異世界と再会(1)
誰かが、あたしの事を呼んでいる気がした。
声にならない声。
音ではないソレを、あたしは心で捕えた。
茫として浮かび上がる意識は、どこか霞がかって晴れないが、縋る様なその声を、叫びを、感情を、そのままにしてはおけなかった。
――起きてしまったら、すべて思い出してしまうよ?
辛うじて覚醒した理性が、片隅からそう告げてくる。
――それでも、いい。
即座に心が返答した。
あの子を泣かせたまま、あたしは眠れない。
そして、暖かで穏やかな時が満ちた場所から、あたしは浮上した。
***
肌寒い空気が喉を刺し、はっと目覚めた。
冷えた地面に寝転がっている。リビングの床ではない。これは、地面の感覚だ。
ゆっくりと手足を動かし、上体を起こす。
「……どこだろ、ここ」
昼間、足跡化石の発掘に行った河床によく似ていた。粒度がそろい、のっぺりとした肌触りのよい砂岩が地面を覆っている。その土を割るように背の高い草が点々と生えていた。数メートル先で崖になっているようで地面が途切れていたが、その向こうからは、川の流れる音がする。
それ以上先が見えないのは、この場所が暗いからだ。
光源を求め、ふっと空を見上げたあたしは、赤みがかった紺色の空に月が浮かんでいるのを見た。
しかし、そこで驚きに目を見張った。
ぽっかりと浮かぶ満月。
光を放つその円が、なんと空に3つも浮かんでいたのだ。
3つの月とあたしの間を、草の匂いのする風がふっと駆け抜けていく。
「……もしかして、夢なのかなあ」
ぼんやりと呟いたところで、一つ、くしゃみ。
季節は分からないが、少し寒い。昼に調査する時に日よけに羽織っていた薄手のパーカ一枚では寒さをしのげないようだ。
まあでも、ここが夢の中なら、寒くたって風邪もひかないだろう。
「よし、調査しよう!」
新しい地層を見たら、まず観察やー! 師匠の声が耳元で聞こえる気がする。
あたしはほとんど癖のようにその場にしゃがみこみ、地面を調べた――その地層は、昼間に足跡調査をした河床とそっくりだった。
「ということはもしかして、足跡の化石もあるかも!」
腰を撫でると、愛用の岩石ハンマーとサイドバッグが下がっていた。いつも背負っているリュックサックはないようだけれど、ここが夢なら、欲しいって言ったら手に入るかも。
あたしは両手を広げ、空に向かって叫んだ。
「夜間調査用のヘッドライトと、〈ねじり鎌〉と地面を割るための平型の楔をください!」
しーん。
静まり返った周囲に、あたしは急に恥ずかしくなる。夢にしたって、あまりに安直だった。反省。
手元の道具だけでなんとかしよう。
あたしはサイドバッグからグローブを取り出して装着し、岩石ハンマー片手に周囲を歩きだした。
「足跡の化石……ないかなあ」
夢の中とはいえ、新しい地層を探索できるなんて、あたしはツイてる。
「足跡~、足跡~」
目を皿のようにして地面を確認しながら進んでいく。
わくわくしてきた。
自然と小さな声で歌いだしてしまうくらいに。
英語の授業で習った簡単な英語の歌。
君は僕の太陽だ、と恋人を讃える歌。でも、歌い手の彼は彼女に知られないよう呟くのだ――僕が君をどれだけ愛しているか、君は知ることはないだろう、と。
その部分に差し掛かると、どうしようもなく胸が苦しくなる。歌い手がそれでも彼女を深く思う気持ちに同調して。
でも、歌を歌ったせいか、さっきまですごく寒かったのに、ぽかぽかと暖かくなってきた。
そして、あたしはふと気づく。
自分の体が薄く発光していることに。
「さすが夢の中だなあ」
空に向かってヘッドライトを頼んだ時には落ちてこなかったけれど、自分自身が発光して灯りになるなんて。
自分の周囲が明るくなった事で、少し先まで見渡せた。
そして、周囲をぐるりと確認したあたしは、目当てのものを発見した。
「あったー! 足跡だ! これきっと足跡だよ、師匠!」
今は隣にいない師匠に、報告しながら駆け寄る。
生物に踏み固められ、上の地層が下に向かって入り込んでいる。周囲は細かい砂と粗い砂の互層になっていた。
あたしはすぐにその場所にしゃがみこんだ。
足跡は掌くらいの大きさだ。それが、点々と一列に並んでいる。この規則性は足跡に違いない。指が3本ありそうだから、鳥だろうか。それとも、奇蹄類?
いやいや、まてまて、慌てるな。まだ足跡と決まった訳じゃない。
大きく深呼吸。
「まずは形の確認。爪とか蹄の跡が残っていれば完璧なんだけど……」
足跡化石と思われるくぼみの側に座り込み、粗い砂を取り除く。
ああ、リュックサックの中に入っていた刷毛があれば、すぐに終わるのに!
あたしは、夢の中だという事も忘れて、足跡らしきそのくぼみのクリーニング作業に、文字通り夢中になった。
ところがその時、耳を貫くような甲高い悲鳴があたりに響き渡った。
すさまじい音に脳を揺さぶられ、痛みを伴って突き抜けた。
「な、なに……?」
その音に、さすがのあたしも顔を上げる。
初めて聞く音だった。若い人たちにしか聞こえないっていうモスキート音のように、不快感と痛みを伴ったその音。
音の方向を見ると草むらの向こうから、がささ、と何かが近づいてくる音がする。あたしよりも巨大な生き物だと思って間違いない。
「クマ?」
しかし、あたしの目の前に現れたのは、全く見たことのない生物だった。
半透明で、キラキラと淡い月の光を反射する、虹色の生命体。大きなダンゴムシのような形をしているが、大きさが数メートルはあるし、その装甲の隙間からは、多くの触手が四方八方に伸びていた。
心臓がぎゅっと捕まれる感覚。
この生物はきっと友好的ではない、とあたしの中の何かが告げている。
案の定、その生物の触手がしなるように動き、あたしの足元を直撃した――よりによって、あたしが今、掘っていた足跡化石の場所を!
「何するのー!」
恐怖より先に怒りが飛び出した。
大事な足跡化石が、意味の分からない生き物に破壊されるなんて!
あたしは自分の身の安全も放り出し、その半透明な生き物の前に躍り出た。これ以上、この露頭を破壊させたりなんてしない!
とはいえ、あたしは無力だった。
振り下ろされる触手になす術なく、脳天をかち割られてその場に死体がひとつ転がる……はずだった。
でも、そうなる前にあたしの前にはすごい速さで人影が飛び込んできた。
「りー姉っ!」
鋭い声と共に飛び込んできたその人は、触手を慈悲なく切断し、あたしの前に立ちふさがる。
その人が手にしていたのは、鈍色の筒、そしてそこから伸びる赤黒い光だった。
あたしは、あれを知っている。
「〈ライトセイバー〉だ!」
フォースを使って銀河系の自由と正義を守る共和騎士の持つ武器だ。
その人は、続けざま、振りぬかれた触手をすべて切り捨てた。
「ルース!」
「分かってる」
若い男性の声と共に、目の前の生き物があっという間に炎に包まれた。
「……え?」
呆然となっているあたしを、飛び込んできた人影が躊躇なく抱き上げた。
ふいに体が浮き、視線が高くなる。
そして、呼ばれた名前。
「りー姉っ……」
その名前を呼ぶのは一人しかいない。
そして、抱き上げられたまま見下ろすと、そこには見慣れた弟の顔があった。
「……クーちゃん?」
首を傾げながら名を呼ぶと、肯定するように目の前の少年――とはもう呼べなくなった、すっきりとした切れ長の目の青年が微笑んだ。
いや、確かに弟の面影があるのだ。黙っていると寡黙な印象を受けるのに、笑うとへにゃんと下がる目じりも、唇の左下あたりにぽちりとホクロがあるのも、記憶にある弟と同じものだ。前髪を止めているのも、あたしが誕生日にプレゼントした歯車モチーフのヘアピン。
何より、毎日見ている弟の顔を、あたしが見間違う筈もない。
これはどういう事だろう?
「何で? クーちゃん、髪の色どうしたの? こんな真っ白になって……急に不良になっちゃったの? 声も低いし、それになんだか大人っぽくなってる」
おかしい。
まず、弟の身長がおかしい。あたしが高校生にしては小柄だという事実を差し引いても、身長差がありすぎる。それに、髪は脱色したように白くなり、瞳の色も赤茶けてしまっている。
羽織っている見慣れない意匠のケープには羽根をモチーフにした刺繍が為され、中に着ているベストもセピア色でどこかレトロな雰囲気だ。
だって、ここはあたしの夢の中で、そしてついさっき、自宅のリビングで――
と、そこでようやくあたしは気がつき、立ち上がった。
「あっ、クーちゃん大丈夫?! 知らない男の人がいたでしょ! クーちゃん、捕まってたみたいだったし」
その言葉を聞いて、弟はにっこりと笑った。
「姉さんは変わってないね……5年前に、別れた時のまんまだよ」
「5年?」
「オレはりー姉と別れてから5年経ってるよ。オレはもう19歳なんだ。姉さんはもしかして、違うのかなあ? もし姉さんがまだ16歳なんだとしたら、うん、オレの方が年上になっちゃったかも」
ええと、これは、夢だよね?
「それにここ、実は地球じゃないんだ。全く別の世界なんだよ、姉さん」
「……えっ?」
弟曰く、あたしは5年後の異世界に、突然落っこちてしまったらしい。
意味が分からない。
でも、とりあえずごめんなさい、師匠。
明日の約束は守れそうにありません。
何しろこれが夢にしろ、夢じゃないにしろ――一晩で解決できるとは、思えないからです。




