呟いたが、返事はない。
優しいその手は、あたしを傷つけるものではなかった。
あたしは胸元に添えられた手を握りしめ、目を開けた。
最初に見えたのは金色。柔らかい糸のような髪があたしの頬にかかっていた。髪の感触がくすぐったく、思わず頬をゆるめた。
が、すぐに気づいた。
これはクーちゃんじゃない。
驚きに息を吸い込んだ瞬間、胸の中心が刺すように痛んだ。
「……っ」
痛みに耐えるように、胸元に置かれていたリーダーの手を握りしめた。
そして、思い出す。
あたしは、突然現れた知らない女のヒトに、刺されたんだった。闇夜に映える青い髪が瞼の裏に焼き付いている。
底冷えするような殺意が今も肌を浸食しているかのようだ。
ご主人様は、歌姫が好きだから。
歌姫を追って、異海を渡ろうとするくらい。
彼女の声が耳に残っている。
昼間、町のステージで歌ったあたしを見て、きっと追いかけてきていたんだろう。ぜんぜん気づかなかった。
心臓の鼓動が速い。
脈にあわせて、痛みも寄せては引いていく。
ああ、歌姫って何なんだろう。
あの女性の言葉から察すると、異海の向こうからやってくるようだけど。
リーダーは、珍しいがいない訳じゃない、って言ってた。そして、これまでの歌姫は例外なく人々の為に力を使った、って。
まるで、いろんなファンタジー小説に記される、異世界から召喚された女の子のように。
「……歌姫なんて、望んだわけじゃないのに」
この世界が怖かった。
当たり前に死が隣にあるような、当たり前に命の危険があるような、こんな世界。
実際に自分に殺意を向けられ、武器を向けられ、傷つけられて。
クーちゃんは、この世界を受け入れたの? それとも、受け入れられなかったの? だからずっと、今も、泣き続けているの……?
暗い考えが心の中で重石となって、感情を沈めていく。理解不能な、あまりに理不尽な出来事に心が折られてしまいそうだ。
頑張って演じるって決めたのに。
すぅっと涙が伝う。
ああ、泣くのなんて何年ぶりだろう。
あたしの家が、普通じゃないって気づいたあの時以来だろうか。
あのときは、絶対にクーちゃんにだけは見られないよう、近くの河原で一人、泣いたのだ。橋の下に座って、膝に顔を埋めて、ただ涙を流した。
あの時も、泣いた後に決めた。
クーちゃんのためにあたしは、明るいお姉ちゃんを演じ続けるって。
弟に見つかる前に泣きやまないと。
そう思ったけれど、涙はそう簡単に止まりそうもなかった。
そしてその時、リーダーもうっすらと目を開けた。
「ああ、リーネット。起きたのか。大丈夫か?」
と、そこでリーダーは、あたしが彼の手を握りしめたまま泣いている事に気づいたようだ。
とても優しい瞳で笑って、あたしの頭をなでた。
「怖かったんだな。すまなかった。俺がもっと早くにお前の元に着いていたら、こんな目に遭わせなかったのに」
違うよ。
あたしが悪いの。
勝手に勘違いして、勝手に駆け出して、あげく、危険な場所に自ら飛び込んで、リーダーにこんな心配かけて。
だめだよ、リーダー。
そんな風に優しくされると、あたしはきっといつか我慢できなくなってしまう。
「……ごめんね、リーダー」
声はかすれていた。
息を吸う度に胸は痛いし、声を出すだけで苦しい。
「……でも、そんな風に優しく心配されたら、あたし勘違いしちゃうよ?」
「それの何が悪いっつーんだ。弱ってるときくらい、甘えとけ」
そうやって、リーダーもクーちゃんもあたしを甘やかすのだ。
あたしがもう後戻りできなくなっちゃったらどうするの?
儚げな母親を一人、向こうの世界に残してしまう決断をしちゃったらどうするの?
「まだ治りきってねーですよ。もうちょっと、我慢してろ」
リーダーは再び治癒光術の言霊を唱える。
いつも光術を使ってもケロリとしているのに、今は珍しく疲労しているように見えた。あたしを治すために、無理をしているのだ。そのまま少し、眠ってしまうくらいに。
温かい光素がゆるゆるとリーダーの手から流れ込んできて、全身を巡っていく。
優しさに包まれて、涙も少しずつ乾いていった。
どうしてこの人はこんなにも優しくしてくれるのだろう。
「……リーダーは優しいね。優しすぎるくらい、優しい」
「お前が泣いてると、クォントが悲しむからな」
そうだよね、クーちゃんのためだよね。
リーダーがあたしにやさしいのは、大事な相棒の家族だからだ。
「あいつは今、国営ギルドに報告にいった。俺がお前の治療から離れるわけにいかねーからな。起きたら呼べって言ってたが、このままじゃ呼べねーんですよ。あいつ、ブチ切れてあの女を半殺しにしてたからな」
リーダーが淡々と告げる。
予感がする。
もしあたしがいつか迷うとしたら、それはきっとこの人が原因になるという予感。
この人はきっといつかクーちゃんよりも大きな理由になる。
いつかあたしが世界に迷ったとき、この人は同じように迷ったりするんだろうか、と思う。
きっと迷わないだろう。
見た目だけ王子で、中身は子供のこのヒトが、あたしと同じように思ってくれるとは思わない。
それでもリーダーは当たり前のようにあたしの目元の涙を指で拭う。
他の女の子にも、そういうことするのかなあ?
しそうだなあ。
全然、何も考えてなさそうだもん。
芽生え始めたこの感情を、優しいこの人に気づかせたくない。
そう思ったら、ちくりと胸は痛んだが、悩んでいた心に蓋をする覚悟はできた。
「もう、大丈夫か? そろそろクォントに知らせるぞ」
「平気だよ」
軽く笑うと、リーダーもほっとしたように笑い返してくれた。
リリン、と鈴が鳴って――リーダーの両手はあたしに当てられていたままだったから、きっと光術を使ったのだろう――すぐに部屋の扉がばたん、とあけられた。
「りー姉!」
駆け込んできたのは、あたしの大事な弟だ。
「りー姉、りー姉……よかった、生きてる」
あたしの傍にひざまずいて、顔をくしゃくしゃにゆがめた。
「クーちゃん、あの女のヒトにひどい怪我させたんだって? ダメだよ、むやみに人を傷つけちゃ」
「でも、あの女はりー姉を殺そうとしてた」
ヒヤリとした空気をはらむ声。
一度だけ聞いた、あの声だ。クーちゃんと同じとは思えないくらいに冷たい声。
あたしの心をすぅっと冷やす声。
「もしりー姉が死んでたら、こんなもんじゃすまなかったよ。あいつも、その後ろの組織も、それから原因になったこの町も、この国も、この世界も。全部ぶっこわしてやったのに」
淡々と告げる弟の言葉に、あたしは悲しくなる。
「そんな事、言っちゃダメだよ」
ふるえる手を伸ばして、クーちゃんの頭をゆっくりと撫でる。
「びっくりさせてごめんね。今度はお姉ちゃん、簡単に刺されたりしないからね」
そう言うと、クーちゃんはだだっ子のように首を横にぶんぶんと振った。
「いいんだ。りー姉はオレが守るんだから」
この世界に着いた時と同じ台詞。
クーちゃんだって、いっぱい傷ついてるはずなのに。きっとあたしと同じように、この世界に住むたくさんの人たちと同じように、ずっと危険にさらされてきたはずなのに。
――でも、クーちゃんはこの世界を選ぶつもりでいるんだろうな
「ねえ、リーダー」
「何だ?」
「少しだけ、クーちゃんと話がしたいの。二人だけで」
「ああ、構わねーですよ」
でも、治療が終わってないからすぐに戻るかなら、と言ってリーダーは部屋を出て行った。
「りー姉、痛い?」
「もう平気だよ。リーダーが治してくれたもん。すごいね、光術って」
うそだ。
今も、息を吸うたびに胸の傷は刺すように痛む。
それでもあたしは弟に笑いかける。
「それより、クーちゃんの方が危ないよ。だって、治癒光術も効かないんでしょう? もし怪我したら、あたしみたいにこんなに簡単に治らないんだよ」
「りー姉が怪我するくらいならオレが傷ついた方がいい」
「クーちゃん、そういうのはやめなさい。お姉ちゃん、悲しいよ」
ずっと寄り添って生きてきた。
ずっと一緒に暮らしてきた。
でも、もしかすると、あたしたちは道を違えるかもしれない。
「ねえ、クーちゃん。何か隠してるでしょう?」
あたしは不意に切り出した。
「あのステージで歌った紡ぎ歌を、お母さんから教えてもらった、って言った時、クーちゃん、ちょっと変だった。それに、あたしを刺した女の人がね、歌姫の話をしたの」
クーちゃんは、普段あまり動かさない表情を少しだけ変えた。
それだけで、姉であるあたしにはクーちゃんの動揺が伝わってくる。
「クーちゃんは何を知っているの?」
 




